(旧)江若鉄道近江今津駅本屋

連日の酷暑でこのサイトへの投稿も(拙老を含め)諸兄夏バテと見え、すこぶるはかばかしくないが、老朋友から情報が。トシにもかかわらず125CCの原チャリで元気に走り回っていたつい先日、かつての江若鉄道終点駅、近江今津の本屋の建物が残っているのを見つけた、というのである。

独特の山小屋風トンガリ屋根と、勾配がゆるい片流れ庇を組み合わせた近江今津駅本屋は、諸兄の記憶に鮮明だろう。この老人も、他の(重要なものほど)記憶はかなり怪しく、一部は完全にスッコ抜ケしているが、この駅舎はまだ脳中のメモリーに残存している。

で、今どうなっているかは、彼氏撮影の写真をご覧じろ。最初に見た印象は、もっと大きかったんじゃないかという疑問であった。かつてのプラットホームやヤード、車両留置の建物類はことごとく姿を消し、道路と駐車スペースになっていて、大きさを比較すべきものが周囲にないせいか、意外に小さく見える。しかしこの屋根と勾配は、まぎれもない。

以前このサイトで、秋保電鉄秋保温泉駅舎(というもおこがましい、単なる物置の残骸の如きボロ小屋)が、今も酒屋の車庫で健在、と書いた記憶がある。(仙南交通)秋保電鉄の廃止は1961年5月8日だったから、廃止後現在で実に49年余である。

江若鉄道が三井寺(後の三井寺下)―叡山間初開業が1921年3月15日。浜大津に伸び国鉄線と接続したのがその4年後。近江今津に達したのが1931年1月1日である。湖西線建設に先立って廃止されたのが1969年11月1日だから、現在だと開業以来89年半、近江今津延長から80年近く。廃止後41年を経過する。即ちこの旧近江今津本屋は、80年を経過している次第。よく手が入って増築もされており、昔の姿を知らない人には、旧近江今津駅本屋といっても、信じがたいかも。

元気に次々と江若の車両やシーナリーの製作を継続中の西村雅幸氏は、遠隔地居住故、ちょっと見に行くわけには参らんだろうし、確か(老人の記憶が不確かだが)西村氏の近江今津駅舎はとっくに完工している筈だから、いまさら参考にもならんだろうが。


1955/57年北九州福岡3

前々回挿入し忘れがあり、話が前後し申し訳ないが、トシの所為としてご寛容の程を。東小倉の廃車体で、1932年廃車後小倉鉄道に払い下げられ、1943年5月1日同鉄道買収で復籍した客車。経歴は鉄道作業局11(新橋工場1900年製造)→鉄道院ホロ5516(形式5510)→ホロハ5740(5740)→ホロハ1460(1460)→ホハ2440(2440)→小倉鉄道ホロハ1→ホハニ1→再買収ホハニ4097となる。


ホハニ4097廃車体←小倉鉄道ホハニ1←ホロハ1

ナハ2457廃車体 吉塚

吉塚にも廃車体が3つあった。ナハ2457は1951年4月30日門鉄で廃車になったもので、鉄道作業局ホボ41→鉄道院ホロハ5725(形式5720)→ホロハ1458(1450)→ナハ2457(2450)。神戸工場1909年製である。車体中央に外釣引き戸が設けられているのは、戦時中の多客化改造=通勤用客車になっていたから。


ナハフ14121廃車体 トラス棒がついたままなのが珍しい 吉塚

筑前参宮鉄道ハ3~6のどれか 菱形の神戸工場銘板が残る 前身はロ524~527=4扉が二等車を示すのは加悦保存(復元)車と同じだが こっちは両端デッキ式に改造 吉塚

何もこんな苦労してまでヘンな場所に据え付けなくてもいいと思うが

かつては線路や道路も松林だったんだろう 今ではどんな風景になっているのか

西鉄福岡市内線126

同じ西鉄でも門司~折尾の北九州線が半鋼車と連接車で固めていたのに、福岡市内線にはクラシックな高床ボギー車がどっさり。それでもデッキには折り戸がつき、窓は下段上昇に改造されて入るが。お客は折り畳みステップと踏み段を上がらねばならない。流石にデッキ・客室間の仕切は撤去されている。


西鉄福岡市内線128

西鉄福岡市内戦132

西鉄福岡市内線135 これは2段目の踏み段が車外にあり、車内へは都合4段上る

西鉄福岡市内線138

西鉄福岡市内線143

西鉄福岡市内線507

西鉄福岡市内線576

前々回入れた到津遊園のコッペル機の、4年後の悲しい姿のネガが偶然出てきたので、事のついでにお目にかける。全体を錆止めペイントで灰色に塗装されているのはいいとして、キャブがこの有様。ロープかワイヤーをかけて自動車で引っ張りでもしないと、こうはならないだろう。これは6番目の政令指定都市北九州市誕生(1963年4月1日)に合わせ、この遊園地(つまりは西鉄)が指定都市展なるものを企画し、東京都と各指定市に出品を勧誘。そのため展示会場にあわせた出品物の検討に、就職1年半の新米(小生)が派遣され、その折撮影したと記憶している。幸い現在では修復されて別の=機関車にゆかりのある場所に保存されているそうだが。機関車に限らないが車両にせよ、建築物、文書にせよ、保存に熱心だった人がやめたり、転勤したりすると、大方がこんなことになる。


痛々しいコッペル機

ロッドも失われているのか 盗難を避け別に保管しているのか

1955/57年北九州福岡2

西日本鉄道宮地岳線多々良車庫の車両は当然もっとある。モ2は木製車体の3扉車で、博多湾鉄道汽船―非電化時代の1925年ナハ1~3として川崎造船所で作られた、100%電車タイプのいわゆる「電車型客車」―方向幕窓まであった。
すなわち将来電化を予想していたわけで、このような客車は佐久、筑波、河東、東武、松阪電気鉄道など結構あり、予定通り電車になったケースも勿論あるが、客車で終始した例も少なくない。博多湾鉄道汽船では1929年めでたく電装され、デハ1~3に。

西鉄宮地岳線モ2←デハ3←ナハ3 

モ6←デハ6 電化に際し日車で製造された半鋼製車 窓配置が古めかしいが小田急モハ1→デハ1101型と寸法は殆ど同じだそうな

ク59←国鉄モハ316←鶴見臨港鉄道モハ316 台車は長軸だからTR11であろう

ク61←国鉄クハ6005

ク62←国鉄クハ17074 仮台車を履いている

ク62

ク55←サ55←国鉄キハ5026←北九州鉄道キハ9 西鉄で片ボギー車を両ボギー化 偏心台車は先回アップした旧中国鉄道ガソリンカーのものと思われるが、菱枠が三角リブで補強されている 元来は汽車会社製の無骨な60人乗り気動車

