寒中北海道見聞録-半世紀前の旅 6号車

暖かい車内から北浜駅に降りると一段と寒さが身に沁みる。先ずはユースに向かうことにしました。今回の6号車はここからです。■ 寒い中のロケ

北浜付近(KAWANAKAの昔のアルバムの絵を流用)

ユースは原生花園YHという割と有名なユースらしいです(今は知りませんが)。また駅から近くまことに便利な立地です。ユースで一休みした後、数少ない列車を如何に効率よく多く撮るかということが大事やとなり、その結果、原動力を確保するために自転車を借りることになったのです。このことをペアレントのおばさんに言うと怪訝な顔をします。それでも小屋の中にあると教えてくれたのです。乗れるなら乗ってみろという感じでしょうか。呆れてものが言えんみたいです。雪の積もった中、小屋へ行ってみるとまともなのは1台きり。仕方ないので誰が乗る幸運を得るかということになりましたが、その幸運な人は西村氏に決まりました。結果論ではありますが断れば良かったのに。寒中の自転車はデジ青のネタにしかならなかったわけだからね。以下は西村氏の後悔の告白であります。

:::先ず、上りの貨物を1本撮って一旦ユースに引き返しました。何しろトーフツ湖は南極越冬隊訓練の場所に選ばれたくらいであるので、凄い寒さです。鼻毛は勿論、まつ毛(2号にもあったが眼の毛という意味)まで凍ってしまって息をすれば鼻の奥が痛く、瞬きをすると目がしょぼしょぼし、手袋も今回こそ何の役にも立たないのである。足は感覚がなくなっていく。次に下りの627レと上りの650D 、630Dを撮りに出たが最後の630レだけはどういう訳か小林センセはストーブの傍から動こうとされませんでした。なお断っておきますが写真は確かに北浜ですが2日にわたるロケのどちらの日の写真かは特定しません、悪しからず。ストーリーになりにくいので、イメージとしてご覧ください。

というわけで、自転車に乗ろう作戦は失敗になったのであります。その後、冬の北海道で自転車を走り回るというのは聞きたことはないですね。冬に行かれる皆様、参考になりましたでしょうか?

■ 原生花園のユースでの鉄休(本来の趣旨から少し外れます)

原生花園ユースでは、寒さで「ロケ止ーめた!」という動きもあり、結構時間の余裕ができました。夕食後風呂に入り、ついでに洗濯もしようとなったのですが、余りの余裕にお湯も余裕があると勘違いしたのかKAWANAKA氏がじゃんじゃんお湯を使います。水から焚き上げるのですからお湯は大事なのですけどねえ。結果は浴槽にある給湯口が水面より現れ、湯の循環がされなくなりました。被害を受けたのは自転車の栄誉を受けた西村氏で無理やり湯船のなかに沈められることになりました。このようにして水面を上げようというのです。しかし、人間長い間浸かっていることは出来ないもので西村氏は苦し紛れに風呂のフタで湯を仕切ろう、それで湯を寄せようと提案し、びっくりした他の2人が洗面器をひっくり返すやら、椅子からこけるやらの騒ぎになりかけました。西村氏が体を張って浸かっていたお陰で風呂は無事水位が回復しカラ釜にならずに済みました(カラ釜はボイラーなどに水位が低いまま焚くこと、カラ焚きは水がないは少ししかない状態で焚く動作。今回はカラ焚きかも。すぐ下に出てくるチョンボはカラ釜。どうでもええけどね)。西村氏はこの経験を重工で業務に活かしたかどうかはわかっていません。JR-Eが以前カマを低水位で炊き上げオシャカにしたことがありましたが、このときは流石に熱すぎてカマに浸かって水位を上げることは不可能であったようです。なんだか脱線しましたが、原生花園ユースでは束の間の鉄休を楽しむことができました。

