和田岬線


兵庫駅に進入する和田岬線DEプッシュプル列車 朝の上り、夕方の上りはほぼ空車である

この時点まだ旧ヤードに機回り線その他も若干残るが その後完全に撤去され再開発で高層住宅が立ち並んでいる 和田岬線発着も半高架ホームに

 和田岬線とは俗称で、正式には山陽本線の一部である。山陽鉄道時代からあって、かつては蒸気動車も運行していた。敗戦後はB50、その後鐘付で知られた8620が長らく働き、DD13を経てDE10が前後に付いたプッシュプルトレインに。そしてキハ35が取って代わり、さらに電化されて電車が。

地表の和田岬線ヤードから高架への接続ランプ線があり、かつてこの区間貨車押し上げ専用にD50が駐在していたのは以前に記した。高架の海側に35kgレールの線が1本あって5線になっており、兵庫-新長田間で列車線が電車線をくぐって山側になるのに並行し、鷹取に達する。すなわちこの35kgレールの線は、和田岬線-鷹取間のかつては貨物、その後は和田岬線電車を引き揚げる専用線なのである。勿論川車新製車の甲種輸送用にも使われる。

阪神淡路大震災の復旧時、この兵庫(高架上)-の線にも架線を張り、本線を1本ずつ復旧する助けとした。その後完全復旧後も架線は取り外されないまま。キハ35が老朽すると、何と和田岬線そのものも電化し、兵庫の和田岬線用ホームも半高架化し電車を投入。


兵庫を出るとぐるりと向きを変え和田岬に 阪神高速高架の向こうは川崎車両


プッシュプル列車和田岬に到着 この時点では折り返し列車の乗り込む通勤客も若干ある

乗客は100%定期客で、それも大方が三菱造船所の職員である。終点はかつて道路を横断して直接三菱に入っていたいたのも短縮し、道路の手前でカット。現在では完全無人駅になり、乗車券自販機もなく、定期客以外は和田岬から無札乗車せざるを得ないが、兵庫に「関所」があって、清算するようになっている。

いくら歴史があっても、肝心の三菱の通勤客が減り続けて、この線が黒字とは到底思えないが、先述のように山陽本線の一部なので、ここだけの収支や採算等は公表されていない。小生などは(電化前)三菱に線路をタダで呉れてやり、三菱に運行させりゃいいと思っていたが、国鉄―JRは何故か律儀に運行を継続。

三菱にしたら、職員の通勤手当が安くて済む=神戸市海岸線経由だと神戸か新長田からの定期券を上乗せせねばならないから、大助かりなのであった。逆に神戸市交通局は海岸線の開通で、当然和田岬線は廃止されると信じて三菱従業員輸送を見込んでおり、完全にアテが外れた。

それが今回和田岬線が急に廃止の方向に向かって進み出したのは、恐らく三菱神戸が大縮小ないし廃止されるからであろう。そんな事態が遠からず来ることは分かっているはずなのに、電化までして三菱に義理立てし続けたJRは理解を超える。廃止後は川車の甲種輸送もなくなるのか。随分少なくはなったが、鷹取で新製電車の一列を見るのは楽しいのだが。

なおこの写真撮影は1987年4月18日である。


片側のみ中央に引戸を設けた通勤専用客車オハ64車内 吊革はともかく窓の保護棒は超満員を想定しているが 三菱の職員が減り続け かつての超混雑を見ることはなかった

老人も撮っていた山陽電気鉄道


山陽電気鉄道200 1958.2.27 西新町

226 同

米手作市氏はかなりのへそ曲がりで、かつ妙なところに気付く御仁なのであろう。老人にとってはどうでもいい、標準軌電車のテールライトの位置なんぞで、ナイーブで老い先短い老人を悩ますのであるから。お蔭で老人は、確か俺だって、山陽電気鉄道は何度か撮ったことがある筈と、皆無に等しい記憶のきれっぱしを必死に搾り出す羽目に。これで寿命が縮んだらどうしてくれる。確かにテールライトは上にあったが。

探すとあったあった。1952、1958年に撮っていることとは撮っていたのだが、およそ興味がなく、いままでほぼプリントとは無縁であった。で、先ずは200型とその一統の1958年の姿をご覧頂き、その後はエイ面倒くせェ、全部ぶちまけちまぇ、と、例により「これでもか」とアップしてご笑覧に供する。解説はどなたかにお願いしたい。老人はヘトヘトに疲れて、一刻も早く「水薬」(厚生省でなく財務省所管の)を飲みたいのであります。


224 須磨浦 1958.3.9

355と貨車ワフ603 姫路 1952.9.23

特急829 姫路 1952.9.23

11車体 西新町 1958.3.9

20車体 西新町 1958.3.9
357 西新町 1958.3.9

2004 西新町 1958.2.27

特急2006 須磨浦 1958.3.9

特急2007 一ノ谷 1958.3.9 

特急822 須磨浦 1958.3.9

特急824 須磨浦 1958.3.9

特急827 須磨浦 1958.3.9

特急2701 須磨浦 1958.3.9 山陽本線はまだ複線で、国道にはバーハンドルオート3輪がのんびりと 道路に白線なんぞ引いてない

確か西代でもロクサンの残滓を撮った記憶があるのだが、今日は探す気力がない。また後日に(ナヌ?もう結構だと!それなら余計探し出してやるゾ) 老人はへそ曲がり=それなら米手作市氏と同じだが=なのであります。

須磨が電車を?