東芝製標準凸型電機202

吉塚駅前は3線式になっていて 1067mm軌間には木製で独特のB電機がセムを曳き続行運転をしているのが珍しかった 右手にオート3輪車が覗く

西鉄1012 電機か電貨か迷うが前者らしい オート3輪車も全盛期

西鉄1014 これも電機より電貨がふさわしそうだがやはり電機に分類されている

1955/57年北九州/福岡

高校を卒業し浪人になった1955年と、何とかドーヤン生になれる権利を確保した57年とも、3月に九州に行っている。1955年18~21日まで、1957年は19~24日までで、特に吉塚~福岡市内は撮影対象も重複するので、2年の差異はあるがまとめて記すため、話が少しややこしいかもしれない。

1957年は西鉄北九州軌道線砂津車庫から到津遊園地へ。ここに旧大川線の2号コッペル機が保存してあるからで、入口ゲートから見える。もぎりの親父に、あの機関車の写真を撮るだけだから、切符なしで入れてくれ、ものの2分もかからないし、質草にこのバッグを預けるから、と掛け合ったが、貧しい浪人(まだ大学生の身分は取得していない。学割証だけはうんとこさ持っていたが)生は友好的な返答を得られなかった。致し方なく身を切る思いで何十円かで入園券を買わされたのは、後年犬山遊園で蒸気動車を撮った時と同じ。これだけありゃ、腹いっぱい食えるのに。


到津遊園地の大川線4号機 コッペル1911年製 

これは大川鉄道1→西鉄大川線(大善寺-大川、1951年9月25日休止、1966年5月6日廃止)4で、軌間こそ1067mmでも、軽便同様の8トン機で、国鉄との貨車乗り入れもなく、連結器も最後まで螺旋連環式。この旧大川線4号は、撮影時点かなり荒れており、前部バッファーは左側ががっくり首を垂れ、後部は失われていた。キャブ内も当然荒れっぱなし。今ではどうなっているんだろうか。

ところで話は2年前に戻る。その年(1955年)に卒業したS先輩と一緒に、長門鉄道を一覗き後九州入りして鹿児島本線を西南へ。香椎から箱崎、吉塚のあたり、国鉄と西鉄が並行する区間があるが、まず気づいたのが松林の中にズラリ並んだ路面用木製2軸単車の一群で、直ちに衆議一決、次なる駅で下車。


松林の中の単車5両

窓こそ下段上昇に改造され、折り戸も付されているが、ポールは1本。福岡市内線の廃車であろう。そして貝塚に近い宮地岳線(→貝塚線)車庫には、我々好みの車両―元車両を含め―がどっさりいた。旧博多湾鉄道汽船は吉塚以東が戦時中買収で勝田線になったが、電化残存部分が現在の宮地岳線で、車庫最寄駅は確か競輪場前といわなかったか。撮影は1955、57両年のものが混じっている。


これは2年前松林に並んでいたうちの1両だろう さざえ食堂と落書きしてある

上下とも旧大川線ガソリンカーの成れの果て フォードV8装着のキハ6、7だった


これらの旧2軸客車は博多湾鉄道汽船や大川線等の残党であろう



これは旧中国鉄道キハニ161→省キハニ161→西鉄ク58 台車はTR11に振り替えられている 同僚だった旧キハニ160はク57に 共に加藤車輛製作所1934年製

木製国電末期の姿だが手入れは良い クハ17072→西鉄ク63
モ8 電化で新製された半鋼製電車 小田急モハ1→デハ1101型と貫通扉以外同型の由

モ12 これは汽車1936年製デハ10→ クロスシート車だった由

1957年3月19日西日本鉄道北九州線

この日は天気もよく、ずいぶんフイルムを費やした。それも西鉄北九州線砂津車庫で路面電車をバンバン撮ったのである。かような電車は拙老の最も不得意とする処であり、ともかく写真を羅列するので、解説は乙訓ご老人あるいは藤本哲男氏にお願いできないだろうか。何卒よろしく。


西日本鉄道北九州線79

80


101

156

204

618

1001

1009

1020

廃車体 パンタは後ろの車両のものである

先日ええ歳こいだ仲間の年中央での懇親=要は酒盛りで「年中会」と称す。勿論年末の忘年会もある=で広島に行き、翌日電車を借り切って走行、車庫で撮影会。そのうちの数名が松山で再泊。元気な二都市の路面電車をイヤというほど堪能した。思い出すまでもなく、かつては日本中に路面電車が走っていたし、その大方は元気だった。しかしともかく米国に倣えと、片端からひっぺがしてバスに切り替え、それこそが進歩だと、ジャーナリストも政治家も、心底信じ込んでいたのが1960年代以降であった。関西でも万博を控え、大阪青年会議所は声を大にして路面電車の撤廃を叫んでおり、特に阪神国道線を槍玉に上げていた。小生の知る限り、路面電車は残すべきで、米国ではなく、ヨーロッパに学ぶべきだと主張していたのは、奥野利夫氏ぐらいではなかったか。後悔先に立たたずとはいうが。

佐世保鉄道→松浦線

#8780拙稿「ケコハ482」に関し、田野城喬氏からお尋ねがあった。佐世保軽便鉄道→佐世保鉄道→松浦線の経緯はややこしいが、詳細は臼井茂信「国鉄狭軌軽便線20~23」鉄道ファン285~293号をご覧戴きたい。一口に言えば1923年3月27日相浦-柚木間開業を皮切りに、1933年10月24日佐々-世知原間の岡本彦馬個人経営専用鉄道(13.4km)も併合した、軌間762mm、全長36.04kmの蒸気鉄道である。


佐世保鉄道時代 1935年2月5日東京日日新聞社発行全国鉄道図 佐世保から志佐の間が未成線表示になっている

九州鉄道が開業した佐世保線が佐世保に達したのは1898年だが、国鉄になっても、佐世保鉄道上佐世保とは相当の高低差があって接続していなかった。買収は1936年10月1日と早いのは、松浦炭坑の石炭輸送が主因だが、隘路の積み替え改善・戦時体制のため、762mm軌間は1943年以降1067mmに改軌が強行され、1945年2月24日完了。しかも佐世保市内の商店街をまたいで強引も強引な手法で佐世保に直結したのである。戦時中なればこそで、現在の松浦鉄道に乗車すれば体感する。


買収で国鉄松浦線に 1939年10月1日旅行案内社発行 佐世保や松浦線が赤点線で囲まれているのは要塞地帯であることを示し この中では撮影やスケッチは勿論 写真掲載すら特別許可が必要であった

改軌前の松浦線 1941年2月1日現在鉄道線路図(鉄道省運輸局)

