ほぼ同月同日 50年前のあの日に還る 〈3〉

東北編③ 2月4日(金) 冬の会津に浸る

会津柳津 6:37→会津坂下 6:54 急「いなわしろ1号」 キハ52 128

会津坂下 13:45→会津若松 14:34 430レ オハフ61 3044

会津若松 15:35→喜多方 16:01 231レ

喜多方 16:04→熱塩 16:41  623レ  オハフ61 2520

熱塩 16:51→喜多方 17:31  624レ  オハフ61 3044

喜多方 18:07→会津若松 18:21   急「あがの2号」

会津若松 18:17→郡山 21:10  232レ  オハ61 2914

郡山 22:59→横手 4:40  急「津軽1号」  ナハフ10 2002

(車中泊)

会津柳津を急行「いなわしろ1号」で出発する。と言ってもキハ52単行の遜色急行。会津坂下から盆地の中をまっすぐに伸びている線路上を歩く。線路は山裾に突き当たると、一転右にカーブして勾配を上がっていく。地形に逆らわない線路の敷設を見た思いになる。425レをカーブ地点でとらえる。さらに塔寺寄りに歩くと、勾配も強くなって来て、盆地の中央を行く只見線が見えてくる。その付近で463レをとらえる。

会津坂下に戻ってきても列車までには間がある。駅でスナップ写真を撮って時間つぶし。午後になると雪が降って来た。430レに乗車、小さい街のどこから来たのかと思わせるほど、大勢の乗客が待ち受ける。只見線のように、列車本数が少ない線区では、どうしても移動に蒸機列車に乗らざるを得ない。なら到着シーンも、できるだけ地域の特徴を出たものにしたいと撮るようになった。

只見線は各駅でタブレット交換して会津若松へ向かって行く。1両目の窓を開けて、タブレットの授受風景を撮って行く。

喜多方にて磐越西線231レを牽くDD51 15、日中線ホームに行くと、乗車する623レが待っていた。

日中線623レに乗車、途中の会津加納までの貨車を連結した混合列車、暖房が通らず、車内の温度は「4゜C」と手帳に書かれていた。約30分で熱塩に到着、入換担当に早変わりした車掌がポイントを切り替えて、C11は転線して行く。▲▲乗客はここでも高校生が中心、男子高校生はそそくさと去って行ったが、女子高生は、いつまでも話し込んでいた。日中線時刻表、朝1往復、夕2往復のみ、日中は走らないことで有名だった。転線してC1164の正向となった624レ、車掌の合図で16:51に発車やっと暖房が通ったが、途中の会津加納で積載の貨車を連結、また車内が冷えてきた。C1164は現在、梅小路蒸気機関車庫で静態保存中、当時、現役の最若番機だった。会津若松に着くと「大雪警戒」の気象告知板が出ていた。

 

 

 

 

 

 

2月3日、4日の手帳、只見線に乗車した際には、勾配の向きや鉄橋をメモしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ほぼ同月同日 50年前のあの日に還る 〈3〉」への10件のフィードバック

  1. 待ってました! 50年前の中学生には、待望のシリーズです。
    写真のほかにも行程や乗車された車両の番号、時刻表まで添えてあって、総本家様と一緒に旅をしたような気分に浸っております。入場券とディスカバージャパンのスタンプもいいですねぇ。
    蒸気機関車以外の車両も、今となっては懐かしい思いでいっぱいです。駅の情景も懐かしく、小さな駅にも駅員がいて、列車が着く前には集まってきた乗客で待合室が混雑していたことなど、昨日のことのように思い出します。
    手帳はぜひ拝見したかったものです。いつ・どこで・なにを撮ったのかは、鉄道写真には必要不可欠なデータだと思いますが、カメラ・レンズ・絞り・シャッター速度の記入までされていて、とても真似ができません。一時期私も書いていましたが、面倒でたまりませんでした。デジタルになって解放されたのもつかの間、今では写真を撮る機会が激減してしまいました。