ユースの夜。自転車にも乗ったし大いに羽目を外した一夜■ 北浜のロケの災難

3月2日の朝、KAWANAKA氏の大声と寒さで皆さん起床となります。小林センセは大体がネコなので、寒いときは○゛以外に、コタツ病や体調不良に見舞われることが多いそうです。小林氏には迷惑かもしれませんが、本来写真を撮りに来たわけですから腹を括らないといけないのです。KAWANAKAが「汽車撮りに行かへんのけえ」と喚いています。張り切っている川中氏以外は眠い目をこすり起き上がります。朝は非常に冷えて-20℃以下とちゃうかと想像できます。寒さに震えながら今回は徒歩で例の鉄橋まで行くのですが、各自次のように分散することになり、

  • ・ 川中氏は線路を越えて海岸の方へ向かう
  • ・ 西村氏は(安直に)国道から撮る
  • ・ 小林氏はさらに浜小清水の方へ

各自の成果はどうであったのでしょうか。朝日を浴びて混合列車が姿を現し夢中でシャッターを切った、はずであったのですが。

早朝の混合列車(西村氏)・・・マトモに撮ったのは西村氏だけ
手前の水路はトーフツ湖とオホーツク海をつなぐ水路である。
川中氏が氷の中に足を突っ込んだのはここだと思える(西村氏の分析)。
混合列車の編成を見ると貨車+客車+貨車となっていて、当然ながら機関車からの暖房用蒸気は客車には来ないので、各車両にダルマストーブがあった理由がよくわかる。ダルマストーブに代わって ウエバスト式暖房機(昨今の石油温風ヒーターもどきのもの)を床下に吊るした客車もあった。

数分後、KAWANAKAが「アー、冷た。」と喚きながら西村氏に接近。「どないしはったん?」。ズボンを指差しながら「これ見てみ」。指を指す個所を見ると膝の辺りまで凍りついているではありませんか。そうなんです。川中センセは良い場所を探しておられオホーツク海の氷を突き破って足湯(足氷?)をされたのです。トーフツ湖とオホーツク海のセクションは何故か氷が薄くなっているようです。少しでもええ場所を探そうとして砂地で砂が崩れてバリッ、ボチャンとなったそうなんです。彼は何時も危ない目にあっておりますね、いつかきっと・・・  ※ 解説。皆さんはハインリッヒの法則をご存じか。1:29:300の数値があって、1つの大事故の影に29の目に見える事故があり、その陰には300のヒヤリとする事象があるという法則。ここまで彼は2回のヒヤリを経験しているので事故に会う可能性はかなり近いということでありましょう。気をつけなくてはいけません。

一方、小林センセは線路を横切る際にレール上で滑り雪の上に自分の顔型を刻印されたとのことでした。さらに写そうと思ったらシャッターが切れずフィルムが終わっていて、踏んだり蹴ったりだと怒りをぶちまけておられました。小林センセはこける回数が多いようです。

(ハインリッヒの法則追加。さらにKAWANAKAは年を変えて留萌線峠下で矢張り雨に濡れたレールにひっくり返り、誰も居ないそぼ降る雨のレール脇で、カメラを庇おうとして手の甲をバラストで負傷し、タオルを巻くしかなくかなり唸ってうずくまったこともあるので注意です。これで3つ目のヒヤリとなります。列車だけでなく気をつけませう。「せう」は現役当時標準の書き方でありましたことも追加します)。という訳で余り収穫を上げることは出来なかったのですが、寒いのでこの辺で退散してさっさとお目当ての常紋へ行くことになったのであります。

■常紋でリベンジのはずが貨物は1本

藻琴駅でC58119 と交換

北浜の出発は9:58の644D。キハ22270釧クシの単行であります。網走の手前の流氷の真ん中にぽつんとある港の灯台が印象的。あっという間に網走で、1544Dに乗り換え北見経由で常紋に向かいます。編成は、

←遠軽キハ2126旭ワカ+キハ2299旭アサ

キハ21の最前部の席は運転席越に前が見えるという結構な座席で当然ながらそこに陣取ることに。北見では短い停車時間で蕎麦を食い腹ごしらえ、昼食の弁当もちゃんと忘れず購入。無事12:58に常紋に到着となりました。

