東北編④ 2月5日(土) 北上線、釜石線、山田線、田沢湖線を乗り鉄
(2/4)郡山 22:59→横手 4:40 急「津軽1号」(車中泊)
横手 5:20→北上 7:11 722D キハ22 281
北上 7:32→花巻 7:43 急「いわて4号」 クハ455-8
花巻 9:16→釜石 11:49 633D キハ51 11
釜石 12:25→盛岡 16:08 急「陸中」 キハ58 1521
盛岡 16:35→秋田 19:08 急「たざわ2号」
秋田 19:18→青森 22:12 急「しらゆき」 キハ28 389
(青森駅待合室 ネ)
▲「津軽1号」に乗って4:40横手に到着、北上線の始発列車722Dに乗車して早暁の雪原を走り、交換のため陸中川尻に停車 キハ22の2連。
▲陸中川尻では721Dと交換、721Dから切り離されたキハユニ26+キハ22×2が増結されて、乗車列車は5連に。秋田・岩手県境に近く、駅は雪が深い。
▲北上に7:11到着、駅前には東北新幹線の北上駅設置を祝うアーチが。花巻まで移動し、ED75 142牽引の532レを写す。
▲花巻から釜石へ移動、駅前に出てみると、新日鉄の釜石製鉄所が、眼の前にドーンとあって、煙突から煙がモクモク出ている、典型的な昭和の光景が。製鉄から撤退した同所は、ウンと縮小された。数年前に訪れると、全く面影の無い、駅前に変わっていた。しかし、釜石市民にとって忘れられない光景のようで、釜石在住の方と、デジ青の縁あって、地元で自主制作のCDのジャケットに、この写真を使ってもらった。
▲釜石機関区に行っても扇形庫に蒸機はなく、DD51のねぐらになっていた。スエ31 181が側線に。
▲釜石から「陸中」に乗車、「陸中」は仙台始発で東北本線、釜石線、山田線、花輪線、奥羽線経由で秋田まで行く急行、キハ58 1521+58 707
▲大槌で交換する急行「そとやま」、盛岡発山田線、釜石線経由の盛岡行きで、先頭はキハ52×3だが、これは回送、客扱いは後部のキハ58×3。窓から首を出して何気に写した写真で、大槌が津波で壊滅するなど想像すらできなかった。山科の人間国宝が大槌の復興に心血を注がれ、そのひとつとして、佐竹、井原、私の大槌の写真を大槌町長に寄贈され、鉄道線復旧のシンボルとして紹介していただき、その後も展示された。さらにそのあと、三陸鉄道の「山田線復興写真コンテスト」に応募したところ、「大槌町賞」を受賞、「三陸トレランス号」に乗車の際に、三陸鉄道宮古駅ホームで、三陸鉄道社長から表彰を受けたことも思い出だ。▲陸中山田でキハ22 292先頭の636Dと交換、この陸中山田は、津波のうえに火災まで発生し、壊滅状態となった。
▲盛岡に16:08に到着、ここにも東北新幹線着工の祝賀アーチが。東北新幹線の大宮~盛岡が開業するのは昭和57年であり、あと10年を要した。下り「はつかり2号」も撮影。
▲盛岡から「たざわ2号」に乗って、秋田へ向かうが、爆睡していたのか、撮影はなし。秋田に着くと、羽越本線821レを牽いて到着したC57 1を撮影、本日の撮影点数は22コマと極めて少なかった。
見覚えのある写真が何点かありますが、この時の撮影でしたか。大槌駅の写真が寄贈されたことや、コンテストで受賞されたことは、デジ青や写真展で拝見して知っておりましたが、対向列車にもカメラを向けてこられた積み重ねだったのですね。駅名標で場所が明確に分かり、駅員や列車を待つ乗客、さらには留置された貨車からは、往時の雰囲気が伝わってきます。単なる鉄道写真を超越し、人々の記憶に残る一枚になったのでしょう。
連夜の投稿ですが、あまり無理をなさらず、ボチボチ進めてください。
はい、陳腐な写真ばかりで失礼しました。前後の写真を並べたのは、例えとしては、自惚れも甚だしいのですが、“あの名作はどうして生まれたか”というような連載が昔のカメラ雑誌にありました。たとえば、土門拳の決定的な一枚が撮られた、その前後のベタ焼きがズラッと並べられた内容でした。寡作のように見える写真家でも、その陰で、たくさんの写真が撮られ、名作が撮られた過程がよく分かりました。
紫の1863さんの暖かいアドバイスにしたがって、一休みしてまた続けています。なかなか同日にまで行き着かないのですが、頑張ります。