不肖・米手作市が伏せっているときに間を取り持ってくださった愛すべき友人・西村雅幸様からのご要望に応えて(そんなに大層なものではない)西大路駅の西側にあった国鉄京都自動車工場の写真を貼ります。と、言っても工場を撮ったのではなく、たまたま写っていたと言うことです。
↑中学生のころの写真ですから“架線注意”です。右の丸い屋根がそうです。左の工場は湯浅電池。
この方がわかりやすいかも。右の建物が自動車工場です。線路と道路の間の畑に今は新幹線が走っています。工場の跡は今もJRバスの車庫があります。
第一回「ここはどこ?私はだれ?」で、宇都家さんから「水間鉄道の写真を見せろ」とのご希望を頂いたので約束を果たします。
親戚が貝塚にいたため、時々行っていました。
当時は京都から時間がかかり一日仕事でした。昭和35年頃だと思いますので中学生で、物心ついて初めての南海電車でした。阪和線と水間線の交差点が近くにあったので時間つぶしに撮したのでしょう。数枚ですがご覧下さい。
瞬殺です!
甘く見ていました。せめて正月明けまではお茶を濁せると思いましたが、ここの諸兄はただものではない。
今次大戦で日本海軍は米国の16吋砲に対してそれを凌駕する18インチ砲を装備した大和級を建造しましたが、時はすでに航空戦力に主役の座を奪われていたのでした。
つまり、二次元の想定に対して世界の主力は三次元になっていたのです。
今回の企画はまさに同一線上の間違いをしておりました。インターネットやgoogleの衛星写真という近代兵器に完敗しました。
それではベトコン戦術で衛星からも識別不可能な場所での写真を繰り出して応戦します。準備不足のため予備役招集です。
予備役の応召部隊ですから多少まだ甘さがありますが、しばらく時を稼いでくれるでしょう。まだ後には精強な部隊が控えていますから油断めさるな!
年末はお忙しいのか、常連の重鎮諸氏が相次いで早々と年末のご挨拶をされて店じまいされました。
それではご覧の皆様が「もう休むのか!他へ行こう!」と言われるのではないかと一人気をもんだあげく、年始に重鎮からの投稿が始まるまでのつなぎに肩の凝らないお話しをご覧頂きます。
歳をとると題目のごとく「私はだれ?」はありませんが「ここはどこ?」はたびたび思い当たります。そこで古い写真の中で今では思いも付かない場所で撮ったものがあるので何処で撮ったものか、撮影場所を当ててください。皆様もお持ちでしょうから続いてくだされば面白い企画になるのでは?
では、ご覧下さい。
場所は大体で結構です。そこだと思う根拠もお書きください。東京の皆さんにはむつかしいかな?
11月22日投稿の【102177】『近鉄ファンへのプレゼント!・伊勢電鉄モハニ231』に関して宮崎繁幹様から「モニ6231の前側部窓下のプレートは何か?」との質問がありました。私がハガキで先生にその旨をお尋ねしたところ、本日封書でご回答を頂きました。いつもの通り、達筆の長文ですので僭越ながら要約して掲載させていただきます。なお、INUBUSE氏から「近鉄社章と型式、定員、自重を刻印した鋳物のプレート」との回答を頂いております。
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ホームカミングデーのパーティーで同席になったJR貨物のS君からこの本のことを聞いた。2011年の東日本大震災の時も新潟から郡山までの迂回貨物列車を走らせた経験を持つ彼に、また再度の重責が課せられたのだ。
本年夏の山陽本線不通災害により山陰本線を迂回する臨時貨物便を走らせた事に関してインタビューを受けて、その応答が巻頭8ページに亘って掲載されている。
単にスジを引いて走らせれば良いのではないことはこれを見ている誰でもが知っているが、その実務を理解するためにも一読してほしい。折しも来年度予算に、災害時のために高速道路を三車線にするための予算を組み込むとかの報道があったが、二車線が被害に遭っても三車線なら助かる確率よりも山陽線が不通になって山陰線を迂回するとか、東海道線が不通になって貨物輸送を中央線に回す確率の方がよっぽど高いはず。このようなことなら東海沖地震がおきたときにはまたS君が引っ張り出されることになる。