    • 紫の1863さま
      私もコメント待ってました! 忘れ去った50年前の行動歴を、できるだけ効率的に、しかもリアルに紹介するために、写真以外のアイテムも載せました。手帳を載せることは、ある方からも勧められたのですが、今回、最大の情報源となりました。よく書き留めていたと思います。
      実は同月同日シリーズは、ベースとなった著作があります。「編集長敬白」の名取紀之さんが現わした「32年前の“今日”へ」です。昭和49年に訪れた北海道の記録を、氏らしい、活き活きとした筆致でまとめられていました。私など及ぶべくもないのですが、ちょうど50年目を迎えたこともあって、始めてみました。いつまで続くかは、私にも分かりませんが、頑張って続けてみます。

  2. 「32年前の“今日へ”」は何度も読みました。乗車した列車の牽引機や、客車の番号はもちろん、車内での出来事も書いてあって、当時の様子が良く判ります。特に注目したのが食べ物に関する記述で、場所と金額まで細かく書かれていたのには、思わず顔がほころびました。「食べ物の恨みは恐ろしい」と申しますが、私は北海道の某駅(特に名前を秘す)で買った駅弁に大量のきんぴらが入っていて、あぜんとしたものです。
    すみません、また重箱の隅をつつかせていただきます。
    冒頭の乗車列車の一覧ですが、会津若松から郡山まで乗車された232レですが、会津若松の発車は19時20分ではないでしょうか。18時17分は喜多方の発車時刻です。ちなみに232列車は会津若松着が18時42分で、38分もの長時間停車してました。

  3. 紫の18634さま
    はい、私も何度も読み返しました。単行本になった分の最後に載っていますね。とくに食べ物の記述は、詳しく書いてあります。私など、ほとんど覚えがありません。昼はバンで済ませたり、抜いたりと、当時の私のスタイルと似ていて、思わず笑ってしまいました。
    232レは時刻が違っていました。喜多方から「あがの」に乗車して、そのまま郡山に行っても良かったのですが、夜行の「津軽」にあわせるため、会津若松で下車して、鈍行に乗り換えたものと思います。

  4. 通票の交換シーン、大好きです。特に、走行中の列車から腕で直接受け取るシーンは実見できなかったので、興味深く拝見させていただきました。最初の組写真の右上のお写真、二の腕まで進んだタブレットは、そこを支点にタマの部分が回転し、背中を強襲します。受け取られた方が、肩をひくなりうまく対処されていればよいのですが、そうでなければかなり痛い思いをされていることと思います。
    総本家青信号特派員様にお見せできるような写真でもありませんが、私からも一枚。1983(S58)年4月3日、多ノ郷駅です。駅長さんから「フタツ」(2分の意)と教えていただきましたが、早なのか延なのかがわからず、確認すると「早」でした。通貨丙G1(定数35)のスジを単機かつ重連で走るのですから、定時運転する方が難しかったのかもしれません。

    • タブレットの思い出と写真を、ありがとうございます。とくに通過列車のタブレット授受は結構な衝撃があって、キャリアが腕に当たって負傷する事故もあったようです。後年は、写真のようにホームに受け器が設置されたり、機関車にも受け器が取り付けられましたが、授受の際の効率を考えると、とくに交換の場合は、人手による授受が続けられていたと思います。

      • お返事、ありがとうございます。
        どうして手で?と動線を考えてましたが、ホームの受器がまだ整備されていなかったのですね。昭和50年代後半では通票閉塞で残っている駅は、出ヅラ1名の駅がほとんどでしたので、手で受け取っても、その後に通過列車の次の駅への現発通知や信号テコの操作があり、動線的には意味がありませんでした。後続列車が追っかけてくる場合には有効な場合もあったのですが、先行列車が普通気動車列車だったので、ホーム進入中に渡してくれる助士がおらずということで、結局私は手で受け取るシーンを見れずじまいでした。

    • きれいなカラー、ありがとうございます。C5856は西舞鶴の配置だったと思いますが、いまは福知山のポッポランドに保存されていて、年末に国鉄OBが清掃して飾り付けするのが、NHKニュースに出てきます。

    • 「本来なら停車後に渡すべきところ、機関車の停止位置がホームからはずれ、背伸びして渡すのも・・・。ならば、ここで渡しちゃえ。」的な発想から、このような状況となっているのでしょうか。
      貨物列車の場合、出発信号機直前で停止しますが、編成が短く収まると判断できれば、ホーム中ほどで止めたりしているのを見かけたことはあります。理由は、上の写真と同様なのでしょう。
      いろいろと状況が想像できて楽しいです。お写真を見せていただき、ありがとうございました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください