「トレランス8号」 三陸鉄道を走る 〈下〉

釜石から戻りとなる「トレランス8号」は釜石18時10分発、移りゆく車窓は、次第に夕闇に包まれようとしていた。

往きの「トレランス8号」は15時25分に終点の釜石に到着しました。釜石と言えば、駅前に新日鉄釜石製鉄所があり、巨大な煙突から煙を吐き出していた40年前の印象が忘れられません。その後、高炉もなくなり、今では線材を生産するだけの一部門になり、工場は大幅に縮小されています。釜石駅周辺も津波被害がありましたが、ほとんど感じられないほどに復旧していました。この釜石駅ホームで本日のもう一つのイベントが行われようとしていました。


参加者が見守るなかで釜石駅ホームで行われた山田線フォトコンテスト表彰式

JR山田線の釜石~宮古は、震災被害で現在も不通のままだが、鉄道の復旧工事が進められている。完成後の2019年3月からは、三陸鉄道に移管されることになっている。
その山田線が元気だった時代を偲んで、今後の鉄道復活の促進になることを願って、さる3月に「山田線フォトコンテスト」が三陸鉄道主催で行われた。そのコンテストに、佐竹さん、私が応募したところ、佐竹さん奥様は「社長賞」、私は「大槌町賞」に選ばれた。いずれの写真も、以前に井原さんの写真とともに、当時の大槌町長に写真を贈呈して町役場でも展示されたもの。ほかの入賞作は、すでに宮古市で授賞式が行われたが、「トレランス8号」のなかに、受賞者2名が乗車することが判って、三陸鉄道社長も列席のもと、二人のための授賞式が釜石駅ホームで行われることになったのである。挨拶される中村一郎社長、写真展示は、山田線沿線の4会場で行われ「昭和40年代の山田線に活気のある時代に撮られた写真応募は少なかった。いずれの会場も多くの人たちがご覧になりました」とご挨拶された。
釜石駅からは貸切バスに乗り換えて、山田線に沿って、鵜住居、大槌、吉里吉里、浪板海岸と進んで復旧の様子を見学した。山田線は、一部を除いて、線路が敷き直されて、いつでも列車が通りそうな感じだ。お聞きしたところによると、使用される車両も発注済みで、ダイヤもほぼ決まっており、来年秋には試運転も始まると言う。まもなく線名の公募が始まるとのことだった。震災以前のデータで、いまの三陸鉄道南リアス線、北リアス線と比べて、山田線釜石~宮古は1.5倍の輸送量があったとのことだが、同時に震災後の人口流失は他の地域よりも大きく前途の多難さも予想される。
佐竹さん奥様撮影の社長賞は、大槌川を渡るC58列車を撮られたもの。バスの窓の向こうに、大型クレーンでガーダー橋を架け替える大槌川の工事を望むことができた。反対側の窓からは、津波に飲み込まれ、町長も亡くなった大槌町の庁舎が、保存か解体か揺れて、無残な姿をさらしているのが確認できた。いっぽう、私の「大槌町賞」は、大槌駅での列車交換を撮ったものだが、かつての大槌駅付近の様子は、バスの中から確認することができなかった。

バスの最終点は、三陸復興国立公園の四十八坂を望む展望台だった。ここは、佐竹さんが昭和43年に訪れて、海岸沿いを行く山田線C58を撮られた地点のすぐ近くだった。50年前に訪れた当時を回顧された佐竹さんは感慨深い思いで海岸を見ておられた。
戻りの釜石発盛行き「トレランス8号」は定期の216Dに併結された2両編成。

震災時、南リアス線は、一本の列車が長大トンネルの中で地震に遭遇した。そのまま走ると津波に飲み込まれると判断し、トンネルのなかで一晩待機した。トンネル脱出の際は、距離は長いが上り勾配側のより安全な出口側に脱出した運転士の機転が称えられた。また三陸鉄道の地上部は、ほとんどが築堤になっていた。これが防潮堤の役目を果たし、山手側にはほとんど被害が無かったそうだ。

前記のように、再来年には山田線が復活のうえ三陸鉄道に経営移管され、南線、北線に分断されていたものが、160kmに渡る一本のレールでつながる。その後も続く人口減少、さらなるモータリゼーション化の進展、そして一時的な復旧記念乗車も終わり、現実は厳しいものがある。事実、朝のラッシュ時でも、1両に10数人の高校生が乗っているだけだった。われわれファンとしては、乗って支援するしかない。乗車中、暖かいもてなしをしていただいた、三陸鉄道の皆さんに応えるためにも、今後とも三陸鉄道には注目して行きたい。

 

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