1650円(税別)で販売されているのでお買い求め願いたい。
また、東日本大震災の時の記録は、2016年12月29日にテレビ朝日より「希望のレール~被災地へ燃料を~」というタイトルで放送されて彼もインタビューに答えている。
これは研究発表ではなく、老人の思い出話としてお聞き下さい。なお、写真は老人が撮りためた一畑電鉄の写真ですが、思い出の時期とは一致しませんのでご承知下さい。
乙訓の老人の人生最初の『鉄道』の思い出は一畑電鉄だったようです。
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先日、マルーン会長のお供をして明延1円電車乗車と坑道見学に行ってきました。
その時に随行してくれたのが山科で有名な旅行社・わらくろや旅行社社長です。各地の有名人とのコネがあるのか、行く先々で土産店や食堂で歓待されました。
その旅行の途中で「客車には記号があって“ナオスマカ”が付くのです」と会長や同行のJR西日本大株主・ましたしも氏にのたまうので、思わず「コホナオスマカが正しい記号で・・」と言いかけると、「コホの付く客車などありません。見たことがない」と言下に否定するのです。見たことのないものは信じないというのは心貧しき人々によくあること、でも客車となると見逃すことはできません。井原さんに叱られる!
で、帰って調べましたら一枚撮していました!
かなり古く、しかも濃い霧の中で撮ったものですから写りはもう一つ、でもそんなことは言ってられませんのでお許しください。
わらくろや社長、これが“コの付く客車”や!
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河 昭一郎さんは「客車は門外漢ですから手当たり次第に撮っています」と謙遜されますが、手当たり次第ならもっとオハ35やオハ61があってもいいと思うのにそれがどうして、なかなかのクセモノ車輌を選別して撮られています。
昭和40年代になると客車も改造や格下げ、それに台車履き替えなどが出てきてそれらを国鉄は律儀に形式を変えたものですから覚えられなくなったものです。今回はそんな客車たちも出てきます。
「客車」の定義はなにか?とのご質問がありましたが、私は“コホナオスマカ”が付いている車輌と考えております。
▲カニ221はパンタの付いた客車、といってもディーゼル発電機と電動発電機を積んだ「電源貨物車」
1960年「はやぶさ」用に作られた。東海道本線と全線電化が完成した山陽本線では架線から電気をとって電動発電機を回して発電。鹿児島本線ではディーゼル発電機を使って発電し電気を供給する。そのためにPS18を2基屋根に搭載する。パンタはEF58やEF65などの機関車からリモコンで上下させる。しかし、軸重が16tもあり熊本以南では路盤を強化しても最大で70kmの制限を受けるため、実際には路盤強化したら75kmで走れる長崎本線の「さくら」に使用された。68年にはMGとパンタを外して軸重を軽くしてカニ21と共通運用できるようになった。
会友・河 昭一郎さんのパソコンが故障して復旧にしばらくかかっていましたが、この度無事復旧しました!(JRより早い!)
ご本人によれば、「客車は門外漢なので玉石混淆。取捨選択は米手に一任する」との事ですが、さすがは『国電の大家』、眼力は一流です。全部掲載したいのですが枚数が多いので、かつて掲載したもの、キズが多いもの、複数あるものなどは省きました。
その写真はスキャンされたものが送られてきましたが、最初の一枚が懐かしい茶色の客車でした。こんな昔の写真なのにカラーとはめずらしい!と感激しましたが、進むにつれてなんかおかしいと思い出しました。そこで河さんに「カラーですか?」とうかがったところ、「とんでもない、白黒ですよ。いろいろ調整した」とのこと。
分かりました!これはスキャナーをカラーモードにして白黒をスキャンすると出る現象です。しかし、これほど当時の色が再現されるのは偶然ですからご覧に入れます。
ネガや写真をスキャンするときはモードを「カラー」ではなく「グレースケール」にすると純黒調に近い調子になります。でもこの写真はあまりにもカラー写真に近いので、あえてそのままにして掲載しました。