すなわち国鉄軽便線であったのは、買収以来改軌完了までの10年未満だが、この間頭にケを付した軽便蒸機、客車、貨車が多数活躍したのである。因みに1935年度での佐世保鉄道車両数は、蒸機21両(運転整備重量合計257トン)、客車24両(定員合計1,158人)、有蓋貨車4両(積載重量合計16トン)、無蓋貨車263両(1,224トン)で、石炭輸送が主力であったことが分かる。

改軌で役目を失った車両は蒸機は若干が日本鉱業、赤穂鉄道に再起し、客貨車もいくらかが各地に散った。戦時中から工事を進め、開業が敗戦後になった日本鉱業(佐賀関鉄道)の車両は、大方が旧佐世保鉄道→松浦軽便線からの転進だったし、栗原鉄道、九十九里鉄道、藤相鉄道、中遠鉄道、浜松鉄道などにも客貨車が再起している。

ケコハ482

田野城喬氏ご要望に応え、早速ケコハ482車体の散髪屋をお目にかける。実はC5175共、折角スキャンしながらサイズダウンし忘れたため掲載できなかったのである。

これは佐世保鉄道フハ1~3が買収でケコハ480~482となったもので、ケコハ480は浜松鉄道→遠州鉄道奥山線ハ21→サハ3→サハ1103になっている。浜松では木製車体、ダブルルーフの上屋根にガーランドベンチレーターを3個載せていたが、フハ3→ケコハ482はご覧の通り半鋼もどき。これは木骨鉄皮で、木の芯?のところに雨水が溜ってかように腐蝕し、屋根は雨漏り防止のためルーフィングを盛大にかぶせている。恐らく浜松でも車体腐朽で鋼板を外し、木製車体に戻したと思われる。


ケコハ482車体 1957.3.30長崎客貨車区 ご覧のように散髪屋と化し 電線 水道 瓦斯が引き込まれているかと思えば手ブレーキが残っていたり

佐世保鉄道フハ1~3竣功図 1919年製だが1935年半鋼もどきに改造 岡部鉄工所というか経営者の岡部 繁はともかく引戸が大好きだった

C5175 煙除板の前1/3が改造され蝶番がついているのは?煙突もパイプ型に

なお村樫四郎氏が書き込まれた件、C51牽引324レの写真は、鉄道ピクトリアル103号(C51特集)で見開きに使ってもらった。製版はまだ尺寸の時代だったようで、編集部から横1尺何寸、縦何寸何分に製版するから、として半切に伸ばし再送した記憶がある。原写真より拡大製版できるようになったのはかなり後である。

佐竹保雄氏との長崎本線大草-喜々津


しばらく音沙汰なかった乙訓ご老人が、このデジタル青信号に現れるとすぐさま堰を切ったように、やたらと賑やかになるのは、かねて各方面から指摘されている通りである。すなわち投稿が途絶えるとは、即乙訓ご老人がサボっている証拠乃至は反動であるとご自覚ありたい。

乙訓ご老人が書き込まれたように、ネコ社「国鉄時代」22号特集「北九州の煙」に、先輩かつ畏友佐竹保雄氏の「昭和33年九州旅日記」が掲載され、九州内で小生と2回ランデブー?した旨の記述がある。小生は九州均一周遊券(大阪発着、通用16日、学割2,300円―一般だと4,100円)をフルに使って3月11日出発。山陽線電化臨試電、西大寺鉄道、倉敷市交通局、井笠、尾道、防石鉄道、宇部線を撮り、13日門司港から夜行に乗って4月1日まで九州におり、この間佐竹氏とはあらかじめ約束した日に落ち合った。お互い発見した廃客車の車体番号情報等を交換したと記憶する。

大阪からの均一周遊券通用日数は16日だから、3月26日で切れるではないかとのご指摘があろうが、ちょいとした秘法あるいは「忍法テクニック」?で、不思議にも1週間延長というマジックがある。ただし詳細は略す。当方は佐竹氏と違ってメモも碌にしておらず、記憶も定かではないが、3月23日は門司港で客車、関門随道西口で特急を撮っている。あさかぜ、かもめ共ヘッドマークがなかったのは、佐竹氏が書いておられる通り。


52年前の佐竹先輩 筆書きの国道関門トンネルの愛想ない県境表示個所で 1958.3.29

29日再び佐竹氏と落ち合い、国道関門トンネルを歩いて渡った。通行料は10円だったか20円か記憶になかったが、メモ魔佐竹氏の記述で20円と判明。エレベーターで下ると、反対側が開く。今では珍しくもなんともないが、当時エレベーターとは、必ず乗った口から降りるものと決まっていたから、初体験であった。これはバイクのためだと聞いて納得。

海底トンネルといっても、窓から海中のタコや魚、平家の残骸が見えるわけでもないから、別段面白くもなんともないのだが、県境の部分に張り紙がしてあったので、ここで彼氏を1枚撮る。フラッシュもなく、薄暗い中で10分1でシャッターを押したが、ネガはスッコ抜け同然でも、辛うじて写ってはいた。デジタル修正とは有難いものである。なお荷物はショルダーバッグのみだが、小生も寝袋を持たない時は同様で、このスタイルで27日間を過したのが最長である。


早岐での大村線快速

415レ逆行のC5170後補機 早岐 この時は天気が悪かったがその後快晴に

夜行(勿論普通411レ)を早岐で乗り捨て、快速気動車列車とダブルヘッダー列車を撮る。一旦長崎へ行き、旧佐世保鉄道買収のケコハ482の車体や特急「さちかぜ」のエンドマーク等を撮った。先回東小倉で6802が据付ボイラー代用になっているのをご覧頂いたが、ここではD50213と、格が大分上がる。それだけ給湯、給気範囲が広いのだろう。


長崎での据付ボイラー代用D50213

喜々津に戻り、大草間の海岸沿いで撮影するため歩いた。この駅間距離は7.2kmで、途中隧道が何本かあり、棚田は展開していても人家もロクにない。ともかくせっせと歩き、山を越えて目的の場所にたどり着いた時は2人ともヘトヘトだった。実は3月16日小生は本川内-長与間で列車写真を撮ったのだが、大草-喜々津間のほうがもっと素晴らしいことを発見し、佐竹氏を誘ったと記憶する。


D50牽引貨物 我々が立っている真下がトンネルである

上り特急「さちかぜ」

C5176牽引の324レ 右は大村湾

空気が極度に乾燥し白煙がまぶしかった

下り特急「さちかぜ」


C51250+C51

D51809牽引軽量貨物 左手が佐竹氏と必死こいで抜けたトンネル

その後1961年10月1日にほぼ中間に東園信号場が設置され、5年後には東園駅に昇格し、撮影のため歩く必要はほぼなくなったのだが、この場所を発見したのは小生であると「密かに」自負している。