山陽電気鉄道203

米手作市氏からのお名指しは身に余る光栄といいたいが、その実この老人に、事もあろうに電車―それも軽便ならイザ知らず、標準軌間電車の解説をせよとは、そりゃ余りといえばあんまりな、ミスキャストもいいとこじゃござんせんか。勘ぐれば、日ごろ歳を笠に着た大言壮語が目に余り、乙訓ご老人がおとなしくせざるを得ないこの時期に、一発かまして恥をかかそうという魂胆と見たが。いや歳をとると人間僻みっぽくなるものであります。

なるほど現在は、恐らく誰よりも山陽電気鉄道の近く住んではおるが、申し訳ないが日頃は目にする電車毎に、気の毒なぐらい乗客が少ないと気をもんでいるぐらい。明石以西はもう少しマシだろうが、少なくとも明石以東は、JRにほぼ完膚なきまでに打ちのめされているのである。JRの須磨海浜公園駅新設で、ある程度利用があった須磨水族園団体客や海水浴客までJRが分捕り、対抗上終日月見山に特急を停車させているが、到底歯が立たない。

閑話休題(=「それはさておき」と読む)、米手氏から頂戴した「お題」だが、正直よく知らない。まあ川崎車両特有というか、あんまり褒められんというべきかの流線形電車ではある。日車は「びわこ」号で独特の流線型を創出し、なぜか電車はそれっきりで、あとは気動車に移された。川車は江若キニ10でその亜流を造り、その後こんなスタイルの電車にしたんじゃないかと思うが、全くの見当外れかもしれない。少なくとも扉上から妻面にかけての、幕板と屋根との仕切りカーブは江若キニ10の流れであろう。

元来この電鉄の兵庫-須磨間は兵庫電気軌道として1910年3月15日開業し、1917年4月12日明石に達している。1927年1月1日宇治川電気に合併し、1933年6月6日山陽電気鉄道に譲渡。兵庫駅前の路上を発し、東尻池で神戸市電と平面交差、併用軌道と新設軌道を交えて須磨へ。一ノ谷付近でまた国道2号線上をゴロゴロと西へ向かい、また新設軌道、併用軌道で明石へ。

明石以西は神戸姫路電気鉄道として1923年8月19日明石-姫時間を一気に開業。その後宇治川電気合併→山陽電気鉄道という流れだが、こっちは地方鉄道で1500V。ところが明石以東は軌道で当然600V、路面乗降停留場も多く、車体幅も狭い。この200型は201~207が1936年、208~212は1938年製で、扉下に踏込と折り畳みステップがあり、路面からだと都合3段上らねばならない。まあこれは京阪京津線や福井電鉄、京王電鉄やら、類例はいくらでもある。明石で線路を接続し、西新町にデッドセクションを設けていた(そうな)。

話を敗戦後に飛ばすと、戦災による車両の著しい不足=非常事態とあって、何と標準軌間なのにモハ63が割り当てられ、20両を投入。明石以東の軌道区間も車両、建築定規を拡大し、老人も路面を行く63を見て正直肝を潰さんばかりだった記憶がある。一ノ谷前後の併用軌道区間も山側に移設され、今日の山陽電気鉄道になった、というお話。「お題」とは限りなく関係が薄そうだが。ついでながらこの区間が地方鉄道になったのは、実に1977年度なのである。

手元に恐らく谷川義春氏撮影と思われる写真があるので添付しておく。200型は1枚しかないので、31、32(1920年梅鉢製)は「おまけ」である。



これは舞子のあたり?かと思うが、電柱にご注目あれ。旧併用軌道で使った溝付レールを2本束にして使っているが、同様の電柱は現在でも塩屋の東方に見られるので、ご興味ある方はどうぞ。

飯山線1962.3.4


逆光の中214レと上越線734レ=越後川口 自分でも大好きな写真の一枚なんだが 

やったら寒い日が続いたと思ったら、昨今は3月下旬並みの暖かさ。北陸の大雪も一段落したようだが、1月末9歳上の姉の葬儀で上京した際は、往路新幹線が名古屋で7分、新横浜で2分遅れていたが、東京には定時着。当然ながら関東圏では、北陸の大雪など、どこの話?全く関心がない。48年前のサンパチ豪雪の際と同じである。

諸兄の素晴らしい雪中写真がいくつか出て、そういやぁ、俺もサンパチや杉津、大桐以外、重澤旦那と飯山線に行ったことがあったなぁ。結構写真も撮ったなぁと、限りなく薄れ行く記憶を搾り出した。時は1962年3月4日、つまりサラリーマン初年兵の終わり近くであった。ルートも全く記憶がないのだが、撮影順序からは、急行「北陸」で長岡へ、上越線642レで越後川口へ、目的たる飯山線214レに乗車した、としか考えられない。


越後川口で214レに乗り込む 天気は「いまいち」
発車待ちの214レ

十日町で215レと離合

十日町で トンビや角巻なる和式防寒衣が健在だった
十日町での離合 214レは14分 215レは31分停車する

十日町発車前の214レ
その間入換も行われていた

一路鹿渡目指す214レ

なおその後の飯山線(に限らないが)はダイヤ改正毎に列車がキハ化され、C56牽引列車は減る一方である。この日は当初天気が「いまいち」だったが、幸いその後回復したのは、新島譲の加護か、天が「自ら助くる者を助けた」か。

阪急202

阪急202が公衆電話ボックスみたいな運転室になる前は、かようなスタイルでありました(ようです)。目的は同じく、車長より長いレール等を積むためです。これは故西尾克三郎御大撮影のキャビネ写真であります。

淡路鉄道→淡路交通

佐渡ヶ島には長岡鉄道が免許を有しており(両津-相川町、762mm、1926年5月1日免許)、1067mm線に我国最初のディーゼルカーを注文して舞い上がった長岡鉄道は、納品(1928年12月)もされていない1928年2月23日、「佐渡線起業目論見書記載事項中動力蒸気ヲ重油ニ変更」を申請し、4月9日認可。しかしこの線は結局着手に至らず失効した。

従って我国で旅客貨物営業の「島の鉄道」は、沖縄を別にすれば淡路島が唯一になる。淡路鉄道は1912年10月25日免許、開業は宇山-市村1922年11月26日、市村-賀集1923年11月22日、洲本-宇山1925年5月1日、賀集-福良1925年6月1日で、全線23.1km。勿論動力蒸気、軌間1067mmである。

機関車はコッペルC、13tが3両、鉄道省1047(ポーターC、18t、形式1045←長州鉄道)、客車は播州、揖斐鉄道のお古で2軸車ばかり。元をただせば南海やら山陽やら。孤立した鉄道だから、連結器が螺旋連環のままで自連換装も必要なかった。明治村の蒸気動車(現在JR東海が自前博物館展示のため引き揚げて整備中)が装着していた螺旋連環連結器は、展示復元に当って名古屋鉄道が淡路交通から貰い受けたものである。

ガソリンカーは1931年以降。川崎と日車のボギー車が計6両いた。敗戦後燃料入手難と高騰に困窮し、600V電化したのが1948年2月11日である。ガソリンカーの機関に換えモーターを装着し、プロペラ軸で駆動したのが知られている。他に南海から古色蒼然たる電車の供出提供を受けており、米手作市氏紹介の丸妻5枚窓電車がこれである。

お後は乙訓の爺様の受け持ちじゃろ。ハイさいなら。よいお年を。

1958年上田丸子電鉄 その4


上田丸子電鉄モハ3332

例により藤本哲男氏から、ピタリと勘所を押さえたコメントが頂戴でき、後期高齢者寸前(来年)の老人は痛く感激し、かつ長年の胸の痞えが消えて、心底嬉しく晩酌が「殊の外」すすんだことであった。藤本氏よ、有難う。

で、上田丸子の残りを片付けるが、全部「本物の」電車ばかり。この解説もして頂ければ、老人は望外の幸せでありまする。何卒良しなにお取り計らいあらんことを。


モハ3552


モハ4251

モハ4254

モハ5251

モハ5254

モハ5262

モハ5263 この2両は信濃鉄道の買収国電だ ぐらいはいくらなんでも小生でも分かる

モハ5361 これは東武←総武

ED2111 台車はブリル27E メーカーは坂元工業社?なるところとか

東急から搬入されたばかりの101 仮台車とはいえ旧ガソリンカーのものだから押し潰されそう

同じく102 こっちはブリルMCB摸造台車?

1958年上田丸子電鉄その3


上田丸子電鉄サハ41←ハフ101←省キハ101←飯山鉄道キハ101

半月開いてしまったが、その3を続ける。旧飯山鉄道のガソリンカーは、第二陣が記号番号もキハ101、102と大きくなっただけではなく、手荷物室がなくなって100人乗り、17.5トンと大型化。機関もウォーケシャ6RBに強化され、端面も2枚窓半流に。なお飯山鉄道ではキハ101のみ代燃化し、それも片側運転室反対側(妻面から窓2個)をベニヤ板で仕切って炉室にして、木炭瓦斯発生炉を床上に設置。当然ながら定員が7人減少した。ヨーロッパには代燃炉室内設置例も結構あるが、我国では鉄道省キハ41000のシンダガス代燃化、私鉄では淡路鉄道と飯山の2例しかない。


サハ42←省キハ102←飯山鉄道キハ102

台車は当然に菱枠だが、端梁を設け、軸箱守とステーで結ぶなどの補強は上田丸子にきてからであろう。連結器も簡易連結器から通常の下作用に交換されているが、車体はよく原形を保っている。


サハ41
サハ252←相模鉄道クハ1501←クハ1051←サハ50←ホハ50←神中鉄道キハ50←キハ40

サハ252は日車東京支店製「びわこ」スタイルのディーゼルカー、神中鉄道キハ40で、よく改番を重ねている。やはり菱枠台車に端梁や鋼板リブを付すなど、加工強化されている。同型だったサハ253は端面を改造しているため、前身がすぐにはピンと来ず、しばしの間悩んだ記憶がある。


クハ253←相模鉄道クハ1502←クハ1052←サハ52←ホハ52←神中鉄道キハ52←キハ42
クハ253 「びわこ」スタイルを残すクハ252とは全く同じ出自だったが こっちは端面を改造しているのでまるっきり違う車両に見える

戦前もっともディーゼルカーが成功したのは、一番遅くに採用した神中鉄道であった。機関に国産品を選び、メーカーの指導が直接受けられたことが大きいと思われる。この80人乗り車は日立649-R2を装着していたが、大型バスやトラック用として、ある程度ではあっても量産され、それだけ供給側も使用データーや経験があったのである。

因みに戦前の国鉄は、ディーゼル車は機関車も動車も、ことごとく失敗―それも手ひどい―した。機関がそれだけのために新たに開発された、未熟もいいとこの不完全品だったのが最大原因である。見方を変えれば、国鉄工作局の仲良しグループ(要は退職者を受け入れ、かつ陸軍肝煎りの「統制機関」開発競争に敗退した負け組でもあった)である新潟鉄工所を中心とした内燃メーカーが、ロクなディーゼル機関を開発できなかったことでもあった。


クハ253連結面 これが「びわこ」スタイルの流線型だったとは思えまい

サハ28 誰が見てもどこかのガソリンカーの成れの果てと思うだろうが その実???

サハ27は東武鉄道キハ30←神中鉄道キハ30で、モハ3121←モハ311←モハ301←善光寺白馬電鉄ゼ100と同型(ディーゼルカーだから床高は20mm高いが)車だが、1番違いのサハ28はご覧の通りの姿で、前歴不詳。車体幅が狭く、かなりの軽量というか簡易な車体で、誰が見てもガソリンカーの成れの果てと思うだろうが、これが難物なのである。台車は間違いなく内燃動車用で、片側は偏心しているから、余計幻惑される。

故吉川文夫氏に尋ねても、ウーン、江ノ島から買ったというんだが、よく分からんのだ、との返事しかもらえなかった。少なくともこれに該当すべき内燃動車は存在しない。小林宇一郎「上田丸子電鉄」鉄道ピクトリアル164号でも、「実は江ノ島鎌倉観光から購入したもの」「出入り口は折り戸だったという」と歯切れの悪い説明しかされず、要するに地元の先輩でも分からないのである。欲求不満がつのるではないか。どなたか解説してくださらんか。

1958年8月上田丸子電鉄その2

前回ご覧いただいたのは旧飯山鉄道が最初に導入したキハニ1~5(定員60人)の「成れの果て」ばかりであった。飯山はその4年後、今度は手荷物室なし、100人乗り、ウォーケシャ6RB装着のキハ101、102をやはり日車東京支店から購入する。この2両も1944年6月1日の買収で省記号番号は与えられず、飯山時代のキハ101、102のままでほぼ使わなかった。廃車は1948年6月22日。上田丸子電鉄が1949年にキハ101を購入してハフ101を経てハフ41に、翌年102がサハ42に。


上田丸子電鉄サハ41←ハフ101←省キハ101←飯山鉄道キハ101

サハ41
サハ41 台車の補強が目立つ

サハ42←省キハ102←飯山鉄道キハ102

ハフ41←ハフ101←省キハ101←飯山鉄道キハ101

飯山のキハ101は1941年代燃化で木炭瓦斯発生路を片側運転室反対側に炉室を作って納めた。これは私鉄では極めて珍しい例で、他には淡路鉄道キハニ5しかない。ただ国鉄キハ41000形式はやはり室内に、それもシンダガス発生炉を設置していた。欧州でも室内例は少なくなく、新製時から車体中央に炉室を持つものすらあった。ついでながら、木炭による代燃はフランスが本場で、早くから実用化し、日本陸軍は昭和初期にフランスから代燃自動車を購入して研究(真似)をし、陸式なる、薪による乾式炉(瓦斯発生時加水せず、薪の水分を使う)を開発していた。
 

サハ253←クハ1502←相模鉄道クハ1502←サハ52←ホハ52←キハ52←キハ42

これは相模鉄道のキハ42→キハ52が出自である。戦前最後まで「びわこ」スタイルのディーゼルカーだったが、当時ディーゼルでの代燃化技術がなく、客車化→制御車化されていた。台車は通常の菱枠だが、ご覧のように随分とリブを付した補強がなされ、端梁もついている。また妻面がこのように改造されると、内燃動車ファンを自認していても、咄嗟に前身を言い当てることが出来ない。


「びわこ」スタイルのままのクハ252←相模鉄道クハ1501←サハ50←ホハ50←キハ50←キハ40


モハ3224←モハ3222←サハ26←東武鉄道キハ21←省キハ40300←キハ36470←秋田鉄道ジハ6

これは旧飯山キハニ1~5と殆ど同じと思われるだろうが、2扉車で、手荷物扉(右)幅が960mm、客扉は750mm。同系だが客扉を1か所なくし、狭い扉側に小窓1個を設けて辻褄を合わせている。機関がブダBTUと強力だが背高のため床高が1,270mmと高かったが、上田丸子での電動車化の際手前の飯山車と合わされた。勿論台車は電車用に履き替えている。

