時刻表とともに 想い出の列車を再見する (14)

九州編 〈14〉蒸機が後押しする急行列車

最後は、何度も訪れて、愛着のあった筑豊本線の列車をいくつかを紹介します。以前にも述べましたが、北九州~鳥栖には、鹿児島本線と筑豊本線の二つの経路がありました。優等列車は、途中に博多が所在する鹿児島本線経由ですが、当時の筑豊本線には石炭で繫栄する直方、飯塚があり、路線長にしても、単線・勾配区間があるものの、筑豊本線がわずかに短かく、一部の優等列車は筑豊本線を経由していました。大阪~熊本の急行「天草」が、博多には寄らない筑豊本線経由の列車だった。蒸機ばかりの筑豊本線にあって、「天草」は唯一、鳥栖区のDD51が牽引する列車だった。ただ、筑前内野~筑前山家には冷水峠があって、冷水トンネルの前後に25‰勾配が連続する。さしものDD51でも客車10両では苦しく、飯塚からはD60が後補機が連結された。客車の編成にも興味が湧いて来る(昭和43年3月、筑前内野~筑前山家)。

山陽・九州へ直通する長距離列車は、すべて東京始発だった時代、昭和31年に初めて関西を始終発する列車が生まれた。それが京都~熊本の「天草」だった。最初は博多経由だったが、昭和36年に筑豊本線経由に変更され、同線では初の優等列車となった。D60の補機は直方から連結された時期もあったが、この時期は飯塚から後部に連結され、分岐の原田も通過して、鹿児島本線に入り、鳥栖まで補機が使われた。急行列車を押し上げるD60、正向運転だが、逆行運転の時もあった。

いっぽう筑豊本線で初の特急は「みどり」だった。昭和36年12月から大阪~博多の82系DC特急として走り始め、昭和40年10月から、初めて筑豊本線を経由して佐世保に向かう特急に改められた。その後、九州内の電化の進展で、愛称や車種の変更があり、昭和42年10月で、筑豊本線経由は「いそかぜ」に改められ、「みどり」の愛称は2年で消えた(昭和42年3月。直方)。

 時刻表とともに 想い出の列車を再見する (14)」への11件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    夜行で九州に入る場合に急行「天草」はよく利用した列車でした。昭和40年代初頭、関西から九州に向かう下りの定期列車の始発駅は京都か新幹線と接続をとれる新大阪発でしたが、「天草」は唯一の大阪発で設定されており大阪駅からでも自由席で座確が保証される列車でした。
    大阪-熊本間の基本編成は名古屋客貨車区持ちで、名古屋-熊本間の「阿蘇」の基本編成と共通運用になっていて、「天草」の愛称札の裏面は「阿蘇」になっていました。
    冷水峠ではありませんが、1968年4月7日の筑前山家-原田間でD60 22の補機を付けた上り貨物列車です。

    • 快速つくばね様
      写真、ありがとうございます。この場所、行ったことはありませんが、見覚えがあります。原田から少し歩いたところでしょうか。さて「天草」の始終発ですが、ずっと京都ばかりと思っていましたが、調べますと、つくばねさんのご指摘のように、40年10月改正から43年10月改正まで、3年間のみ、大阪始発、新大阪終着で、そのあと、京都始終発に戻り、50年10月改正まで走り続けました。
      が、

    • 同日の「天草」1号車 スハフ43 19(スハ44改造車)
      何も門司駅 1974年9月16日撮影
      当時は「名ナコ」の理由が判りませんでした。先行コメントのように「阿蘇」と基本編成共用、熊本転回が理由です。
      こんな綺麗な優等客車急行は今から50年前の新幹線博多改正で姿を消しました。

  2. 総本家青信号特派員様
    通りすがりの部外者です。冷水峠、懐かしいです。撮影がてら2回ほど筑前内野から筑前山家迄歩いたことがありました。「天草」は本務機がDD51なのでトンネル突入の後補機D60を撮影してました。その後1972年に上りの「天草」も後補機はD60だと思い、鳥栖の夜間撮影を試しましたが上りの後補機はDD51でした。定期「天草」の補機はD60一両ですが、1968年12月の年末年始臨8211レ「天草52号」三角行きは本務機はDD51でしたが、後補機はD51二両でした。客車はオハ35系で一等車はスロ51一両だけでした。 その他冷水峠ではD60とD51の3重連やD51重連の上り臨時急行等楽しい場所でした。 傷が多くて醜い写真ですみません。

    • 通りすがりの田中様
      本日は、ご面談、ありがとうございました。コメントもありがとうございます。内野から山家まで歩かれたのですか、冷水峠は国道で山越えされたのでしょうか。写真のD51補機が2両とは珍しいですね。冷水峠は、旅客、貨物とも本数が多くて、楽しめました。

      • 総本家青信号特派員様
        昨日は近くまでお越しいただきありがとうございました。冷水峠は国道で越えました。当時は体力もありましたが今では無理ですね。私も後補機2両を見たのはこの時だけでした。編成も定期より短いので1両は回送だったのでしょうか?

  3. 急行「天草」は初めて直方へ行くのに乗った思い出の列車です。寝台車など論外で、指定席車とグリーン車の座席にかけてあった白いカバーがまぶしく見えました。冷水峠で撮影された写真は、先頭のDD51から最後尾のD60までが全部見えて、素晴らしいですね。大阪始発の時期があったとは知らず、ずっと京都が始発とばかり思っていました。
    さて、我が家にこんな列車愛称票があります。プラ製で右下には「大」と「宮」の文字が見えます。そのうえ裏も「天草」で、ええっなんで?となりました。つくばね様がおっしゃるように「天草」の裏は「阿蘇」で、「名ナコ」と書かれているはずです。ではうちのはパチモンでしょうか? いえ、これはJRの即売会で買いましたので、まがい物とは思えません。で、結論は大阪発熊本行きの臨時「天草」に使用されたもののようです。これでようやく疑問が解決できました。

    • 紫の1863様
      「天草」の思い出、ありがとうございます。なるほど「天草」に乗って直方に直行ですか。「起きると、そこは煙の聖地」です。私も「天草」は、ずっと京都始発と思っていました。快速つくばねさんのご指摘のように3年間だけ新大阪・大阪が終始発でした。臨時の「天草」は、「天草51号」でしょうか。昭和43年ごろから運転され、やはり筑豊本線経由でした。本家「天草」と同じ、昭和50年に廃止されました。

  4. 大分出遅れですが、「天草」の話題などめったに出ないので、私も1枚。ピンボケでお恥ずかしいが、漸く中学生になろうと云う春休みに撮ったものなので、失礼致します。筑豊本線では無く、鳥栖から鹿児島本線に戻った後、植木を通過する下り「天草」です。1964(昭和39)年3月の撮影。この列車は熊本止まりなので、いま考えるとC59牽引で良さそうだが、何故かC60が牽いておりました。

    • 宮崎繁幹さま
      私の相当な遅れのご返信で申し訳ありません。もう中学生時代から撮っておられたのですか。まだ架線も無い、熊本以北の鹿児島本線です。急行列車の貫禄十分ですね。たしかに熊本のC59牽引が通常と思われますが、例外的に鳥栖のC60が、長崎本線と共通運用で牽いていたのでしょうか。

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