1957年3月門司東小倉


EF1030 門司

先回の呉線の後、夜行「ちどり」で宍道へ抜け、悪天候の中一畑電鉄立久恵線を往復、広瀬線をひと覗きして一旦帰宅。一週間後夜行に乗り、3月19日門司に下り立った。EF1040を撮ってから門司港客貨車区を訪ね、ホヤ16860、オヤ3121を見る。なぜか水槽車ミが目に付いたが、水が悪いんだろうか。オヤ3121はかつて米軍司令官用の密閉展望車だったもの。元来が3等車だからTR23である。


オヤ3121(限界測定車←スヤ5116←スヘ3113←スハフ306) 門司港

オヤ16860(試験車) 門司港

小倉で下車し西鉄北方線を魚町で撮る。路面電車なのに西鉄唯一の1067mm軌間(←九州電気軌道←小倉電気軌道)で、かつてぶんしゅう氏が山陰在勤だった頃、気にかけていた旧米子電車軌道の車両(313~317)も混じっている。


西鉄北方線301 魚町 左看板はエルビス・プレスリー初映画「やさしく愛して」 女優はデブラ・パジェットだがリチャード・イーガンは単なる引き立て役だった

西鉄北方線304 魚町 右のオート3輪車はバーハンドルである

西鉄北方線317 魚町 これは元米子電車軌道

小倉駅は現在より大分西―それも紫川の西に展開していた。このあたりの国鉄線路の付け替えは激しく、時期によって相当の差があって駅名/線名も変っている。現在の日田彦山線は以前添田線で、元来小倉鉄道が1943年5月1日買収されたもの。その始点は東小倉で、貨物は国鉄線と勿論ヤードでつながってはいても、旅客は連絡していなかった。我々が学生の頃は日田線と称し、日豊線城野接続、列車は門司始発に改善されていた。


据付ボイラー代用の6802 煙突を継足しキャブ内には電線が引き込まれている

キャブサイドのナンバープレートはない

東小倉機関区にはかつての私鉄買収古典機は影もなく、C11、12ばかり。ただ煙突を継ぎ足した6802(形式6760)が1両おり、しかも火が入っている。これは据付ボイラー代用で、駅、機関区浴場、客貨車区、保線区等の業務エリア+組合事務所、食堂、散髪屋等に暖房用蒸気、熱湯を供給する「地域エネルギープラント」なのである。

ついでにいえば、食堂以下の小店舗類はことごとく零細業者で、しかも客車や貨車の旧車体を国鉄敷地内に据え、国鉄職員のために営業していた。家賃は取らずその分安くさせ、食堂や散髪屋には瓦斯、水道、電気等も無料で使わせていたはずである。小生は気が弱いから食堂、靴屋等を利用したにすぎないが、重沢旦那は各地で浴場も(当然無料)利用していた。

国鉄現業部門の制服や作業服は貸与だから、職員は期限がくると、新品とひきかえに今までの貸与品を返却せねばならない。当局がボロとして民間に払下げた古制服類を、まさにこの交換用に職員に格安で売るリサイクルシショップ?が、ちゃんと国鉄敷地で営業していたのである。


C11173

C11299

C12270 これは小倉鉄道C1214の買収機である

C12284 キャブサイドの窓に横桟が入っている

1957年3月呉線

ここしばらく鳴を静めていたら、須磨の老人は右目緑内障発症を苦にして病臥、いや小学生以来=湯口家先祖伝来の業病たる痔が歳とともに悪化して立てない、などとあらぬ噂が蔓延?しているやに仄聞する。実は両方共間違いはないのだが、病臥は幾らなんでも大袈裟で、悪意が籠っている。

で、久しぶりにブローニーのネガを取り出した。35mmの方は例のヴィネガー・シンドロームにやられ、見る気もしないからである。2年の浪人生活から何とかドーヤン生の資格を得た1957年3月、高校生時代に山ほど確保していた「日付未記入」学割証を活用し、乗車券としては以前ご笑覧頂いた名古屋鉄道の木製車や、亀山区の「参宮線六軒事故」機関車、伊予鉄道路面電車の続きの行使であった。

1957年3月10日松山から堀江に。ここから呉線仁方をつなぐ国鉄仁堀航路は、戦時中宇高航路の補完というか、万一の爆撃に備え民間の航路を買収したもので、この時は153トンのディーゼル船五十鈴丸が1日2往復していた。これは1943年竣功の旧陸軍船で、仁堀航路への就役は1951年。1964年に宮島航路に移り、1966年廃船となった由。当時連絡線に何の興味もなく、写真を撮るなど考えすらしなかった。

ちゃんと「工」の字がファンネルマークに入り、船内では白上着のボーイがお盆に土瓶、茶碗(両方共「工」のマークが入っていた)をのせ番茶をサービスする。原則?無料というが、現実にはほぼ100%の客がチップをはずむ。それも飲んだ茶碗に10円硬貨を何枚か入れておき、ボーイは下げる際巧みにそのコインを片手の指を駆使してポケットに収めるのである。この習慣は青函航路でも見られ、チップをはずむとお湯の差替えサービスが得られると聞いたが、小生は例え10円でも惜しい極度の貧乏旅行故、飲んだことはない。イザヤ・ベンダサンではないが、長らく日本では水と安全はタダであった。

堀江発は12時48分と19時、仁方着は15時15分、21時25分。どちらの桟橋も国鉄駅とはやや離れ、堀江では連絡バス(民営)があって10円。当然小生は歩いた。


仁方駅でのC6243牽引ローカル列車 時間表にも2・3等車となっている

若干早く到着した仁方駅には、広島発仁方折り返しのローカル列車912/921レが停まっていた。転車台がないから、機回り前の機関車はC6243が逆行である。編成には2等車もあり、元来海軍士官は未成年の候補生時代から2等に乗る英国式教育を受けていたから、敗色濃くなる1944年まで2等車が連結されていたのは、横須賀線や佐世保線とも共通する。


C59164牽引の上り急行「安芸」
機関車がC6243だから、これは逆向きから機回りをした下りローカル列車であろう

この後はメモがなくよく分からないが、上り急行「安芸」、機回りを終え正位になったC6243牽引のローカル列車921レを撮る。また仁方にはETという形式の、れっきとした国鉄機関車がいる。ETといってもスピルバーグ監督の映画とは関係がなく、海軍時代の形式番号そのままである。日立製の25トン産業機関車で旧海軍呉工廠、ET4は1948年、ET5は広工廠で1944年製の由(栗林宗人「呉海軍工廠の機関車」鉄道史料94号)。米軍関連の入換機として使われていたのだろうが、国鉄にこんな機関車がいたとは知らない人も多いようだ。自連の下にポケット式連結器を持っているのも、海軍工廠時代の名残である。


ET4

ET5

また周辺の吉浦にはDD122もいた。旧米軍8586で、制式形式を付さない米軍供与時代の8585(→DD121)は品川での写真を以前ご覧頂いた。8584と8589は名古屋鉄道に入っている。メーカーはキャタピラー/GE、電気式で、優秀な機関車だったと聞く。


