時刻表とともに 想い出の列車を再見する (11)

九州の駅 〈11〉 西鹿児島駅の重連列車

九州の県庁所在駅で、ひとつ鹿児島が抜けていました。鹿児島には、ご承知のように、西鹿児島(現・鹿児島中央)、鹿児島と、2つの主要駅がありました。ただ、以前から乗降数には大きな差があり、その後の新幹線の開業で、さらに拡大し、現在、鹿児島中央4万4千人/日に対し、鹿児島は4千人/日と大きく水をあけられています。ただ、昭和の時代は、機関区、客車区などの現業機関があって、運輸上の拠点は鹿児島、流動の中心は西鹿児島と、駅の性格が棲み分けられていました。そのため、両駅間には、回送列車が多く、さまざまな組み合わせの牽引機がよく見られたものでした。西鹿児島で撮影した、西鹿児島発東京行きの特急「富士」である。日豊本線経由のため、同じ西鹿児島~東京を結ぶ鹿児島本線経由の特急「はやぶさ」よりも少し長く、当時は日本一長距離の列車だった。さて、これは、どんな状況なのか、実は、その前後の記録がなく、確証はないが、「富士」の編成は鹿児島で仕立てられ、西鹿児島への回送はC57+20系+DF50のプッシュプルで運転されホームに据え付け、そのあとC57のみ転線して、アタマに付いた状態と考えている。つまり前々回の佐世保~早岐の回送列車を中心として例と同じ状況だろうか。C57がアタマに付いたということは、このままの鹿児島へ行き、C57を解結、そこから正規のDF50+20系になったのではと考える。つまり、西鹿児島~鹿児島、わずか3.2kmではあるが、ここでも蒸機牽引の特急があったのだろうか(昭和44年3月12日)。

西鹿児島8:55発,東京10:00着と、25時間超を要して、東京へ向かう。丸一日以上を走る特急は、戦前には多くあったが、戦後は、この時期の「富士」だけで、「はやぶさ」は、距離がやや短いこともあるが、23時間弱で走っていて、やはり日豊本線の全区間を非力なDF50が牽いていたことも大きい。時刻表の前後を見ると、東京だけでなく、広島、門司港、博多と、次つぎ長距離列車が発車して行った様子が見て取れる。

電化は鹿児島には到達していなかった。西鹿児島では、上記の理由で、蒸機の回送が多くあったが、単線区間のため、適宜、営業列車に付いて回送されるため意外な組み合わせが見られた。出水発鹿児島行き235レ、D51301の牽引に、西鹿児島で逆向のC12287が付いた。C12は指宿枕崎線の列車牽引を終えて回送されるもの。

貨物列車でも重連が見られた。8620+C12の牽引。▲▲夜の列車でもC60107+C5722 いずれも西鹿児島にて(以上、昭和45年8月)

 時刻表とともに 想い出の列車を再見する (11)」への5件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様、
    Wikipediaの「鹿児島車両センター」によると、”1967(昭和42)年11月に(鹿児島運転区の)検修・車両管理部門が鹿児島運転所となる。”とありますので、1枚目のお写真の頃は、「富士」の検修や清掃等整備は鹿児島駅ではなく、工場そばの運転所だったのではないでしょうか。C57は「富士」と一緒に出区してきたのではないかと思います。逆向きのC57では最高速度が45km/hに制限され、鹿児島駅まで5分で辿り着けない他、鹿児島駅でのC57の解放を1分停車で行うことは不可能かと思います。

    • 四方さま
      ご指摘、ありがとうございます。そうですね。営業中の特急寝台に、逆機の蒸機がアタマに付くなど、あり得ないですね。たしかに、当時は車両の現業部門が、西鹿児島に移りつつある時代で、「富士」編成は、西鹿児島で整備、仕立てられたものですね。

  2. 総本家青信号特派員様
    鹿児島市は地方都市に珍しく二つの拠点駅があり、天文館からタクシーに乗車する時には鹿児島を『本駅』、西鹿児島を『西駅』として区別していました。知人から鹿児島の方が格式が高く、駅長も参事資格の駅だと教えてもらったことがあります。
    国鉄時代には鉄道の施設も分散していて、鹿児島機関区は鹿児島に、鹿児島工場と鹿児島客貨車区→鹿児島運転区→鹿児島運転所は西鹿児島に所在していました。
    写真は1968年3月28日の鹿児島を発車する上り「富士」の後ろ姿です。東京に向かって25時間かけて走行する旅立ちの姿ですが、この時日本の鉄道は一本のレールで繋がっているのだとの思いを新たにしました。

    • 快速つくばね様
      「西鹿児島」の旧称は「武」でしたが、「鹿児島」は大正2年設立から駅名は同じですから、歴史的には本家の思いがあるのでしょう。私がこれらの写真を撮った時代、宿泊したユースホステルは西鹿児島の近くにあり、機関区は鹿児島にあって、よく一駅だけ列車に乗って移動したことを思い出しました。24時間以上を掛けて東京へ向かう「富士」の後ろ姿、物語を感じます。実際は、東京への直通客は「はやぶさ」を利用したでしょうから、「富士」は、九州内の“ヒルネ”利用客も多かったことと思います。

  3. ”重連”なのか回送車なのか。
    今の時代は厳密にエビデンスを鬼首みたいに言われますが、50年前の空気は、重連が来ると、籤に当たったみたいな喜びが、情報のない線路脇に立ってると嬉しかった空気を思い出します。
    これは小学生時代の遭遇写真で、人前に出せるレベルのものではありません。昭和46年頃、大分で撮影。小倉方面行きの貨物列車のED76か74の後ろに8620、3両目がDF50の工場行き回送だと思いますが、夢のEL+SL+DLの3重連をみた! と翌日の学校で騒いでいたガキ時代を思い出します。
    もっと鮮明に撮っておきたかったのですが興奮した小学生の撮影はこんなものです。
    あと九州の機関車の運用は独自で割と自由に繋いでいたような気がします。

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