関三平先生情報

産経新聞に5月10日の「京都市電600型」以降掲載がないので心配しておりましたが、先ほど関先生にお電話で伺ったところ、「産経新聞の都合で4週に一回になってしまった」との事で、心配していたご健康に問題は無いとのことでした。皆様、ご安心ください。ただ、掲載が4週間ごと(それも確実ではない)となると話題が散漫になるのではとご心配のご様子です。

同志社クローバー会のホームページは見ているとのことで、600型の盛り上がりには感心のご様子です。ただ、お使いのタブレットが壊れて買い換えたが設定が出来ないとかで、奥様のスマホでご覧の旨、ご不便されているようです。

取りあえず、ご報告いたします。

京都市電600型研究

前・スレッドが伸びすぎましたので続編として新しく立ち上げます。

昨日、旅に出るので帰るまで待ってください、と言ったのですが、こんなおいしいごちそうを目の前にして頂かずにおられましょうか!
旅の準備は後ほどにして早速調べました。

烏丸車庫615

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めずらしい客車 

手元に河 昭一郎様からのお手紙に添えて、古い客車の写真が届けられました。
ご承知の通り河 昭一郎様は国電に関して有名な研究家で、クローバー会の会友とも言える方です。河様のプロフィールに関しては古くから昵懇でおられる特派員氏から改めてご紹介頂くとして私は「珍しい客車」の写真をご覧に入れます。

写真は全部で7枚、失礼ながら年配の方にはあまり珍しくない物も含まれますが、最後に珍品中の珍品が出てきます。お楽しみにご覧ください。

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宮崎繁幹様からのご質問に答えましょう!

宮崎繁幹様、
ご返答が遅れましたことをお許しください。
また、普段より当会の会員がご懇意にして頂いているとのこと、心よりお礼を申し上げると共に、今後とも東京在住の会員との交流、ご指導をお願い致します。

さて、私は26日から27日まで後輩諸君による、研修旅行と称する“シゴキ合宿”に参加しておりました。そのため、帰京後も疲労困憊してコメントを拝見するのが遅れてしまいました。

宮崎様からのコメントは
《この写真は、亡くなった小生の友人、山本明弘さんの撮影です。彼は、写真は見れば判るだろぉ~、と云う調子でした。その為、データが全然ありません。「撮影日は?」と聞いたら、セミ判密着は、昭和30年前後、35ミリ版になったのは、33年位からだ、てな具合でした。従い京都市電の写真は、セミ判なので、昭和30年頃です。

押しかけで恐縮ながら、地元の同志社の皆様に場所が御判りなら、教えて頂きますよう。どうぞ、宜しく。》というものでした。

さて、ご投稿頂いたコメント欄では写真が拡大できないため、別途画像処理しまして分析しました。ご覧ください。

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総本家青信号特派員氏に地図を供する

特派員氏の「まんぽ」散歩は緻密な取材でなんとも愉快です。ぶんしゅう氏の路面電車旅行や西村氏の旧跡探訪とともに安楽マニアの私にとっては想像の翼が広がる大好きなシリーズです。

そこで、つい調子に乗って私もお付き合いさせて頂きたくなりました。
以前に乙訓の長老から「古い地図があるから見せてやる」とお借りした地図を、必要と思われる部分だけをコピーしておいたのです。それは旧東海道線の位置が今の塩小路通付近に通っていたと聞いたことがあり、それを確認するためでした。

まず、明治初期の古地図を資料館で手に入れて、長老の地図と現在の地図を同じ縮尺に換算し直して重ねてみました。そうすると梅小路付近の変遷が分かったのです。
先日も特派員氏の記事に地図を入れましたが、拡大できないことや90°曲がっていたなどで参考にもなりませんでした。そこで改めて地図をご覧に入れます。

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鉄道、つれづれ草《ことでん その1》

乙訓の老人が、つれづれなるままに撮りためた写真と想い出を書き綴るシリーズ。
今回は幼い頃から姉の嫁ぎ先であった善通寺への旅でなじんだ高松琴平電鉄「ことでん」です。
例によって乙訓の老人が書きためたデータは雲散してしまっていて、正確な事が書けません。ご覧になった皆様が、それぞれの知識で書き加えたり、訂正してください。早い話が、『Wikipedia』ならぬ『Okipedia』と致します。ご協力をお願い致します。

なお、乙訓の老人から「参考に使え」と渡された本が、老人が資料を提供して特派員氏が編集した「琴電100年のあゆみ」森貴知氏(canbooks)でした。解説はこの本と、老人が原稿に添付してくれたメモを使っております。
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京都市電600型

関三平先生の「昭和の電車」で、やっと京都市電の600型が取り上げられました。600型は当時としては最先端の“流線型”市電として、その後の市電デザインを先導したと言える傑作市電です。