DD122 吉浦

呉には軍関係の客車も何両かいた。軍番号2915はスヘと遠慮がちに小さく標記されているのは、占領軍人がカタカナが読めないから軍番号を強要し、日本人には不便だからである。これは国鉄ではスヘ3112として扱った病院車。軍名称は英連邦軍貸与のためBONBAY、改造前はスヘ303、指定解除は1956年6月30日だから、この時点では用途を失っていたわけである。


スヘ2915 赤十字のマークがある
オイ1811

もう1両、オイ1811もいた。これも英連邦軍貸与車(軍団長車、寝台12名)で、国鉄ではスイネ3011として扱い、改造前はスヘ307、軍名称MARQUETTE、指定解除は1956年7月7日。


ついでに撮ったC1131 ナンバープレートが古い形式入りだけが取柄

24年前の南阿蘇鉄道


南阿蘇鉄道の軽動車 高森

5月6日(#7991)、8日(#8015)にぶんしゅう氏の南阿蘇鉄道がアップされた。半月出遅れたが、拙老も1986年に南阿蘇鉄道を「ひと覗き」し、早いもので23年半たってしまったが、この3セク鉄道開業は同年4月1日だから、半年後である。

1986年10月18日天気不良の中で甘木鉄道を往復し、その日の内に高森へ。土曜日の午後とあって乗客(非地元民)は結構あったが、大方は阿蘇下田までに降りてしまった。新潟製の非貫通軽動車は1軸駆動にしては33‰を苦にせず上る。車内はネジ頭が丸見えのバス並で安かろう、上等でなかろう(これでも内燃動車ファンのはしくれだからあえて「悪かろう」とはいわない)だが、本年2月の登場だから、この時点まだピカピカだった。今年なら車令24年になる。


立野駅 かつてC58、96、C12が躍動した面影はカケラもない

この時点乙女チックな駅舎は立野だけだったように記憶するが、高森は「インテリジェント・バレー」を目指しといるとかで、木造でひなびた駅舎をぶっ潰し、数千万円をかけてニューメディア・特産品展示、陶芸教室などを併設した新駅舎に建て替えるんだと、駅員は力説していた。当時のことだから、農水省等の補助金での町興しの一環だったのだろう。

そのニューメディアの一端というか、実験か、待合室にキャプテンの端末があった、といっても今では完全に死語になってしまったが、Character And Pattern Telephone Information System の略。物の本によると「電話回線を使って受像機と情報センターを結び、センターに蓄積されている各種情報を利用者の選択に応じ呼び出し、受像機の画面に文字と図形で映し出すシステム。国際的にはビデオテックスと呼ばれ、キャプテンは日本での呼称」とある。

NTTがこのサービスを開始したのが1984年だったが、端末機がやたら高価ででっかく、技術未熟、何にもまして魅力あるコンテンツに乏しく、公共施設などに端末を無理やり設置はしたが、利用者も極めて少なく、結局ほぼ普及しないまま消滅した。

高森駅では列車の時間表がプリントアウトできるという表示があったので、早速トライ。ところが出てきたのは改正前ダイヤで、これじゃ何の役にも立たない。修正されていない―誰も利用していないのが歴然だった。政府はずいぶん金を投じたはずだが、全く無駄な投資ではあった。


高森に保存されていたC12241

高森の町はかつて木材で賑わい、営林署、簡易裁判所、専売公社支所(葉タバコ集積)等、官公庁出先機関も多数あったのだが、すっかり寂れてしまっていた。それでもリーズナブルな旅籠を見つけ投宿。晩飯はいらんと宣言したらヘンな顔をされ、何かいいたそうだったが、それっきり。

下駄履きで町へ出てヘンな顔の意味がわかった。飯屋、飲み屋の類も何軒かはあるのだが、一軒も営業していないのである。土曜日の晩だったからかもしれない。散々歩き回ってシケた料理屋が何と開いていたので、板長か主人かに、かくかくしかじか、何か腹のふくれるものと酒をと嘆願。

親父は見習いと思しき若者に、何か作って上げなさい、酒も、と指示し、恐らく若者の実地研修の一環で、無人のカウンターで一人淋しく、それでもともかく餓死からは逃れられた。

 翌朝はカルデラ内で軽動車を撮ったが、やはり平地では面白くない。立野11時18分発トロッコ列車は日曜とあって、沿線温泉宿泊客がかなり乗車し、かつ寒いため、標準編成の後尾にディーゼルカーを連結した珍編成だった。折り返し立野行き上りの乗客は約30人だったが、半分が阿蘇下田で降り、以後乗降なし。出入り口はチェーンと数字合わせ錠で固められ、必要の都度ガチャガチャと開閉する。

そのトロッコ列車は、2両の協三工業製「半キャブ」(国鉄貨車移動機の再生車)間に2軸無蓋貨車(トラ)を改造したテント屋根の客車が2両。中には木製の椅子、テーブルがしつらえてあり、貫通路もある。先頭機関車でキーを回すと、前後の機関車のセルモーターが回り、エンジンが始動した。総括制御だったのである。


高原の秋は結構寒く、心底燗酒がほしかった

この機関車は現在二代目が就役しており、初代は確か旧門司港駅構内を往復しているはずである。

なお高森線には私事ながら想い出がある。新婚旅行で伊丹から飛行機で福岡へ、列車で長崎、雲仙、三角から熊本、ここから大奮発で特急「はやぶさ」に乗り鹿児島へ。フェリーで櫻島へ渡り、袴腰から国鉄バスで海潟へ。古江線、日南線を全線乗車し、宮崎へ。更に日ノ影線に乗るはずが、手違いで宮崎交通バスで高千穂へ。翌日高森へ抜けたが途中でパンクし、予定が狂って高森線の13時10分発116レ(C12牽引)に間に合わなかった。それでも貨物が来るというので、嫁様を待合室に荷物と共にほったらかし、彼女曰く「右も左も分からないのに走って行ってしまった」。これはかなり後まで祟った。

パクリとニセ情報

ファイト、馬力、酒量いささかも衰えぬぶんしゅう氏が「新緑の赤沢森林鉄道」をアップされた。その中のF4型ボギー式機関車に添え、「上松停車場で出発寸前の『みどり号』を連結したF4型ボギー式機関車」とのキャプションが付された写真がある。

実はこの写真、「おじん2人+1人 ヨーロッパ軽便」トリオの「+1人」氏の作品で、どこかでパクラれ、堂々と展示されている訳である。かような公共展示であっても、撮影者の了解を取るのは当然だし、それが叶わぬなら、せめて出所(複写元)を明示するべきであろう。パクリが数々指摘されている上海「パク博」のことをあんまり言えないのが情けない。