信号所に居たのは当然ですが職員の他に東京からの学生2人で、大量のKodakの高価なフィルムを持っていて、昼飯をインスタントラーメンなどで済まし宿泊は2000円くらいのホテルが多いというブルジョアのお兄さんでありました(あほちゃうか、その通りと思うとの結論になりました。2000円はこれまでの検討に拠れば1万弱かな。すごいです)。職員の話では午後の貨物は1本運休になってるらしく一同ガッカリでありましたが、ロケをしない訳にはいきません。

常紋信号場
上り大雪3号を後ろから。勾配を登ってきてトンネルに入るのが上り生田原・遠軽・旭川方向。坂を下るのが金華・北見・網走方向 下り列車。 西村氏撮影

先ず、到着後暫くして網走行き「大雪2号」がトンネルから出てきました。雪煙を上げて勾配を下っていきます。信号所で休憩をいただいた約1時間後、今度は上り「大雪3号」。ホームから撮った後、お目当ての上り貨物を撮るために金華寄りに下って徒歩りました(歩いていくという意味)。このときの撮影の興奮は正にピークでありました。考えてみれば「ニセコ」もまともに取れていないし、私鉄の訪問はそれなりのシーンでお茶を濁した訳だから、今回の急勾配が続く

興奮して撮れた写真。どういう訳かSSフィルムを使うなどサイテー。霧雪状態で視界が悪い。音だけはサイコー。

上り貨物の後補機9600。信号所が近いこともあるが、かなりスピードは遅かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

重量貨物ではそりゃ興奮というものでありましょう。この記載のある青信号22号では、西村氏は興奮をしつつもシャッタースピードや露光の難しさ、ペンタックスのねじマウントのレンズ交換が大変であったことをぼやいておられています。

待つことしばし、遠くから激しいドラフトが聞こえてきた。山の向こうで煙が上っているのが見える。細雪のどんよりした中をやおら姿を現したカマはこれでもかという激しい息遣い、吹き上げる煙、安全弁からの蒸気、目一杯の力を振り絞っての奮闘。D51と補機の96による重い貨物はゆっくりゆっくり眼前を通過していく。シャッターは切り放題。一大スペクタクルを堪能して信号所に戻ったのであります。

常紋のホームjから撮った記念写真。セルフタイマーをセットしてタイミングを図ったところ、うまく背景にDCが写った。まだ来ないなあと待っているという想定で記念撮影

その後、ホームから上ってくる貨物をキャッチなどして17:00の531レでお宿のある留辺蘂に向うのであります。なお、常紋は小林、西村両氏が本見聞録で感激にもう一度浸るために訪れています。その記録もお楽しみに。

 

 

■ 留辺蕊での感激(また鉄から脱線)

駅で大騒ぎしてスタンプを押してからユースに向かう。20分ほどで到着しました。ユースには我々の他に1人ホステラーが居て関大のお兄さんで風景写真をとっておるそうな。この日は層雲峡から歩いて留辺蕊まで来たとのことである(これはウソ、バスか何かに乗ったに違いない。歩ける距離ではおません)。それはそうとして何が感激かというと夕食で、釧路のユースで聞いていた通りすき焼きでありました。暖かい部屋で鍋を囲んでのすき焼きは格別であったのですが、KAWANAKA氏好物の食べ放題。ペアレントもそれで足りますかと大変な気の使いよう。腹いっぱいの贅沢な夕食を楽しむことができたのです。(編集者=今でも思い出すが、肉はスライスではなく、包丁で肉の塊から切ったものであった。そのために分厚い肉を食したのであります。すき焼きのユースは150泊の中に他に経験はなく、また安宿では九州の吉松のみなとや旅館で小林氏、犬伏氏との宿泊で経験したのみ。(みなと屋は昭和50年ころ廃業し、公共工事屋さんになっている。)その上、食後にお茶とお菓子を出されて余りの待遇の良さに感激し、ペアレントさんとの話しに花が咲いた。ペアレントさんの話によると最近汽車を写しに来る人が増えた。「一体常紋とはどんな所ですか」と大変興味をもっておられた。翌朝、朝食をいただいているとペアレントのおばさんが。「うちの爺さんがみんなあんまり常紋、常紋言うさかいに、一辺どんなとこやろ見てくる、言うて朝から出かけているんよ」と言われたときは何と返事したらええのか複雑な気持ちでになりました。