1958年8月上田丸子電鉄

なんで上田丸子へ行ったかは、写真を見ていただければわかる。この電鉄は、実に多数のガソリンカー、ディーゼルカーの『成れの果て」をかき集め、電動車、制御車、付随車にしていたからで、就中旧飯山鉄道のボギーガソリンカー、7両全部を集めていた。飯山には他にキハ51なる、2軸車が1両あった(←南総鉄道キハ103)が、これは飯山鉄道買収(1944年6月1日)に含まれず、日立航空機立川工場の通勤用に転じていた。


上田丸子電鉄モハ3223+モハ3224 3224は秋田鉄道ジハ6買収車

飯山鉄道は1931年7月17日瓦斯倫動力併用認可を得、日車東京支店と5両のガソリンカーを契約したことが、1931年上期の営業報告書に記されている。しかしこの時点日車東京支店はボギーのガソリンカー製造実績がなかった。そのためかどうか不詳だが、設計は本店が行った。1930年10月/11月製の佐久鉄道キホハニ51~56と若干の差異―窓が下降式、寸法も厳密に同一ではない―があるが、ほぼ同様の設計であった。車体実幅は2,200mmと狭いから、扉下に踏み板を張り出している。

組立図は勿論本店が引き、図番組8ハ-831、日付昭6-3-30。ところが支店にも組8ハ-145、昭6-7-27なる組立図一式が存在し、しかも「基図本組8ハ-831」の記入がある。すなわち支店は本店の図を完全にトレース=コピーしたのであった。

それからがややこしい。各車には支店の銘板が張ってあり、従前ファンは、この5両は日車東京支店の製造と信じて疑わなかった。しかし日車売上台帳を見ると、一筋縄ではいかない。それは、本店、支店両方に注文先を飯山鉄道とする売り上げ実績、工号があるからである。工号とは日車内部の符丁で、顧客からの何番目の注文かが分かる仕組みで、本店と支店とで様式が違う。

売上台帳64期(1931年6~11月)での本店は、車両の部ではなく、「製作器具内訳表」に注文先飯山鉄道、品名手荷物室付半鋼製四輪ボギー瓦斯倫客車、数量5両外4点、請負金額39,707円、製作費36,918円63銭、工場損益2,788円37銭。支店は「製作車両内訳表」にやはり注文先飯山鉄道、品名半鋼製四輪ボギー瓦斯倫客車、数量5両、請負金額60,000円、制作費56,786円34銭、工場損益3,213円66銭。常識的には本店の発注先を飯山鉄道でなく、支店とすべきだったのであろう。

これから判断すれば、受注は間違いなく支店。ところが現実には本店が下請けで2/3を製造し、支店へ。支店が残りを仕上げた、と読める。支店の制作費には本店への支払=36,918円が含まれている訳で、飯山鉄道キハニ1~5竣功図記入代価は1両12,500円だから、5両で62,500円。2,500円が搬入経費(運賃、保険料、荷役費)と思えば勘定は合う。

車両業界では下請等の実態がどうあれ、最初に受注したところがメーカーとされ、そこの銘板を張るのが常識で、現にこの飯山5両も竣功図を支店が調整し、製造所名日本車両製造株式会社東京支店、昭和6年9月と明記されている。この5両は日車東京支店製として間違いはないのだが、上記の如き事情が介在した。それも5両の内3両を本店が、2両を支店が作ったのならまだ話は分かるが、付加価値額からは2/3本店で製造した半製品を、支店で仕上げたという、極めて珍しい事例と判断できる。


モハ3223←サハ25←運輸通信省キハニ5←飯山鉄道キハニ5
サハ22←ハフ103←運輸通信省キハニ4←飯山鉄道キハニ4

話が100%脱線した。この5両―飯山鉄道キハニ1~5は、設計認可1931年7月17日、機関ウォーケシャ6SRL、チェーン2軸連動。買収でも省形式はずキハニ1~5のまま。1944年(キハニ2、3)と1948年6月22日(1、4、5)が廃車になり、全部1949、50年に上田丸子電鉄に払い下げられ、1~5の番号順ならサハ23、ハフ102→サハ21、サハ24、ハフ103→サハ22、サハ25に。

サハ23←運輸通信省キハニ1←飯山鉄道キハニ1 この位置の踏み板が原型である

さらにサハ25は台車を電車用に履き替え、モハ3223に改造。但し一旦廃車されていたと聞くから、廃車復活ではなく、単にボディを再用したのであろう。連結しているモハ3224も同系列車には違いないが、飯山ではなく秋田鉄道ジハ6買収車で、鉄道省キハ36470→キハ40300→東武鉄道キハ21→上田丸子電鉄サハ26→モハ3222→モハ3224という経歴になる。

なお飯山の5両は、客扉幅が750mm、手荷物扉幅960mmだったが、小生が見た時点ではすべて手荷物室側の客扉を埋めていたが、面影は十分残している。サハ22、23共、その扉跡が分かるだろう。また連結器は簡易連結器だったが、全車通常の自連に換装しており、モハ3223、サハ22は妻下部に鋼板を重ね張り足している。

