坪尻駅

信号場が話題のようなので、元信号場ではあるが、土讃本線の坪尻駅を紹介したい。昨今では秘境駅として取り上げられ、特急「四国まんなか千年ものがたり」号も運転停車することもあってか、多少は小綺麗に整備されているが、乗降客は熱心な秘境駅ファンのみと言っても過言ではないだろう。

▲急行「あしずり2号」(704D)、1978/03/28 土讃本線坪尻駅(信号機の識別標識が、まだ横書きだった頃)

【坪尻駅の略史】

1923(大正12)年5月21日に讃岐線琴平駅~讃岐財田駅間(12.6km)が開業したものの、阿讃山脈を猪ノ鼻トンネル(延長3,845m)で抜け、四国三郎を吉野川橋梁(橋長571.2m)で渡る難コースのためか、讃岐財田駅~佃信号場間(14.9km)が開業したのは6年後の1929(昭和4)年4月28日のことであった。

当初、坪尻信号場はなく、讃岐財田駅~箸蔵駅間が1閉塞区間であった。当時の時刻表など持ち合わせていないが、DF50のけん引する貨物列車(定数33)の場合でも同区間は約20分を要し、1時間あたり3本の列車を設定するのが精一杯で、輸送上の隘路となることは必定であった。

坪尻信号場は、本来ならば讃岐財田駅と箸蔵駅の中間に設置したいところではあるが、猪ノ鼻隧道内となることから、箸蔵駅寄りの現在地となったようである。ここも元々は東側を流れる鮎苦谷川の川床で、猪ノ鼻隧道等で掘り出したズリを埋め立て、整地したのであろう。さらに信号場の設置にあたっては、信号場の設備や建屋以外に職員の官舎や水道、電気などのインフラも設備しなくてはならないので、輸送需要との関係からか、土讃南北線の連結がなされた1935(昭和10)年11月28日(「四鉄史」よる。Wikipediaでは1929(昭和4)年4月23日)に開設され、戦後の1950(昭和25)年1月10日に佃信号場とともに駅へ昇格された。

注)左側の図は、国土地理院地図を加工して作成。2700DCの運転時分は、Youtubeにアップされている動画から計測。

▲坪尻駅周辺図

【Aコース:レストラン「阿讃」】

坪尻駅から脱出する手段は、列車以外では上図に示すA~Cの3コースの山道を徒歩で行くしかなく、秘境駅たる由縁である。まだ小学生が通学で列車を利用していた頃は、待合室の造り付けのベンチの下には私物の雨靴が整然と並んでいた。置き傘もあったように思うが、記憶が定かでない。恐らくCコースの利用者である。また、一度だけBコースをバイクでやってきた人も見かけた。Aコースが(主)観音寺池田線(旧国道32号)に通じ、最もポピュラーなのかと思っていたが、同業者以外の人を見かけることはなかった。

下の写真は、坪尻駅の全景を収められるレストラン「阿讃」の駐車場付近からのショットである。 ▲坪尻駅(左:223レ(1978/03/28)、右:229レ(DF50 65?)&15D(1980/09/13))

線路右側の川が付け替えられた鮎苦谷川で、滝の上側に水路トンネルの坑口が見える。また、滝のやや左上に見える屋根の建物は森吉事件の犯行現場の一つである。右側の写真は、15Dを追い越させるために待避する229レであるが、駅への山道は3コースとも街灯もなく真っ暗であり、乗降客はゼロであったであろう。私自身も、この写真の撮影後は旧国道32号を箸蔵駅まで歩き228レに乗車し、再び坪尻駅に停車することになるが、「こんな真っ暗な時間に停車されてもなぁ」というのが、正直な感想であった。現在では、上り列車は6:56、8:29、13:53、下り列車は12:34、14:53、16:53の上下計6本のみで、いずれも明るい時間帯である。

現在(と言っても2009年の写真で、讃岐鉄道120周年記念の際に友人に案内していただいたときのもの)のこの撮影ポイントは、やや東側に寄った地点に三好市が設置した坪尻駅展望台から安心して撮影することが可能である。下の右側写真は、展望台設置前ではあるが、ほぼ同地点である。▲坪尻駅(その2、左右とも2009/05/24)(左:レストラン「阿讃」の駐車場付近から(39D)、右:坪尻駅展望台設置場所から(44D))

【Aコース:喫茶店「白雪姫と七人の小人」】

秘境駅ではあるが、Aコースを20分ほどかけて登れば旧国道32号に通じ、南に行けば上述のレストラン「阿讃」、北に行けば喫茶店「白雪姫と七人の小人」があり、飲食に困る環境ではなかった。