■ 旭川へ出て塩狩までの長い移動(旅も文も退屈)

当時の留辺蕊は材木の一大集積地で又大雪山や層雲峡への基地で活気があった。駅へ着くと好天のせいか温かく感じる。

「今日は温いな」と駅の寒暖計をみてビックリ。慣れてきたのかこの温度でありました。ずっとこんな中にいたんかと。

08:20発の522レで旭川に向かいます。着が何と13:43というのだから暇で仕方がない。新聞を買ったり週刊誌を読んだりして暇を潰すことを考えるが実際ものすごく暇で、靴を乾かしたり、寝たり起きたり、したくもない小便をしたりと色んなことをしたが、兎に角ヒマ。

遠軽←D51608 +スハ32840札オタ+スハ32384札オタ+マニ602228大ミハ+マニ602595東スミ(遠軽から方向が逆転し、ロコも替った D51953→旭川)旭川では乗換えの時間にうろうろ。丁度DC急行「なよろ1号」が停車していて旭川発幌延行「るもい2号」を併結する所でありました。併結は難儀していたようです。先頭車の連結器にはビニールのカバーで養生してありました。連結器の凍結に備えてのようでしたが、寒さはそれを凌駕しており、役に立っていないようでありました。金槌で盛んに氷を落とすも埒がアカン。とうとう1人の作業員がプロパンのボンベとバーナを持ってきた。これで炙り連結器の氷を溶かそうというのでありました。こんな景色は極寒の冬ならでは、盛んにシャッターを切りましたが、こんなことを書くほど暇でした。(この写真はよく覚えていますがネガがありません)

ここからは、14:13発の343Dで塩狩に向かいます。下校の生徒で混雑していましたが編成は;

幌延←キハ2266旭ワカ+キハ22301旭アサ+キハ22263旭アサ

キハ22301は佐久止まり、キハ22263は名寄経由遠軽行。当時のこの木目細かい運転サービスが泣けますね。単行か2連で単調に少ない本数で往復するだけで、乗換えは勝手にせい、またまた待って同じように乗り換えねばならないような度を過ぎた合理化の現在から考えられないですね。

列車は50分で塩狩に到着。列車のトイレから水が溢れていて、降りようとするときに気が付いたのだが、誰も我々みたいに気を留めなかったのでしょうか(クローバー会員は紳士ですな)。気の毒にそこに置いてあった買出しのおばさんの大きな風呂敷包みはびしょびしょに濡れてしまっている。車掌に告げて駅を出ました。単調な移動だけの旅はこれで漸く終わりになり、あとは塩狩でユースを基地にロケをするだけであります。

■ 塩狩にて

塩狩は良いところもそれより多くの悪いところもありました。ユースは駅のすぐ近くで立地はよい。このユースは最近廃業になって隣に?別の?ができているようです。ところで、塩狩は当時、小説塩狩峠で鉄ちゃん以外にも知られるようになった場所であります。敬虔なクリスチャンである省線の青年が、旭川に向かう列車の最後尾の連結器(当時の鎖のやつで車輌にバッファがついているもの)が外れて下り勾配を逆送し始めたのを、緩急車の手動ブレーキでは止められず、体を呈して(飛び降りて?落ちて?)止めることができたという、自己犠牲の物語であります。悪いが編集者はこの話は余り興味はないのですが、どのようにして止めたか、貨車の入れ替えでハンプ作業とかと突放作業での貨車の制動のように作業員がブレーキに連動したレバーの足踏みで貨車を止めるようにしたのかな、位しか関心がありません(※可哀想に今はこんな光景は見れないので若い人は気の毒であります)。これは実話であるが小説にはそんなことは命題でないことや、そもそも小説家はどないして止めたかなんかどうでもええので、実際どないして止めたのか分からない。と、まあこんなことで知る人が多いのかなと思います。そんな場所であります。