ちょっとウンチクを少々。
600型は95両作られましたが、85両が戦前に、10両が戦時設計で作られたため窓の数などが違います。そのほか物資不足からデザイン上の装飾も違い、優雅な戦前型と貧相な戦後型(就役が戦後)は見れば分かります。因みにベージュとグリーンのツートンカラーになったのは600型からです。
この記事にあった「爆走」は、烏丸線でも見られました。今出川から丸太町までの御所の西側を下るときに、車体を“ガンガン”いわせて暴走したのを覚えています。

乙訓の老人 鉄道つれづれ草《続・続・続 富山地方鉄道のこと》

老人は、三八豪雪後の5月に勤務先が工場火災に遭い、それまでに撮りためていた富山時代の写真は、ネガを含めて全て失ってしまった。そんなことで高岡地区には精通している。このシリーズは、残っていた写真と、それ以降に訪問して新たに撮った写真で構成してみた。
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木次の“おろち”様より

昨年の木次旅行でお世話になった、“おろち”こと「C56105保存会」副会長様から会報が贈られてきました。文中に昨年の我々の訪問や、協力したフォトブック「想い出の木次線」が紹介されていますが、やはり心配なのが三江線亡き後の木次線の行方です。今後ともご協力は惜しみませんとお礼状にしたためておきました。
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和歌山電軌 200型2000型

今週は「和歌山電軌」です。
以前に【13023】和歌山鉄道 クハ803など(2011年4月19日)湯口徹先輩、
【45884】元祖馬面電車より物申す(2014年4月2日)乙訓の老人先輩で紹介されていて、特に乙訓の老人先輩はこの2000型に関してこの稿で触れておられます。
私としては子供の頃に和歌山で見た電車の横っ腹にあった社章が扇型で、要の部分は車体と同じ面に描かれているが、上方へ行くに従ってめり込んでいく立体感に目を奪われたのを覚えています。

 

乙訓の老人 鉄道、つれづれ草《続・富山地方鉄道のこと》

〔続編投稿に際して〕
長年眺めている富山のことでもあるので、スラスラ運ぶと思っていましたが、オッとどっこい、そうはいかないハメになってしまいました。あと16日で満80才になります(4月30日がお誕生日)。その後がどうなるか不明?すてきなデンシャの事だけは胸に秘めて生きていきたいと思っています。ややこしい文章でごめんなさい!

㉛ 寺田で折り返しを待っていたら、先の「京阪特急」がやってきた。1991.8.14
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スロハ38、ありました!

河 昭一郎様の秘蔵写真を掲載するに際して、自分が撮っていないことを残念に思っていましたが、そういえばどこかに正体不明のロハが写った写真があったことを思い出して探しました。
撮っていました!とは言えない「写っていました」写真が出てきました。
言い訳ではありませんが当時はまだ中学生、客車に興味はまだなく、線路端でシャッターを切ることだけに専念していた時期でした。特派員さんの言葉通り、記憶が記録となったいい例です。ご笑覧ください。

なお、特派員さんの投稿を利用してばかりでは申し訳ないので、たいした写真ではありませんがスレを立てます。

梅小路築堤

C51の牽く下り各停、オハニ61の次位がスロハ38と思われます。こんな写真しかなくて本当に残念です。場所は旧丹波口駅に進入する直前、今の鉄道博物館入り口に当たるところです。

大分交通別大線 150型、1000型

関先生の仰るとおり、私も修学旅行で宮崎への途中に併走したことがありました。その後もテレビでマラソン中継を見るたびに横を走る電車の方に目が行ってしまいました。いつの間にか電車はなくなり、別大国道が広くなっていました。

散歩道で見つけました-追加・京津、石坂線-

京都の人々にとって、長い間“水泳”と言えば琵琶湖でした。海水浴という言葉は特別な響きがあり、泊まりがけで行く旅行を意味していましたが、“水泳”は手軽な日帰りのレジャーでした。その時乗るのが「京津電車」で、琵琶湖は子供時代なじみの水泳場でした。

藤田さんの撮りためた京津線・石坂線の電車を最後にお目にかけます。

※ 不明の場所や車両に関する情報はお教えください。
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散歩道で見つけましたー追加・京阪本線ー

ご無理を言ってお借りした写真を菱屋さんまでお返ししに上がりました。
すると、藤田さんが「京阪の写真を集めておきましたが・・」と言われました。そういえば京阪の写真がありませんでした。それでは追加しましょう、とお預かりしたのです。それも大量にありますので京阪本線編と京津線・石坂線編とに分けて発表いたします。
※写真の選定には沖中忠順先輩のご助言を頂きました。

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