11月22日投稿の【102177】『近鉄ファンへのプレゼント!・伊勢電鉄モハニ231』に関して宮崎繁幹様から「モニ6231の前側部窓下のプレートは何か?」との質問がありました。私がハガキで先生にその旨をお尋ねしたところ、本日封書でご回答を頂きました。いつもの通り、達筆の長文ですので僭越ながら要約して掲載させていただきます。なお、INUBUSE氏から「近鉄社章と型式、定員、自重を刻印した鋳物のプレート」との回答を頂いております。
続きを読む
投稿者「米手作市」のアーカイブ
J train 72号 2019冬 ロングインタビュー「JR貨物に訊く」
ホームカミングデーのパーティーで同席になったJR貨物のS君からこの本のことを聞いた。2011年の東日本大震災の時も新潟から郡山までの迂回貨物列車を走らせた経験を持つ彼に、また再度の重責が課せられたのだ。
本年夏の山陽本線不通災害により山陰本線を迂回する臨時貨物便を走らせた事に関してインタビューを受けて、その応答が巻頭8ページに亘って掲載されている。
単にスジを引いて走らせれば良いのではないことはこれを見ている誰でもが知っているが、その実務を理解するためにも一読してほしい。折しも来年度予算に、災害時のために高速道路を三車線にするための予算を組み込むとかの報道があったが、二車線が被害に遭っても三車線なら助かる確率よりも山陽線が不通になって山陰線を迂回するとか、東海道線が不通になって貨物輸送を中央線に回す確率の方がよっぽど高いはず。このようなことなら東海沖地震がおきたときにはまたS君が引っ張り出されることになる。
1650円(税別)で販売されているのでお買い求め願いたい。
また、東日本大震災の時の記録は、2016年12月29日にテレビ朝日より「希望のレール~被災地へ燃料を~」というタイトルで放送されて彼もインタビューに答えている。
鉄道、つれづれ草ー一畑電鉄編ー
これは研究発表ではなく、老人の思い出話としてお聞き下さい。なお、写真は老人が撮りためた一畑電鉄の写真ですが、思い出の時期とは一致しませんのでご承知下さい。
乙訓の老人の人生最初の『鉄道』の思い出は一畑電鉄だったようです。
続きを読む
近鉄ファンへのプレゼント!
わらくろや社長様 コの付く客車
先日、マルーン会長のお供をして明延1円電車乗車と坑道見学に行ってきました。
その時に随行してくれたのが山科で有名な旅行社・わらくろや旅行社社長です。各地の有名人とのコネがあるのか、行く先々で土産店や食堂で歓待されました。
その旅行の途中で「客車には記号があって“ナオスマカ”が付くのです」と会長や同行のJR西日本大株主・ましたしも氏にのたまうので、思わず「コホナオスマカが正しい記号で・・」と言いかけると、「コホの付く客車などありません。見たことがない」と言下に否定するのです。見たことのないものは信じないというのは心貧しき人々によくあること、でも客車となると見逃すことはできません。井原さんに叱られる!
で、帰って調べましたら一枚撮していました!
かなり古く、しかも濃い霧の中で撮ったものですから写りはもう一つ、でもそんなことは言ってられませんのでお許しください。
わらくろや社長、これが“コの付く客車”や!
続きを読む
参宮急行電鉄デニ2000型
大阪電軌デボ1000
近鉄は、いろんな私鉄を糾合して出来た大鉄道です。
子供の頃に父親が『ダイキに乗って・・・』と言うのを聞いて、ダイキとはなんだろう?と思っていたが、後に『近鉄』のことだと知って驚いたおぼえがあります。
でも、こんな面白い出で立ちの電車だったら楽しかったでしょうね!
木次線の近況(新聞記事から)
広島支部長の西村さんの領域を侵すようで失礼極まりないのですがお許し願いたい。
知り合いの松江在住の方から、『木次線に関する記事が出たのでコピーを送る』と知らせてくれました。
日経新聞の記事ですが、沿線の方々も存続に向けていろいろ知恵を絞っておられるようです。なにか協力できることがあればと、個人的に考えております。
めずらしい客車 Ⅲ
河 昭一郎さんは「客車は門外漢ですから手当たり次第に撮っています」と謙遜されますが、手当たり次第ならもっとオハ35やオハ61があってもいいと思うのにそれがどうして、なかなかのクセモノ車輌を選別して撮られています。
昭和40年代になると客車も改造や格下げ、それに台車履き替えなどが出てきてそれらを国鉄は律儀に形式を変えたものですから覚えられなくなったものです。今回はそんな客車たちも出てきます。
「客車」の定義はなにか?とのご質問がありましたが、私は“コホナオスマカ”が付いている車輌と考えております。
▲カニ221はパンタの付いた客車、といってもディーゼル発電機と電動発電機を積んだ「電源貨物車」
1960年「はやぶさ」用に作られた。東海道本線と全線電化が完成した山陽本線では架線から電気をとって電動発電機を回して発電。鹿児島本線ではディーゼル発電機を使って発電し電気を供給する。そのためにPS18を2基屋根に搭載する。パンタはEF58やEF65などの機関車からリモコンで上下させる。しかし、軸重が16tもあり熊本以南では路盤を強化しても最大で70kmの制限を受けるため、実際には路盤強化したら75kmで走れる長崎本線の「さくら」に使用された。68年にはMGとパンタを外して軸重を軽くしてカニ21と共通運用できるようになった。
めずらしい客車 Ⅱ
会友・河 昭一郎さんのパソコンが故障して復旧にしばらくかかっていましたが、この度無事復旧しました!(JRより早い!)
ご本人によれば、「客車は門外漢なので玉石混淆。取捨選択は米手に一任する」との事ですが、さすがは『国電の大家』、眼力は一流です。全部掲載したいのですが枚数が多いので、かつて掲載したもの、キズが多いもの、複数あるものなどは省きました。
その写真はスキャンされたものが送られてきましたが、最初の一枚が懐かしい茶色の客車でした。こんな昔の写真なのにカラーとはめずらしい!と感激しましたが、進むにつれてなんかおかしいと思い出しました。そこで河さんに「カラーですか?」とうかがったところ、「とんでもない、白黒ですよ。いろいろ調整した」とのこと。
分かりました!これはスキャナーをカラーモードにして白黒をスキャンすると出る現象です。しかし、これほど当時の色が再現されるのは偶然ですからご覧に入れます。
ネガや写真をスキャンするときはモードを「カラー」ではなく「グレースケール」にすると純黒調に近い調子になります。でもこの写真はあまりにもカラー写真に近いので、あえてそのままにして掲載しました。
大阪鉄道デホユ型
鉄道、つれづれ草ー福井編ー
乙訓の老人は、大学卒業後に富山の企業で働いておられました。
この時期に会社が火災に遭い、それまで撮りためたネガや資料を全てなくされたのです。ここにご覧に入れる写真は全てその後に撮られたものなので、時期的に一時期の車種に集中しております。また、台数などの資料も当時のデータに準拠しており、その後変動したものもあります。
なお、一部に介護士が撮ったものも了解を得て挿入しております。
京福電鉄越前本線という。福井県へ電力を供給していた京都電灯が余剰電力の活用のため、大正3年4月10日に福井ー大野口間を開通させたのに始まる。因みに、「京福電鉄」という名前は、京都と福井を繋ぐ鉄道計画があったという意味ではなく、京都電灯の「京福送電線」から来た名前である。
国鉄との貨物車輌の乗り入れは昭和55年7月まで続いた。
続きを読む
鉄道、つれづれ草 ーエイデン編ー
じっとしていても倒れそうになる7月の午後、乙訓の老人はアルバムを小脇に抱えて、四条大宮の木陰で、律儀に待っていてくださいました。