塩狩温泉は湯治場と言った方が良いような場所なのですが、兎に角例によって荷物を置いて早速撮影です。

印象としては塩狩は噂ほどには大したことがないというのが我々の結論でユースに引き上げた、のです。ユースの隙間だらけの窓から通過する列車を眺めるだけで、長時間の移動で疲れたのとひどい宿のお陰で写欲を無くしていたのです。まあ。それにしても酷いユース。留辺蘂の人間味のある扱いとは天地の差。食事も部屋もサイテー。先ずストーブの薪(木屑を固めた固形燃料)が2,3本で1時間くらいしか持ちません。クレームを言うとこれ、1晩ですと言う。最近の半分しか入っていない給食を出す保育園(こんな話題は直ぐ廃れるが、時々ある)みたいなことをする。幸いに廊下に山積みの薪を発見、しこたま部屋へ輸送して暖をとった。お陰で寝るまでは十分暖かい雰囲気が味わえたのであります。

■ 早朝のロケを済ませ移動に掛かる

いつものように寒さに震え朝を迎える。上りの1番はC55と期待し(思い込んで)駅へ急ぐ。エキチカ(駅の地下ではなく、駅近)なので便利なのが唯一このユースのメリット。ところが期待は見事に裏切られてD51が現れた。西村氏の印象は阪急の2800を待っていて2300が来たときよりより腹立たしい、のであった。

次に蘭留の方に徒歩ってみる。暫くして下りの貨物が来た。ものすごい白煙を上げて期待に応えてくれた。この貨物の最後部には客車が1輌連結されていた。更に駅で交換して来た332Dを撮ってユースに戻り出発の仕度をすることにしたのです。

このあと、美唄に向かいます。ここまで来て小回りながら北海道をぐるんと廻った感じです。

7号車に繋がります。読んでください。

寒中北海道見聞録-半世紀前の旅 6号車」への6件のフィードバック

  1. 湯口先輩がFacebookでコメントされてますが、掲示板のコメントに入っていない??のか、その辺は知りませんが、どうもそのようなので、僭越ながら転載します。
    Toru Yuguchi ·
    兵庫県 神戸市
    北海道では、銭湯の建物から一歩出たとたん、髪がバリバリと凍り、手に持っていた濡れタオルがスルメみたいに丸まってカチカチになった経験があります。また1960年当時確か北海道特有の自転車用チエーンなるものがあったとか。素人の発明品だったと記憶しますが、その後聞かないところからは、実用にならなかったのか。やはり北海道特有の「雪下駄」なるものがあり、要するにスパイク付下駄ですが、駅の跨線橋階段踏面の中央がこれによりげっそり痩せてしまうため、冬になる前、厚さ数センチの板をプロテクターとして載せていました。表面がスパイクで削られ凹むと、ひっくり返していました。

    そのReply コメント

    北浜ではチェーンを装着すべきでした。それともっとモコモコに着ておかないとアカンかったのかもしれません。自転車のチェーンは改良されて今でも売っていますけど、あんな場所では流石に使えないでしょう。そこをチャレンジしてみるのが当時のDRFCの心意気なんて思っております。それにしても銭湯に入ったあとステホやブランコで耐える精神力と体力はすごいです。すき焼きを食ってぷわーっとしていた3人とは違います。それにしても列車に乗るときは雪下駄はどないするのでしょう。車両の床が薄くなって、ひっくり返すてな訳にもいきませんし・・・。素朴な疑問が沸いてきました。

  2. お読み頂いている皆様ありがとうございます。執筆者のKAWANAKAさんご苦労さまです。
    門外不出にしていた手配写真があちこちに出てしまった同行者の小林です。読めば読むほど無茶な旅をしていたんだなあと思いますが、まあ若かったからできたのでしょう。しかし半世紀経ってもハッキリ記憶に残るほどですから、本当に楽しい旅であったことは事実です。そりゃそうでしょう、修学旅行と家族旅行以外には50kmと京都を離れたことがなかった者が、気の合った会員と共に憧れの地北海道で大雪を初体験したうえ、当時の社会現象(SLブーム)のもととなったSL旅行等に親しめたのですから。同好会会員としてはこれ以上望むべくもない珍道中を経験させてもらったわけです。
    本文にはなかった北浜駅でのエピソードをご紹介します。ホームで列車の到着を待っていたときのことでした。同じくホームに出ていた駅員さんと地元のお客さんとの会話が耳に飛び込んできましたが、なんと「今日は観光客の人(我々だけだが)が居るね。プロ!のカメラマンらしいで」と。どうも待合室でのカメラの手入れやフィルムの交換、常紋での撮影打合せなどを見聞きしたのと、KAWANAKAセンセの大きな三脚を見てそのように断定されたようでした。「おい、プロや!言われてるで」と内心ニンマリしたものでした。
    当時は真冬の観光客はまだ珍しかったのでしょう。ほかにも撮影に降りた駅や信号所での湯茶・ストーブの文字どおり暖かいもてなしなど、今となっては古き良き時代だったとしか言いようがありません。SL撮影も含めそういう時代を経験できたことは本当に幸せだったとしみじみ懐かしく思います。
    ところでホーム上には列車に積み込む荷物も何個か積まれていて、ある段ボール箱にはその頃TV放映されていた子供向け番組にちなんだ「ひょっこりひょうたん島せんべい」と書かれたものがありました。人気番組の菓子商品が北海道の片田舎にまで浸透していたという、当時の世相の一コマでした。

    • 補足訂正を。
      本シリーズの基の執筆は青信号22号は小林氏で、初めて実名が出てきましたが、KAWANAKAは今回、それをリライトしたものです。後半は西村氏の執筆、(掲載も)になります。
      ここに書かれたコメントはリライト時には忘れていました。出てきて感謝です。
      なお、手配写真の北浜はちゃんとアイマスクを入れ誰か分からんようにしていますから、ご安心を。
      それにしても、カマを見に行ってスケートしたり摩周湖行ったり、またあとでも出てくると思いますが、けったいな旅でカンジキ買ったり極寒で自転車に乗ろうとしたり、はまったり、こけたり、まあ話題提供には事欠かない旅であったと思います。
      桜の季節に飛び込んでしまいましたが、まだまだ続きそうです。
      ※寝台車利用証明書の効果をまだ聞いていません。いずれ白状ください。

      • 結果としては青信号ネタになっただけに終わっていました。当時は寝台車に乗ったということを結局家族には話しておりませんでした。なんと贅沢なと勘当されてはたまらんと考えたからです。従って小生の弟は今回のリライト版を読まない限り永久に知る由もない「はず」なのです。
        ところが一年前に弟と西村さんとのひょんな縁からこのデジ青を知るところとなり、実は戦々恐々としています。が、よくよく考えてみればもう既に48年(ですよ!あと2年で半世紀!)経過しているわけですから、これはもう十分に「時効」が成立していますよね。
        ということでネタにしかならなかった話のネタばらしでした。
        当時ガタガタと揺れるスハネ30の寝台で証明書を書いてくださったご両人には半世紀を経た今でも持つべきものは友と感謝しております。ありがとうございました。

  3. 返信は1行当たり文字数が少ないので新たにコメントを。
    寝台車の件は、もうJRに定期列車の客車寝台がないので最早ゴタゴタ言われることはありませんね。やっと枕を高くして寝られます。よかった。それから日豊線でスハネ30かどうかはまったく記憶にないですが、確か翌年3月にINUBUSE氏と乗ったと思いますが、(違うかなあ)このときは黙っておれば分からん?と証明書はの発行はしたいません。こればばれていませんね。

    • そういう事がありましたね。昭和45年3月の九州行でした。臨急桜島を折尾で捨て筑豊から撮影を始め、夜行で大畑~青井岳・田野を経て西鹿児島発日豊回り門司港行夜行を利用したときでした。オハネフ12の1両だけの寝台は満席続きで中々取れず、直前にやっと3席取れて喜びましたがうち1席の号車が「増」だったため、実はいやな予感がしていました。
      乗ってみると2席は所定オハネフ12、後の1枚は門モコの予備車スハネ30の分でした。厳正なる抽選を行った結果小生が栄誉あるスハネ30の寝台券を手にしました。やはりガタガタと揺れましたが当時既に絶滅危惧種になりつつあった30ですから、今となっては貴重な体験ができたと喜んでいます。(ヤセ我慢ではありません)

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