北陸鉄道サハ611、612

11月2日(10174)/11月8日(10193)の「元祖青信号」に、1925年製北陸鉄道サハ611が、国鉄形式ホ12000の、すこぶる古い―1911年か12年製のものと振り替わっていたことを記した。小生も編集の末席を汚している「鉄道史料」なる、マイナーも極まった季刊誌があり、その112号(Autumn2005)に、「私鉄のボギー客車落穂拾い―国鉄型」なる駄文を弄している。その中で能登鉄道ホハ1、2→北陸鉄道能登線ホハ1201、1202→石川線サハ611、612を簡単に記している。

それから5年経過した今年11月17日―つい先日、地元ご在住(であろう)の山本宏之氏という方から、鉄道史資料保存会にメールが寄せられた。北陸鉄道サハ651、652とサハ611、612に関してで、要約すると以下の通りで、文意を損なったとすれば要約者の責である。

「この車は1949年にホハ3001として能登線に入線し、1952年に石川総線へ移った際にサハ651となっていたが、許認可文書には一度も登場しておらず、無籍車と思われる」
「買い出し客などで能登線の輸送需要が増加し、燃料統制で使用が制限さられていたガソリンカーの代役として、運輸省から1023号蒸機の払い下げを受けていた中で、鉄道統制会の許可を得ずに大型客車を増備したのではないか」
「能登線がディーゼル化され、それが牽引するには荷が重い大型客車は電化路線に転用され、最終的に石川総線にサハ611、612、651の3両が揃った」
「1955年サハ611(湯口注能登鉄道からのオリジナル客車)の台車と台枠を流用してサハ2001を新製する際、車籍を継承せず、サハ611の廃車届もなく、サハ651(湯口注国鉄から購入した無籍車)の車体標記をサハ611に書き換えた」
「翌年にはサハ612も同様サハ2002に流用したが、この時はサハ612の廃車届が出され、二代目サハ611になった元サハ651も1965年廃車になった」

山本氏は恐らくこの掲示板はご覧になっていないだろうが、偶然とはいえ、実にいいタイミングで、これでほぼ実態が判明した。ただ「鉄道統制会」とは、戦時中私鉄の許認可事務の委託を受けて代行していた「鉄道軌道統制会」であろうが、これは敗戦後1945年12月26日解散しており、北陸が古いホハ12000を取得し、無認可で就役させたのはその後と思われる。ホハ12000には当然戦災廃車もあるが、老朽廃車は1948年以降で、翌年からはオハ60系新製のため、台枠の切継ぎ転用も゙始まる。1950年以降は職用車(配給車、救援車等)への改造もなされた。

金鉄管内での形式ホハ12000廃車は1951年度ホハ12047、48、56、12181、1952年度12049~51、53など。今となっては調べようもないが、恐らくはこのうちの1両が、サハ651→二代目サハ611になったのではなかろうか。なお山本氏は「大型客車」を、地方鉄道としては大きな客車ほどの意味でお使いと思われ、国鉄での「大型車」(形式が2万代=長軸・将来標準軌間化できる設計)、「中型車」(1万代)という分類ではあるまい。

また能登線3001とは、芸備鉄道キハ1→鉄道省キハ40308→石川鉄道ハフ20→北陸鉄道石川線サハ801→能登線コハフ3001で、1968年まで在籍、と承知していたのだが。能登線初代3001は無認可での国鉄形式ホハ12000で、石川線サハ801との交換で、番号も引き継いだのだろうか。

で、最後に諸兄にお願いが。まっとうなサハ611、612のUF12類似台枠と、TR10あるいは短軸化TR11台車を流用した北陸サハ2001(自社製)、2002(東洋工機)→クハ1711、1712をお撮りの方は、是非ご提供お願いしたい。

1957年5月金沢機関区



C5776とC5778

北陸鉄道のネガをゴソゴソやっていたら、国鉄車両も出てきた。金沢では機関区、客貨車区も、行きがけの駄賃というか、ついでに覗いていたのである。C57はどうでもいが、E10がズラリ並べられていた。周知のようにE10は1949年4月24日奥羽本線福島-米沢間電化で失業し、その後北陸本線倶利伽羅峠の補機として使われていたが、新随道の掘削で勾配が緩和され、再度失業していたのである。


E101  奇怪な除煙板にご注意あれ



E102(上)とE104(下)

その後北陸本線交流電化で、米原-田村間4.7kmという長大デッドセクションになり、ほぼ勾配のないこの区間が彼らの失業対策―最終職場になった。交流電化開業は1957年10月1日だから、米原区転出の数か月前だったことになる。さらにはこの米原-田村間も1962年12月28日電化され、全く用途を失って廃車された。

 

機関区の片隅に、立山重工製Cタンクが1両、さして荒れずに放置されていた。同類は各地で見られ、軍需工場や陸海軍工廠等で使われていたものが、敗戦後GHQ(General headquarters=占領軍総司令部)から賠償指定され、大蔵省管轄で保管されていたものである。結局は賠償にはならず、車両類は1953年ごろから順次指定解除されて私鉄で再活躍したり、引き取り手がないものは解体されてしまった。このCタンク機も、本当に車両不足が切実だった時期を無為に過ごし、再起したとは聞かない。金沢機関区は単に置場を貸していただけである。


ホユニ5051が完全な姿で残存していたのには一驚

客貨車区を覗いて仰天しかけた。何と、ホユニ5051(形式5050)がまともな姿で残存しているではないか。これは鉄道作業局ニボ17として、1889年神戸工場で誕生したもので、ホイロ5166(5150)→ホロ5508(5495)→ホユニ8605(8600)→という経歴。1950年2月14日名タヤで廃車されているから、この時点7年を経過している。

通常食堂や休憩室、組合事務所などに廃車体を転用する場合、台車を外すのに、これは一体どうしたことか。別段保存や転用などというものでもない。単に解体から漏れていた、というだけなのは、出入り口にハシゴ・階段の類が付けられていないことから分かる。蒸気機関車なら、誰かが画策して密かに残していた―例えば吹田教習所にC5345、555、65が残存―こともあったが、こんな例は珍しい。小生にしても、救援車や配給車化されず、営業車のままの雑形客車で、しかも足つきは、これ以外ほぼ見ていない。


ロ642車体

建物の間に、ロ642の車体を見つけた。形式628、628~680は新橋工場1888~1900年にかけ製造された、サイド2箇所扉のロングシート車で、片隅に便所があり、定員26人。

1957年5月/1958年7月北陸鉄道その6


能登鉄道ホハ 藤浦哲夫撮影 UF12類似台枠を篤と覧あれ この時点まだ赤帯の跡が残っている

先回投稿につき、早速藤本哲男氏から暖かいサポートがあり、老人は感激し「その6」を続けることにする。

能登鉄道ホハ1、2の台枠がUF12類似であること、台車もTR11の短軸化であることは先回記した。比較のため、能登鉄道時代、北陸鉄道統合、石川線転出後のサハ611をお目にかけておく。これがオリジナルの姿なのである。


北陸鉄道サハ611←能登鉄道ホハ1 高橋 弘撮影

さらに石川線では、モハ541の挿入を忘れていた。後期高齢者まであと10か月という老人性痴呆の寸前にほかならない。情けないがどうしようもない。


北陸鉄道石川線モハ541 元能美電気鉄道デ1 

なお金沢市内線も何枚か撮っているので、事のついでにご披露を。

金沢市内線308

金沢市内線2001

金沢市内線2004

1957年5月/1958年7月北陸鉄道その5

西金沢(のち白菊町)-鶴来-神社前は旧金沢電気軌道、新寺井-鶴来は能美電気鉄道が前身で、北陸鉄道に統合後は両者合わせ石川線。さらに神社前-白山下の非電化線であった旧金名鉄道→金名線を含め石川総線とも称されていた。神社前とは加賀一ノ宮である白山比め(しらやまひめ。「め」は口偏に羊)神社を指す。なお金名鉄道は1日2往復列車(ガソリンカー)が神社前まで乗り入れていた。電化は敗戦後の1949年12月6日である。

さらに金名とは、以前にも書いた記憶があるが、金沢と名古屋の頭文字で、熊延鉄道(熊本、延岡)や大社宮島鉄道(出雲大社、宮島)などと同類の、大風呂敷・大法螺吹き社名。世の中上には上があるもので、日露支通運電鉄なんて会社設立を謳い、詐欺そのもの?の計画もあった。


2軸単車の59 市内線のお古か ビューゲルとポール両方装着は庫内入換用であろう

モハ1502 汽車会社1925年製のオリジナル半鋼車デホニ102の荷物室・扉撤去

モハ3103 伊那電気鉄道買収車 伊那デ122→国鉄モハ1922→北陸

モハ3104 上と同じく伊那デ123→買収モハ1923→北陸
サハ611 能登鉄道ホハ1が前身とは「真っ赤な嘘」

小生は電車なんぞどうでもよく、このサハ611、612だけを撮りに来たのである。これは能登鉄道開業(1925年3月3日、羽咋-能登高浜)時2両購入した日車製の中型並の木製ボギー客車だが、製造が新しいだけあって、台枠はUF12並、台車もTR11を短軸にしたようなものである。北陸統合でホハ1201、1202に改番、さらに石川線に移ってサハ611、622に。蛇足ながら大正末~昭和にかけ、かような省型木製ボギー客車を開業時新製投入した鉄道には、能登のほか、弘南、北海道拓殖鉄道がある。

ところが、である。このサハ611を、目をこすってよっくとご覧あれ。やったらめたらと古い客車であることがお分かりになろう。台枠はUF11、台車に至っては1911年(明治44年)か1912年(45年)の代物である。すなわち、これは能登鉄道のオリジナル客車ではなく、鉄道院形式ホハ6810(→形式ホハ12000)の、最も古いかその直後―明治製の客車に相違ない。高橋 弘氏が1949年に撮られた写真は、オリジナルそのものである。

即ち、北陸鉄道では国鉄で廃車になったホハ12000形式を、恐らく1955年以降に購入し、振り替えたとしか考えようがない。それにしても振替とは、一般により新しい車両とするものであろうが、14年も古い車両との振替なんぞ、聞いたことがない。事故か何かで損傷したのに廃車手続を避けたのか。それとも新しい方の台枠を新製電車に流用した?可能性もあるかもしれない。電車屋さんよ、何ぞご託宣を。