今回は京福電鉄です。この電車には、一時期、介護士もお世話になりましたが、福井地区と叡山・鞍馬地区と嵐山地区に分かれるため、京福電鉄へのなじみは叡山・鞍馬地区(線)に限定されます。
それなのに老人様は「写真はここから選んで!当時の記録は火事で焼けた(老人の丸投げ時の常套句)のでわからへん」と言いながら、昭和61年発行の「れいる17号」をテーブルに投げ出しながらコーヒーをすすられました。
これではリハビリにはなりませんがやむを得ません。引き受けました。
さて、始めて見るとこれが大変です。「京福電鉄」は現在では分割されて、車輌もすでにないものや、新たに作られて昭和61年の本には載っていないものなど介護士の知識では説明できないものがたくさんあります。そのため、曖昧な説明になりますが、間違いがあればご指摘ください。訂正致します。記号、車番など現在と違う表記は、老人の時代のものとご理解ください。また、嵐電は、老人の好みに合わないとかで収録されていません。
続きを読む
Nakabayashi Collectionにある“混合列車”
作品を公開するに当たって作者名をどうするかで悩んだ。通称「大阪通信員」として洒脱な名文を投稿されている方の本名を出していいものかと言うことである。ご覧の通り、作品は詩情豊かに鉄道の青年期から壮年期への曲がり角を克明に切り取っている。ユーモアあふれる投稿とはひと味違う写真集なので、ここは本名を書かせて頂き、ご本人のお人柄をご理解頂こうと考えた。ご本人は21時を廻ったので、すでに眠っておられる。早朝に起きられて激怒されても、今度はこちらが眠っているのでいいと決断した。
中林英信氏は全国をくまなく撮影している。その作風は元祖青信号特派員氏や、故・天野克正氏に通じるものがある。氏が撮られた中から「混合列車」の数点をご覧いただきたい。なお、コメントは主にご本人が写真の裏に記入されたものを使用し、一部を編集した。
南海電車2001系
「呉線への思い」に応えて
いま編集作業をしている「Nakabayashi Collection」の中に「呉線」を撮った秀作があります。もちろん昭和30年代の写真ですから非電化、大型蒸機が総出演です。陽光を浴びた瀬戸内の海岸を、煙をたなびかせて客車列車が走る。時代は変わってもそんなのどかな海辺の風景が、先日、一瞬にして見たこともない地獄絵図になってしまいました。
このたび、呉線への思いを写真で綴る投稿が発表されました。その写真を見ていると、懐かしさとは別に命の尊さとはかなさに胸が押しつぶされる思いがします。
被災された沿線の方々に見ていただけるかは分かりませんが、昔、たびたび足を運んだ我々にとって出来ることは平和だった頃の姿を今に残すことではないかと思いました。
作者にお伺いしたところ、お役に立つならぜひとも見て頂こうとのことで、呉線の写真の一部を発表させて頂くことにしました。そしてこれが被害に遭われた沿線の方々へ応援歌になればと思っております。
鉄道介護士からのお願い
DRFCクローバー会の鉄道介護士・米手作市でございます。
おかげさまで昨今はお客様が増えて大繁盛しております。昨日の大阪大運転会では大阪通信員先輩から大量の写真を預かりました。この方はめったに作品を見せてくれないのですが、すばらしい作品をたくさん撮っておられることを私は知っていました。しかし、最近は前立腺肥大前に引っ越したことが原因なのか、胴回りが学生時代の二倍になった(目視による)せいなのか撮った場所が分からないことが多くなったそうです。
作品は整理中ですが、数百枚はあるようです。概ね撮影地が推察できるものは仕分けていますが(私の知識に寄るので正確では無い)全く分からないモノがあります。そこであらかじめここにご覧に入れますので背景や車番などから撮影場所を特定することにご協力ください。間違っていてもかまいませんので、出来るだけ多くの方(外部の方でも大歓迎!)の知識をお貸しください。
では、どうぞご覧ください。
続きを読む