下の写真は、喫茶店「白雪姫と七人の小人」の駐車場付近からのショットである。この坪尻駅のシーサースクロスの南側を行き来する列車の光景は喫茶店内からも眺望でき、夏の暑い時期、冷房の効いた店内でアイスコーヒーを飲みながらこの光景を楽しむことができた。▲坪尻駅(その3、226レ(DF50 48)、1980/09/13)(左上隅の植生のない部分が、レストラン「阿讃」付近の旧国道32号)

ちなみにGoogleストリートビューで確認すると、2店舗とも廃業されているようである。高知自動車道に長距離トラックが流れ、猪ノ鼻道路も供用開始され、国道から主要地方道へ格下げされた現在にあっては、致し方のないことかもしれない。▲レストラン「阿讃」と喫茶店「白雪姫と七人の小人」

【Bコース】

BコースはAコース同様、坪尻踏切(第4種、31k820m)を渡り左折し、本線東側を北上するコースである。下の左側写真は、途中の坪尻トンネルの多度津方坑口上方からのショットである。同写真下部に写るトラス橋梁(洲津川橋梁)は、元は福知山線の第4武庫川橋梁であったらしい。わかりにくいので、反対側の(主)込野観音寺線からアクセスした写真も右側に合わせてみたが、やっぱりわかりにくくて申し訳ありません。▲坪尻駅(その4、左:273レ(DF50 26)、1980/09/01、右:9204レ(DF50 65+1+ハ5B)、1983/08/20)

【Cコース】

Cコースは、木屋床集落への最短コースである。下の写真は、途中に水道管を跨ぐ橋があるのだが、その付近からのショットである。右下に、坪尻駅舎が写っている。▲坪尻駅(その5、273レ(DF50 38)、1980/09/13)

また、Cコースを登りきったところにある道路を南進すると、下の写真のように旧国道32号の崖下をゆくショットも可能であった。

▲坪尻駅(その6、226レ、1980/09/01)

【現在の坪尻駅】

通過列車は、シーサースクロスを制限35km/hで渡らねばならなかったのだが、片渡り分岐器2組の直線側を通過するようになり、時間短縮が図られている。この改良時期が不明なのだが、2000系DCデビューと合わせた頃だろうか。

時間短縮が図られた一方で、通過列車が直線化されたことで着発線や引き上げ線と本線との車両接触限界が南北それぞれに移動し、元々有効長が多度津~須崎間では最も短い166m(16車(20m車は6両))だったものが、さらに短くなっており、20m車で3両が最大なのだろうか。

いずれにしても、2700系DCであれば讃岐財田駅~箸蔵駅間を8分程度で通過するのが時間あたり2本あり、あとは時間によっては観光特急列車、普通列車、9000系のレール輸送用キヤのいずれかが走るくらいなので、坪尻駅の存在価値自体は既に消滅しているとも言える。

また坪尻駅周辺の人口は、半径1km圏内にかかるメッシュの総人口は56人(令和2(2020)年国勢調査)で、停車する普通列車が3往復/日では、まずご利用になっておられる方はいないのだろう。

考えれば考えるほど、坪尻駅の存在価値が見いだせなくなるのであるが、それでも残せるものであるならば残しておいて欲しいと、切に思う今日この頃である。▲坪尻駅周辺の人口分布(令和2(2020)年国勢調査)

坪尻駅」への2件のフィードバック

  1. 坪尻懐かしいです。2007年より前くらいに四国のキハ58+キハ65が撤退する前に何度か通いました。当時は、高松10時発くらいだったと思いますが、阿波池田まで直通するキハ58+キハ65の鈍行運用があり、坪尻のスイッチバックを楽しみました。駅で暫したたずんでいると静寂を破る2000型DCの南風が疾走していきました。その返しとなる夕方の高松行きは、快速サンポートになりましたので坂出以遠では唸るDMH17エンジンの音もなかなかのものでした。DF50や雑型客車の時代はもっと引きつけるものがあったことでしょう。キハ58引退後は、運用が多度津からに分断され、それ以来坪尻は訪問していません。久しぶりに坪尻に行ってみたいと思いました。

    • ブギウギ様、
      コメントありがとうございます。
      私もDMH17は嫌いではなく、2008年の夏に松山~八幡浜間でキハ65 34+キハ58 293に乗車しました。変直手動切換列車の最後の乗車になりました。電車よろしく、気動車もいきなりフルノッチで起動するので、走り方が下品というか、風情がなくなったと感じました。
      ブギウギ様とほぼ同地点から撮った一枚を添付いたします。(225レ(DF50 41+マニ50+ハ4B)、1980/09/01)

ブギウギ へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください