厳しい寒さが続いています。Tsurukameさんに習って寒さに関する一件を。
冬の北海道へも、学生時代、ユースを利用して何回か訪れたことがあります。ただ、冬と言っても、授業・試験はちゃんと済ませてからになりますから、すべて3月の訪問でした。1・2月と比べると、多少はマシになっていますが、内地から来た人間には、まだ寒さがこたえます。
昭和46年3月、本掲示板でも活動されている西村さんや、津田さんと一緒に渡道し、その日は北湯沢ユースホステルに泊まりました。北湯沢と言っても、ピンと来る人は少なくなったかも知れません。昭和61年に廃止になった胆振線にあった駅です。伊達紋別から乗車時間約50分、倶知安から約1時間40分程度の距離にあり、駅のすぐ近くに北湯沢ユースホステルがありました。胆振線が廃止されてからは、ほとんど顧られることもなくなりました。
内陸部にあって、とにかく寒かったことを覚えています。朝、ユースの寒暖計を見ると、-15℃を指していました。厳冬期に-30℃以下まで下がる北海道としては、屁のような気温でしょうが、私が実際に寒暖計で確認できた気温としては最低気温でした。
寒かったことだけは覚えていても、ユースの印象は全く残っていません。ネットで調べてみると、ごく最近まで営業を続けていたことが分かりましたが、今は休業となっていました。
▲ここでの目的は、倶知安区の二つ目玉の9600を撮ることだった。朝飯前にちょうど貨物列車がやって来るので、起床後すぐに、みんなで駅へ向かった。新雪も多く、遠方へ歩く気力もなく、駅近くで日和るしかなかった。寒気を震わせるようにして、二つ目玉を輝かせた9600が通り過ぎて行った。
▲北湯沢駅の外観。当時運転されていた急行の停車駅でもあり、交換設備もあって、ローカル線の駅としては、そこそこ賑わいのあった駅である。上記の9600貨物を撮ったあと、ユースへ戻って朝食をとり、キハ22単行で、C62重連を撮るべく倶知安へ向かった。
▲倶知安へ向かう途中、御園駅でのカット。乗った列車の前に、キハ22が増結されるシーンだ。当時、北海道のDCは、途中駅での増結・解結が頻繁に行われていた。極端な例になると、始発を単行で発車したのに、交換駅ごとに、1両ずつ増結し、終点に着いた時には、4~5両になっていることもあった。少ない気動車をやり繰りし、両運のキハ22ならではの運用だが、よく要員も確保できたとの思いが強い。しかも、交換列車から解結して、反対列車に増結するという離れ技で、そのため、増・解結に費やす停車時間のロスも多かった。
胆振線は最後の春休み、1983年の卒業旅行で乗って、1986年11月廃止のニュースも遠い記憶になりました。全長83キロもあったのですね。
急行「いぶり」は当時キハ22の単行ではなかったでしょうか。
SL無き後も我らのようなヒマ学生が、倶知安で乗り換えを楽しむことができました。
人生は直行列車に乗らなくても、こうして乗り合わせた列車もまた楽しいと。
昨日北海道へ修学旅行に行っていた娘が伊丹経由で帰ってきました。
留寿都リゾートというのは、京極の奥にあるようですな。
ものすごい設備の近代リゾートと、我らが歩んだローカル線の冬の旅。
その対比も面白く、娘の話をゆっくりと聞く30年後の私がそこにいました。