パクリと言えば、すさまじいのがウイキペディアである。勿論真面目なものも多いのだが、執筆者の名前が出ないからか、パクリが大手を振って白昼堂々と横行し、全く恥ずるところがない。拙著「内燃動車発達史」等からも丸写しが山ほどあってうんざりするくらい。せめて出典を記す最低限度のマナーなんぞ、糞でも喰らえ、ないしは引用してやったのだから有難いと思え、といわんばかりである。

反面、まことしやかな記事で、うっかり信用して引用しようものならとんでもないことになるものも少なくない。最近必要があって「皇室用客車」から「軽便用御料車」を検索して驚いた。ちゃんと形式図まで入っているのに、それがまるで関係ない=違う図なのである。エイプリルフールじゃあるまいし、この執筆者は、まるっきりのガセネタ=ニセ情報で、読者を騙して喜ぶ愉快犯なのかもしれない。

両備鉄道は762mm軌間ながら1927年電化し、日立製凸型B-B電機11~16が就役。客貨車は日車製ばかりで、2・3等合造車の記号がトナ(特等・並等)、3等車がナであった。1930年の陸軍大演習で天皇が臨席されるとあって、両備鉄道は日車で「四輪ボギー貴賓車」1両「キ1」を新製。この時期木製車体で、それ以前の密閉車体並等車と実質同型だが、中央2個の窓を1個の広窓とした。これは用済後2個に割り、通常客車に格下げできる設計であった。


両備鉄道キ1組立図 『日車の車両史 図面集-戦前私鉄編下』より

現実には改造はなされず1933年現在キ1のまま、1940年1月1日買収され、福塩南線に。国鉄でも始末に困ってたった一度使っただけの客車だが、解体してしまったようである。

日車には数種の図面が残っているが、売上台帳には「木製御料車 1両 代価6,571円 製作費5,005円40銭」とある。即ちこの時期、しかも木製車体なのに、著しく高価であった。ガラスがすべて「磨硝子」だったが、それだけでこんな値段にはならないだろう。

ウイキペディアを即信用してはいけないとは、かねがね聞かされていたが、諸兄、上記のウソツキ図面(最大寸法7,170×7フィート×10フィート6インチ=なんでメートル法とフィート・インチ法が混ざっているんだろう)を検索し、日車組立図と比較してみてはいかが。

豊肥本線と高森線



立野をバックで発車する717レC58424

国内、国外を駆け回っておられるぶんしゅう氏の、1970年の豊肥本線、高森線が出た。拙老も豊肥本線は何度か足を運んでいるので、ゴソゴソとブローニーのネガを取り出して、ご笑覧いただく。

時は1958年3月31日、目出度くドーヤン生になって1年から2年になる春休み。3月11日山科の自宅を出発し、山陽線電化試運転[臨試電2858T]を撮り、両備バス西大寺鉄道を皮切りに倉敷市交通局、井笠鉄道、尾道電鉄等山陽路私鉄をめぐって九州入り。均一周遊券をフルに使い、夜になると門司港、長崎、西鹿児島のどこかに行き、夜行各停に乗車して宿賃を節約。ステホは三田尻と大分だけだった。

その九州最終日、早朝熊本に着き、5時40分初発717レで立野へ。このとき豊肥本線は熊本-大分間直通列車は6本、熊本-宮路間が3本、宮路以東のローカルが3本。直通の内2本のみが2等車を連結で、その1本は快速「火の山」だった。これは翌年ディーゼル準急「ひかり」になる。


高森線初発113レ

立野着6時48分。高森からの初発列車は2分前に到着しており、機周りを済ませ7時12分発113レが初発で、C12逆行を白川鉄橋で待つ。多分にオハナシめくが、この鉄橋のペンキ塗りだけで飯が食える塗装業者がいたとか。


スイッチバックを下ってきた716レC58115

前後3コマ719レ69686


119レC58427、補機69699

立野のスイッチバックは大畑とともに雄大である。なにしろ景色が広く、おまけに天気がいいから撮影していても実に気持ちがいい。ただ翌年には、一番いい景色のど真ん中にナショナルのどでかい広告塔が建ち、ぶち壊しになった。


宮地止まりのローカル721レ 69657

これは鉄道ピクトリアル第4回写真コンクールで推薦5点中に入り、賞金3000円也をゲット。87号に掲載された。その時の特選は佐竹保雄氏の「準急ひだ号」で5000円、小生は宮崎交通でのコッペル機牽引「軽便列車」も入賞し1500円也。

この頃はネガ提出がなく推薦にも何度か入ったが、その後ネガ召し上げが条件になり、それにしては賞金が「薄謝」に過ぎると判断し、以後応募はご辞退申し上げている。

1955年3月福知山

1か月半ご無沙汰をしてしまい、常連諸氏もその間うつ状態?と見え、ぶんしゅう氏がほぼ一人で頑張って支えて下さった。乙訓ご老人も、総本家青信号特派員氏も何やらおとなしく、要は一定期間(かなりの個人差はあるが)以上休むと、従前いわば義務感(単なる惰性?)に近かった投稿意欲が急速に萎えてしまい、ついつい楽な読む側に廻ってしまうもののようである。

ところでこちらは相も変らぬ半世紀以上古い写真と、記憶の残滓を、あたかも老残の醜さのようにしつこく披露するのみ。古いことしか語れない老人の歎きは、何分にもご寛容の程を。


「いずも」ヘッドマークのC57128 重油タンクがドームの後ろにあって石炭と併燃

1955年3月小生は18歳で、高校を「辛うじて」卒業した。正確には「卒業できた」。単位と出席日数はまさしくギリギリで、これを6年後大学卒業の際にも性懲りなく繰り返す。高校最後の試験寸前に痔の手術で入院し、いくつかの科目が受験できなかったが、重大な発見をした。試験を受けると、その成績は通知書に5段階評価で2か1であっても、入院という「大義名分」があると、教師はその生徒の「真実?」が分からないから、中庸は徳の至れるものなりとしてか、単に無難あるいは面倒だからか、3を呉れるのである。半世紀前の老人は、この手術のおかげで、皆目歯すら立たなかった自然科学系―解析Ⅰ、生物、化学に3を頂戴し、卒業できた。受けていたらほぼ間違いなく単位不足で留年=卒業延期していたはずである。

その前から浪人は覚悟していたから、万全の対策?として、膨大な「発行日付の入っていない」国鉄学割証を貯めこみ、かつ学生証紛失を申し立てて再交付を受け、その日付も「修正」して備えていた。

で、前途=進路全く暗黒の中、ともかくはアルバイトで稼いだ僅かな金で、九州から東北まで、軽便と非電化私鉄探訪の旅に出たのであった。親は止めもしなかったが、小遣いも呉れなかった。

