【83449】 カラーで振り返る 昭和の気動車 -2-

昭和30年前後、前述のキハ10系に続いて、改良が加えられた新系列のDCが続々投入されることになります。当時の軽量客車の技術を採り入れて、車体断面を拡大の一般車として登場したのがキハ49000(のちのキハ20)でした。走行機器はキハ10系を踏襲しましたが、座席の構造や間隔も大幅に改善されて居住性が格段に向上しました。前回、キハ10系が前に停まれば“ハズレ”でしたが、キハ20系はその逆で“アタリ”でした。昭和32年に登場以来、キハ20系は、一般形DCの主力として、最終、昭和41年までに1126両が製造されることになります。日本一の積雪量を記録したこともある豪雪地帯の飯山線森宮野原付近を行くキハ20系(昭和47年2月)。


雪原を滑るように通り過ぎる、キハ20511先頭の飯山線142Dが森宮野原~足滝を行く。500番台車はキハ20の最終グループ(昭和47年2月)

キハ20系

キハ10系に続く後継の系列はキハ20系以外にもあった。ひとつは、車体幅はキハ10系と同じく狭いままで、車体長を延長し機関を2台搭載した強力型のキハ44600・44700(のちのキハ50・51)が開発され、勾配線区にも投入される。もうひとつは、準急用のDCで、昭和29年、上野~日光間「日光」2時間運転のために投入された。機関2台、車体幅・高さも広げて客車並みの設備とした大型DCの第一号となる、キハ44800(のちのキハ55)の誕生である。車体塗色もクリームに赤帯となった。
いっぽうキハ20系の基本形は、両運転台のキハ20、片運転台のキハ25であり、寒冷地用のキハ21・22、勾配線区2機関のキハ52など7形式が揃えられることになるが、今回はキハ20のみ紹介しよう。
新雪のなかを行くキハ20系、飯山線桑名川~上桑名川。飯山線は積雪地帯だが、それほどの勾配もないため、1機関のキハ10・20系が使われていた(昭和47年2月)。
名松線の終点、伊勢奥津駅で折り返すキハ20 463単行、名松線は平成21年の水害で長らく家城~伊勢奥津が不通だったが、昨年7年ぶりに開通した。当時は腕木式信号機、給水タンクと、ひと昔前の終点の光景を見せていた(昭和46年7月)。
冬枯れの山陰線馬堀を行く、キハ20ほかの列車。山陰線ではこの時期、まだC57の牽く客車列車が走っていたが、その間を縫って走るDC列車も、客車編成並みに長編成だった(昭和46年2月)。
三重連で有名な芸備線布原信号場付近を行く、キハ20+キハ16の2両編成、昔も今も、この付近の旅客需要は少なかった(昭和46年9月)。
いまは無き宮原線の終点、肥後小国駅で発車を待つキハ2090。だいぶ前のデジ青にも記したが、宮原線は朝夕のみの運転で、アプローチは困難だったが、土曜日だけ午後に1往復が設定されて、何とか乗車を果たせた(昭和51年9月)。

 カラーで振り返る 昭和の気動車 -2-” への2件のコメント

  1. 小生の好きなキハ20系になると多少の想い出もあります。山陰線の長編成に触れておられますが、小生も小学生の頃に梅小路横の築堤を京都駅へ進入してくる8両編成を目撃したことがあります。目撃したのは早朝東舞鶴を出て9時半頃京都着の列車で、途中園部から早朝の胡麻往復運用車3両を増結しての8両でした。もっとも東舞鶴から5両で出発したのか、綾部あたりで増結していたのかは詳らかにしません。初期バス窓車ばかりの堂々8両編成は今もはっきり記憶しています。
    梅小路は10系以来新型DCが全国に先駆けて早期に配置された名門機関区でした。そのためその後の20系初期車(いわゆるバス窓車)も大量に配置されていたほかか、今や廃車も始まった40系キハ47が最初に配置され福知山を往復したのも同区でした。
    余談ですが当時は10系も何両か配置があり、いつだったかタキイ種苗前で見た中にキハ10 9号車がおりました。同車は後年長崎機関区へ転属し、その後大村線で再会したこともありました。
    一時DCの転属状況に興味を持ち少しばかり追跡したことがありました。後に全国を制覇したキハ58系のトップ58 1は最初小郡に配置、急行山陽と準急あきよしに運用、その後九州の急行かいもんにも運用され、末期はなんと直ぐ近くの福知山配置で身近だった急行丹後等にも入っていました。ナンバーマニアには面白い話ですが。

  2. 1900生様
    コメント、ありがとうございます。山陰本線は当時でも京都口では、かなりの輸送量がありましたから、気動車とは言え、客車列車並みの編成が求められていたと思います。途中駅での増解結は、気動車ならではの特性ですから、輸送量に応じて、柔軟に対応していたのでしょう。
    梅小路の配属にも触れられていますが、私も趣味誌を引っ張り出して車歴を調べていましたら、当時のキハ45000、称号変更後のキハ17は、トップナンバーはじめ、1~5が梅小路区の配属だったのですね。DLでも試作機がよく梅小路、福知山に配属されていました。そのような意味では、山陰本線の京都口は、内燃動車・機関車のパイロット基地でもあったと思います。

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