九州の駅 〈12〉 北九州・筑豊の各駅で
九州編の最後として、若い頃によく行った北九州、筑豊の駅で見かけた列車を、時刻表とともに見て行きます。
▲門司港は、鹿児島本線の始発であるが、ほかにも日豊本線や筑豊本線へ向かう列車も発車していて、終端式ホームとも相まって、九州の鉄道の原点に相応しい風格があった。電化はされていたが、まだ盛んに蒸機が出入りしていた。列車は、門司港発、黒崎経由、原田行き627レ、これから門司、小倉と電化区間を走って、黒崎から短絡線を通って筑豊本線に入る。直方、飯塚などの産炭地の勢いがあり、始発からも結構な乗客が見られた。牽引のD6034は、デフを斜めに切り、パイプ煙突の出で立ちで、これはこれで、好ましいスタイルだった(昭和46年12月)。
▲上掲の列車は、門司港17:26発の627レとなる。時刻表が切れたが、飯塚で右矢印があり、これは上山田へ分割の編成となる。門司港から黒崎まで約30キロは鹿児島本線上を走るわけだが、時刻表の鹿児島本線の欄を見ても627レの記載がない。たとえば時刻表を使って小倉から627レに乗ろうとしても、発時刻が不明で、門司港17:26発から類推するしか方法がない。懇切丁寧な現在の時刻表からは考えられないような記載だった。それだけ列車本数も多かった証左である。
▲次の門司では、関門トンネルを通じて、山陽本線と合流する。その門司にC57が‥、 C55なら前記の筑豊本線へ向かう列車と分かるが、実はこの列車は、日豊本線の柳ヶ浦行きである。日豊本線の電化は新田原までの短い区間で、421系電車も走っていたが、長距離の列車は、電機の製造も間に合わないこともあって、電化区間を、大分区のC57が門司港から牽いていた(昭和42年3月)。
▲門司港9:57発の柳ヶ浦行き1523レを、門司の2分停車中に撮影、この時の電化は、時刻表の最下段の新田原まで、行先欄の「新田原」は、すべて電車化されていることが時刻表からも読み取れる。ただ、普通列車の行き先は、柳ヶ浦、南延岡、佐伯、大分とあり、これらは、門司港から大分区のC57が牽いていた。優等列車が、ほぼ等間隔に並んでいることにも注目。








門司港駅で発車を待つD60 34を拝見し、疑問を感じました。それというのも門司港発の原田行きはC55、若松発の原田行きはD60と思っていましたので、違和感があったのでしょう。
この列車は飯塚で原田行きと上山田行きに分割されるとのことですが、上山田線内はC11が引いたのでしょうか。手元にある時刻表、昭和40年1月号によりますと飯塚には19時9分に着き、17分後の19時26分に上山田へ向けて発車しています。原田行きは3分の停車で、19時12分の発車です。蒸気がたくさんいた時代とはいえ、気動車のような運用があったのですね。
さて、D60 34は私も撮っています。旅客列車なら良いのですが、貨物です。昭和47年8月、筑豊本線の折尾-中間での撮影です。出会いから3か月後の昭和47年11月に廃車になりました。
総本家青信号特派員様
均一周遊券を使用して夜行泊の旅行を繰り返していた時代には、門司港は函館、青森、高松と同様に夜間に隔日に訪れる駅で、布刈神社に参拝した時以外はあまり昼間の想い出がありません。他の駅は接続する連絡船が到着すると一時の喧騒がありましたが、門司港の場合は発車時間までに何の賑わいもなく静かに列車は出発していきました。
手元にあった1962年(昭和37年)12月号の時刻表で確認しますと627レ(当時は621レ)の発着時刻は鹿児島本線の欄にも記載されていました。筑豊本線の客車の列車番号は門司港系統の600番台と若松系統の700番台に区分されますが、前者の牽引機は直方区のD60、後者は若松区のC55と勝手に思っていました。
写真は627レと対になっていた、原田・上山田発門司港行を筑前垣生-筑前植木間で撮りました。1969年3月2日は早朝から遠賀川の川霧が出ていて、この後だんだん濃くなっていきました。
「九州のD60論」を読むようで本文、各コメントを興味深く読ませていただいています。北九州と筑豊本線飯塚までは、戦前から重化学工業地帯で特例的に鉄道輸送の重点地区でD50が入れたと言う経緯があり、戦後になり門司に大量のD51が集められ、亜幹線や上山田線のような支線の近代化の役を担ったのが擬似近代改装機のD60で、筑豊本線全般と特に冷水峠越えでは急行の補機に入り、日豊本線の電化前は柳ヶ浦区に配属されて立石峠の補機、大分電化後は久大線に入り活躍しました。
それから九州の鉄道の研究家は、小倉の奈良崎博保、福岡の谷口良忠両氏と人吉の福井弘さんが非常にまめに短信を中央に送っています。これと後にジャーナル社を作った竹島紀元さんらが元気な頃は、中央や関西に負けない情報が送り出されています。しかし日豊線側の大分付近には、先の3名のような方がおらず、立石峠のD60のような話題は私が偶然古書で昭和40年のピクを見ていて強く関心を持った次第で、大分区のC55と57の研究は少ない。
今回のC57 178号機にしても、見た目の貧相感で、門デフ付きの流麗な同僚に比べて何か哀れさを感じ、調べると昭和40年に日本海北陸線側からの転属機で、大分は2年で終了、宮崎に回されて戦後製の罐なのに46年には廃車と良好なカマではなかったのでしょう。
こう言う所に小倉工場や九州人の好き嫌いな性格をすごく感じる小倉っ子です。
添付写真は中島忠夫さんが撮っていた、昭和35年の直方です。