最初訪れたのは別府鉄道で、加古川線を北上し福知山へ。以下非電化私鉄のボロ車両は諸兄辟易気味と見て(それぐらいの自覚はある)、未発表の国鉄車両や私鉄電車だけをご笑覧に供する次第である。今回の撮影はいずれも1955年3月15日、福知山。こんな誰でも撮る国鉄車両なんぞにかまけておらず、まっしぐらに北丹鉄道福知山西に行くべきだったと、今更後悔しても始まらないが。


やはり「いずも」だがC57152 重油タンクがある

休車中のC5415 制式機ではE10を除き最も短命に終わった不運な機関車

同じくC5411

C5118 矍鑠として活躍中 


ナユニ16420 鋼帯での補強が痛々しい

オハニ25764 大型木製車だがトラス棒がないのに注意 これは魚腹台枠だから

またまた米手氏の誘いに乗る

米手作市氏ご幼年のみぎりのご撮影になるDF411の写真が出た。まだ反応がないので、致し方なく?その実ニコニコと老人が誘いに乗ることにした。こんな大型ディーゼル機関車は全く老人の趣味の対象外だが、まあ試運転だと聞いて、DRFCメンバーに付き合って京都駅まで出かけた。最後までさしたる興味も湧かなかった。撮影は1959年5月30日である。

いずれ詳しい方からの解説があるだろうから、アウトラインだけを。汽車会社1958年の作品で、国鉄では当初DF411、のち試作車は90台ということでDF921に改番した。機関はバーマイスタB&WDE1222VL形2サイクル、1,320PS電気式で、当時国鉄ではDF50、DD13を導入していたから、借り入れて(義理で?)使用したものの、1962年には返却してしまった。こんな大きな機関車は国鉄以外に買手がある訳ないから、結局は解体されたんじゃないか。

妻面窓下中央に小さな扉があり、乗務員が次位の客車に貫通?できるのが珍しかった。SGも積んでおり、福知山区に配属され、山陰本線で客貨に使われたが、大体国鉄は自前設計以外の車両には毛嫌いというか、極めて冷たい傾向が顕著である。

鷹取工場のBタンク機

米手作市氏の誘いにすぐ乗って(こんな世捨て人暮らしでも結構忙しいのに、急ぎの仕事をほったらかして)、ネガを探し、スキャンし、「縮小専科」でファイルを小さくしている間に、「ほへほへ」氏のレスポンスがあって先を越されてしまった。二番煎じになるが、小生の1955年7月15日鷹取工場での写真をご笑覧に供する。

将来電化する積りでの社名で、1916年7月1日撫養(むや)-古川間を阿波電気軌道が開業。1923年池谷-加冶屋原、1928年ゑびす前-撫養と開業を続け、1926年5月10日には阿波鉄道と改称していた。1933年7月1日買収され阿波線に。その後撫養線、鳴門線と名称を変え、国鉄自体の建設線が加わるなど、この地区の時代による変遷は結構ややこしいが、その阿波鉄道7号機(コッペル1921年9月、製番9752)が前身である。

私鉄買収機には軸配置、重量・寸法等で数字の形式が与えられるのだが、頭に「ア」を付した不思議な形式番号が付された。この阿波7号機はア4となったが、元来12トン弱と軽便並みの小型機で、国鉄としてはこんな半端な小型機など眼中になく、線路がC12入線に耐えられるよう改修されるまでは仕方なく(嫌々)使った。

今村 潔「買収せる阿南鉄道」(鉄道趣味35号)には、阿波鉄道買収機には当初通常の形式番号を与える予定で、この機関車は80を予定していたことが記されている。数字が小さいことは即小型であることを示す。要はすぐ廃棄するつもりだったのであろう。

その後岡山機関庫で6検入換(6か月検査のため火を落とした機関車の移動)用に。我々の時代でも、奈良機関区には同じ役目でB20がおり、その以前は60型だった。

1936年5月廃車され、解体もされず鷹取工場構内で忘れ去られていた?が、同工場技能者養成所が教材として養成員の手で整備。新たにキャブやサイドタンクを新製して「若鷹号」と命名したものである。米手氏が不思議に思った、小さいが一人前、鳥の羽根型プレートには「鷹養」と鋳込んであり、サイドタンクには「鷹養実習機」のレタリングがある。

戦時中には復活してどこかで使う話もあったそうだが、結局は安治川口用品庫での入換ぐらいしか用途がなく、また鷹取に戻って放置を続けていたものである。

通過列車への運行変更指示

1956年10月15日の参宮線大事故に関し、急行や準急など、通過する列車の乗務員に対して離合駅変更等の運行変更の指示はどうするのか、に関してメールを頂戴した。時間の余裕があれば通過駅で交換するタブレットのキャリアに変更指示書をつけて乗務員に知らせることもあろうが、間に合わなければ=大概は地上の信号機のみのこと。成程なるほど。

無線があろうとなかろうと、機関士、助手とも、信号機を必ず確認するのが建前なのだが、六軒駅は本来離合する松阪駅の隣りである。11分遅れてはいたが、まさか離合駅が一つ前の六軒駅に変更されていたとは思っていなかった―離合駅変更を乗務員は知らなかったわけで、信号機以外の手段がなく、それを無視した結果だったのである。無線のある現在なら、少なくとも事前に運行指令の変更指示が届くから、かような事故の発生率は希少になる。

亀山の参宮線事故機

米手作市氏が亀山で参宮線事故機を撮られたのが1963年3月とのことで、小生は1957年3月だから、6年前になる。早けりゃいいというもんじゃないが、折角の機会だから小生の分も諸賢の御目を汚すことにする。なお事故のあらましは、以下鉄道ピクトリアル65号(1956年12月)から引用する。

参宮線で不祥事故
10月15日18時22分、国鉄参宮線六軒駅において、準客243列車(本務C51203亀山、補機C51101亀山)が11分延で同駅進入に際し、下り安全側線に突入本線機及び次位補機は築堤したの田甫内に転落脱線傾斜、つづく1・2両目客車は全軸脱線横転本線を支障中、折柄松阪を定発した準客246列車(本務C57110山田、補機C51172亀山)がこれに接触し本務機及び次位補機とも全軸脱線し、これがために死者40重傷56死傷者計107名を出すという不祥事故が発生して世人の耳目を聳動(湯口注しょうどう=恐れ驚かす)した。

(中略)いままで判明した点は、243列車が遅延のため対向246列車と行きちがいを変更して六軒駅(所定は松阪駅)とし臨時停車の扱いをしたところ、243列車の機関士が出発信号機を見誤(場内信号機は上下共「進行」現示)ったのではないかと推定されている。243列車が脱線してから246列車の進入までにわずか45秒であるために列車防護の時間はなかったもので、246列車としてはやむを得ないとしても、243列車の4人の乗務員が大切な信号を見落としたという結果になると、事柄はきわめて重大である。(後略)

