昨日は、山科の人間国宝宅へお邪魔して、いろいろ話を伺ってきました。人間国宝は、8月、9月連続して行われた東北支援の鉄道写真展に、たいへん貴重な写真の数々を展示されましたが、「大槌の鉄橋の写真がいちばん思い出深いです」と述懐されていました。ご承知の方もおられると思いますが、山田線大槌~吉里吉里間の大槌川橋梁は、東日本大震災の大津波で流出し、橋脚だけが残った無残な姿となりました。人間国宝は昭和40年前後に、その橋梁上を行く列車を撮っておられ、図らずも津波前後の定点撮影となったのです。いっぽう、I原さんも、その大槌の街をバックに大カーブを行くC58の列車を高台から撮っておられることが判明、写真展会場で披露されました。
大槌は津波の被害が甚大で、街は壊滅状態ですが、まだ平和な時代にしっかり記録を残されていることに、感銘を覚えました。そんな思いで、自分のベタ焼きを繰っていると、なんと私も大槌で撮影していたことが判明しました。ただ、私の場合は、単に交換列車を撮っただけですが、今回は、ユースシリーズの最終として、岩手県下の鉄道を巡った一日を記してみます。
▲この日は、下り夜行「津軽1号」で横手まで行き、北上線始発で北上へ、東北本線で花巻へ、釜石線に乗り換え釜石へ。ここから山田線で宮古経由で盛岡へと向かう乗り鉄の一日だった。横手5時22分発の始発列車で、初めての北上線に乗車、県境近くまで来るとさすがに雪が深くなってきた。雪明りの北上線陸中川尻駅で列車交換のため停車、雪明りの構内に列車を待つ人々の影が伸びている。陸中川尻は、現在「ほっとゆだ」に改称されている。
▲釜石駅前、新日鉄の釜石製鉄所が駅の真ん前にドカンと広がる光景に思わずカメラを向けた。太い煙突からはモクモクと煙が上がる。釜石も海岸部は津波で甚大な被害だったが、駅はやや小高い場所にあり、津波の直撃は免れたが、地震の揺れによる被害が大きかったようだ。この写真は、tsurukameさんのブログ「蒸気機関車山路を行く」にも使っていただいた。
▲釜石から乗った列車は仙台発釜石・山田・花輪線経由秋田行き急行「陸中」、東北地方に多かった多層階急行で、各所で分割・併結を繰り返す列車だ。大槌駅で列車交換のため、数分停車する。この当時、東北、いや全国で見られた、ごく当たり前の駅ホームの風景だ。ここが、ちょうど40年後のほぼ同月、こんな被害に合うとは…。ホームには、律儀そうな助役と、若手駅員が待ち構え、ボストンバッグを持った家族連れが列車の到着を待っている。漁業の盛んな地らしく、冷蔵車も見える。交換する列車は普通列車のように見えるが、前のキハ52×3連は回送で、その後にキハ58系3連が付いた、急行「そとやま」だった。今では考えられない、急行同士の交換だった。
▲山のラインで同位置と分かる大槌駅の惨状(新潮社「日本鉄道旅行地図帳 東日本大震災の記録」より転載)
写真の情景描写の上手さに舌を巻いております。
釜石駅前は別(失礼)として陸中川尻、大槌の写真にはウーンと唸ってしまいました。
特に陸中川尻の雪明り風景は、この昔のカメラで
文章作成中に『送信』ボタンに触れてしまったようですので、再作成し送信し直しです。
写真の情景描写の上手さに舌を巻いております。
釜石駅前は別(失礼)として陸中川尻、大槌の写真にはウーンと唸ってしまいました。
特に陸中川尻の雪明り風景は、この昔のカメラでこれだけ撮るのにはタイムと露出の勘が優れていなければならなかったと思います。
山、列車、ホームの人々の構図も絶妙ですね。
大槌の方は退避列車の窓からでしょうか。
これ又、完璧に近い情景描写に、まるでその場に居るような錯覚すら覚えます。
対向DCをずっと手前(遠方)で止めてホームで待つ乗客や助役と駅員を画面に取り込んだのはサスガです。
レムらしき白(銀)色の有蓋車も懐かしいですね。
退避は待避の間違いでした。
どうもPCの変換を鵜呑みにする癖があるようで、困ったもんです。
なお、レムは画面を拡大すると『レ』のようでレ7200と読めます。
貨車には弱いクセに知ったかぶった事を書いたのを反省しています。
河様
いつもいつも暖かいコメント、ありがとうございます。
陸中川尻の写真は、2月の東北の朝6時ですから、まだ暗かったはずです。ただ、雪の反射というのは、露出の大きな助けになります。そう思って、再度当時のノートを見ると、絞り1.8、シャッター1/15秒となっていました。
駅の写真で好んで人物を入れたのは、どうせ撮影の邪魔をされるなら、積極的に入れて写してやれ、ということになりました。こうして見ると、鉄道車両以上に、人物がその時代を語っているように思います。
一日一本の蒸機を求めて何時間も歩いて写したような写真に限って、時代が見えず、逆に駅や交換列車をイージーに撮ったものが、時代を鋭敏に語るとは皮肉なものです。