離合個所変更の通知を機関士にどう伝えたのかが分からないが、無線などありえない時代だから、例えば通過駅で駅長から錘にくるんだ通信文を機関室に投げ込む、といった原始的な連絡方法だったのかもしれない。これは列車に急病人が出た際などに、車掌が通過駅に投げ下ろす方法で、車掌のカバンにはこの為の錘が入っていたのである。

C57110のぶっ潰れぶりが酷いが、それにしても車輪は4両とも、ちゃんとレールに乗っている。すなわち台枠はさして損傷がないことになる。




で、以下は全然事故と関係がないが、上記鉄道ピクトリアルの記事の最初のフレーズは、約270字がマルなしで延々と続いている。野坂昭如の文なら独特の芸術だが、こんな「へったら長い」文が雑誌に掲載されていたことにいささか驚く。なお小生はサラリーマン最初、かつ8年勤めた職場―広報課で、先輩から新聞記事(15字詰)では10行=150字がマルなし文の限度だと叩き込まれた。

山科電化当時の記憶(その4)


暖房車5輌を加えた牽引試験列車 もうD51やD52の姿はない 機関車の次位は試験車

先回の最後の写真はEF15が単機で走行しているが、やっと試験や試運転列車から蒸機が抜け、電機単独での試験走行が開始されたことを示す。暖房車を含む客車牽引での試験列車は1956年10月10日―電化開業が11月19日だから、約1か月前である。暖房車は前にも記したとおり、冬場以外用がなく失業中の上、適当に重量もあるというところから、電化の直前の試験列車には必ず登場した。

電車の試運転も始まった。モハ80系300台=窓枠がアルミサッシュになり、窓の四隅もRが付き、一段と斬新さがまばゆかった。


山科の大カーブに初めて姿を現した80系300台 

そして11月19日。二浪中で(表向き)撮影を自粛していた小生も、流石に京都駅に出かけた。生憎と薄く霧が立ち込め、その中に現れた電化最初の上り特急「つばめ」は、何と何と、EF58、客車とも草緑、屋根は銀色に塗られているではないか。現在と違い事前に情報も流れず、当然報道もなかったから、この色彩作戦には並みいる者すべてド肝を抜かれたといっていい。EF58には大阪と東京のマークをあしらった、記念のヘッドマークがついており、このマークはその後長らく神田の交通博物館に展示してあった。

霧の中にやたら明るい色の列車だから、現像したネガは真っ黒で、粒子がやたら荒れている。参集したファンはそれでも15人ぐらいはいたか。大方は顔見知りだったが。今なら考えられないのんびりムードではあった。

この後間もなく、この草緑色列車には「青大将」なるあだ名が付いた。


電化完成の記念乗車券と準急行券

三脚に思う

列車写真撮影でのトラブルが報じられている。まずマニア(それも俄かマニアが少なくないのかもしれないが)の絶対数が増えた。次に皆同じものを狙うというか、人が撮るものしか撮らない、興味がないという、大勢順応が挙げられる。皆同じものを、何故か同じ場所で、押し合い、ひしめき合って狙うのである。さらには望遠レンズの普及があり、これは三脚の使用とほぼ裏腹でもある。

なぜ鉄道写真、それも列車写真の撮影に三脚が必要なのか。誰も分析(というほどの大袈裟な話でもないか)したという話は聞かないが、判で押したように丈夫な三脚を使うようになったのは、昭和40年代後半ぐらいからか。

恐らくは三脚を当然のように使っている「皆の衆」とて、何故三脚が必要なのか、あるいは三脚なしで写真が撮れないのか、などと考えたこともないのではないか。フイルム感度が低い時代に望遠―それも相当に長いタマを使うなら、三脚は必需品である。しかしデジタル化で幾らでも感度が上げられる今日、何故営々と三脚なんだろうか。不思議でしょうがない。

例えばかの布原信号場。まさに三脚の林立(行った事はないが)だった。自分の経験だけから言うと、蒸機列車の撮影は、その日の風や天候次第で、煙はどうたなびくか分からないことが多い。横位置で狙っていて、咄嗟にカメラを縦に持ち替えたことも少なくない。三脚にカメラを固定していれば、カメラぶれは防げても、構図変更は不可能だろう。一説に三脚は、①場所取り=先着権顕示②いざケンカになった際の武器、だから丈夫でないといかん、という。

カメラの複数設置もあるとしても、それ以前に三脚は絶対必要との、固定観念がしみ込んでいるのが実態じゃなかろうか。もし「皆の衆」が三脚を自粛すれば、同じ面積の「お立ち台」には、恐らく3倍かそれ以上の人間が物理的に立てるはずである。とすると、三脚とは自分以外の「同業」を、なるべく閉め出すのが目的なのか。

拙老はこれらの「皆の衆」と一緒あるいは競合状態で写真を撮る気は毛頭ないが、もしその必要が生じれば、三脚ではなく脚立を持っていく。それも1段の小さなもので充分だ。

かつて報道写真には脚立が必需品で、しかも脚立持ち=助手がほぼ必然であった。4×5インチのスピグラなら、脚立まで持てないからで、拙老も若かりし日、本職の報道カメラマンに混じっての撮影競争を数年続けた。TVもまだ16mmフイルムで、照明助手が必須だった。そのうち報道も35mmに切り替わり、TVは大袈裟な「担ぎカメラ」になり、これは今でも継続しているが、助手は大方使わなくなった。そのかわり録音技手がマイクをかざす。

拙老も50数年前三脚を持って九州・東北をめぐったことがある。これは真っ暗な庫内に収められた蒸機を、シャッターをバルブにし、マグネシュームを焚き込んで撮る=いわゆる「ポン焚き」のためであった。また中村卓之氏は海外の路面電車や停車中の列車などを、夜景として見事にカラーで撮影しておられ、ホトホト感心したものである。聞けば2~3,000円程度の特価の三脚を使い捨て同然としている由。

上記「皆の衆」は、いずれもスリックなど、3~5万円ぐらいするアマチュアにしては高級な三脚をお使いのようである。三脚屋にとっては、またとない顧客であることは確かで、他にアマチュアでこんな三脚を買ってくれるのは、やたら元気なカメラばあさんグループか、野鳥観察者ぐらいではなかろうか。鉄チャン「皆の衆」の三脚依存シンドロームは、もしかすると三脚屋の陰謀か。

拙老が未だに捨てずに持っているスリック(3段)は、就職した昭和36年以来使っており、黒塗りがすっかり禿げ、アルミが露出している。雲台が潰れ、これだけはマンフロットに買い直したのが確か20年程前。組立図等の複写に大活躍したが、今では1~2年に1回、正月に参集する家族の記念撮影ぐらいしか出番がない。しかもその上に据えられるのは、コンパクトデジカメである。