北陸鉄道の車両紹介は極めて少なく、かつて鉄道ピクトリアル215~220号の「私鉄車両めぐり」も、執筆者には大変申し訳ないが、いまいち分かりづらく、内容にも欲求不満がつのった。このサハ611の項でも、正式の経歴が記されているだけで、挿入写真は明白に振替後なのに、失礼ながら全くお気づきになっていない。

「昭和の神戸と市内電車」作品展


以前この掲示板に、神戸元町4丁目のこうべまちづくり会館地下ギャラリーで、神戸市電や和田岬線列車の詳細、かつ何ともいえない温かみのある絵画、三ノ宮付近の立体模型などの作品展の紹介があった。この老人も習慣としての須磨-三ノ宮までのウォーキング中にたまたま拝見し、そのすばらしさを伝えた記憶がある。鈴木 城氏の長年にわたる作品群の由。

今回どうして老人の住所をお知りになったのかは不詳だが、やはり同じ会場で、11月11日(木)~23日(火・祝)「昭和の神戸と市内電車」鈴木 城絵画立体作品展のご案内を頂戴した。これは必見である。鈴木氏とご面識はないが、今回は是非お目に掛かりたいものと念願している。

会場は神戸の元町本通、4丁目と5丁目の堺の4丁目側南角にある「こうべまちづくり会館」で、9時30分~18時。京都からわざわざお越しになったとしても、それだけの価値は充分あると確信する。最寄駅は神戸高速鉄道「高速花隈」、神戸地下鉄海岸線「みなと元町」だが、JR元町、阪神元町からでも徒歩10分とかからない。

蛇足を加えると、冒頭リーフレット上の絵は、元町6丁目の三越前。三越撤退後は結婚式主体のホテルになり、それも震災前から家督争いか何かで閉鎖されたまま、今日に至っている。元町通りの西の入り口である。市電が通っている道路(多門通=現在中央幹線)は神戸高速鉄道建設に際し、左(山)側が拡幅された。

電車のすぐ横に「太井肉店」の看板のある異人館が覗くが、この建物は神戸高速鉄道が補償・全額負担して明治村に移築。最初は大井が牛鍋を営業していたが、現在では別の業者がやっている。なお大井肉店はビルになり、絵とほぼ同じところ(道路拡幅分だけ引っ込んで)で営業中である。

下の絵は、国鉄和田岬線の三菱造船所通勤客満載列車。ヘッドライトの背後に神戸港線名物のエア作動の鐘が見える。背後の誇線鉄橋は神戸市電高松線。この一帯は低地(旧湊川の川口扇状地)で、台風ではすぐ水没し、老人も若かりし日、写真取材で腰まで水に浸かった記憶がある。

飲酒の運転手が、公用車に「偉いさん」を乗せたまま、この誇線鉄橋の標準軌レールの上を、脱線もせず渡り切ったという「武勇伝」?があった。当時宴会中待機している運転手に、酒食が供されるのは至極当たり前というより「当然」であった。

なお和田岬線は旧山陽鉄道時代から存在し、現在では幹線道路の手前で切られ、駅も無人に。利用者は全員定期券のため乗車券自販機もなく、フリの客は無札で乗車し、兵庫駅で精算するシステムである。かつては川崎車両、神戸市中央市場の貨物が相当にあり、鐘紡の工場もあった(その後に競輪場が出来、市電車庫や交通公園にもなり、現在ではサッカー場と公園)のだが、旅客オンリーになり、それも三菱の縮小で昔の超満員など、かけらもない。

神戸市は地下鉄海岸線の開通で、和田岬線の廃止を予想していたが、何と電化までして残存したため、完全にアテが外れた。山陽本線の一部のため単独の収支係数は公表されていないが、平日朝夕のみ17往復、土休日は4/2往復で、黒字のはずもない。三菱が通勤上必要ならタダで譲ってでも、三菱に運行させたらと思うが。世の中にはいろいろ不思議なことがある。

1957年5月/1958年7月北陸鉄道その4


北陸名物 外見上立派なB-B凸型でもモーター2個のため 律儀にEBを名乗るEB301 ポールは1本 

藤本哲男氏から昭和40年代の写真でご支援を受け、老人は至って機嫌を好くし、いそいそと「その4」に向かって邁進することになる。流石に昭和40年ともなると、木製車、2軸車は姿を消しているようだが、昭和30年代―1950年代後半期では、まだまだ幅を利かしていた。今回は金石線を。


右側はEB301+モハ611+サハ552+サハ604 左は1601 プラットホームの伸延はラッシュ時連結両数増加を示す

半鋼2軸車のモハ611 名古屋鉄道に大量にあった車両と同型であろう ポールは1本  

先回浅野川線で紹介したサハ600型の604 台車を篤とご覧あれ 床下トラス棒の両端はセンターピン位置と一致しないと効果が薄い筈だが これはどう見ても内側である
これは「まとも」な電車 モハ1601 半鋼車だがトラス棒があるのが京福電気鉄道ホデハと違う 浅野川線からの転属で、のちサハ1601として小松線に
サハ521←金石鉄道14←省コハ2476←簸上鉄道ホハ10 小生が情熱を注ぎ込んだ旧簸上鉄道の客車最終車で台車は菱枠様軸バネ入り 

1957年5月/1958年7月北陸鉄道その3


北陸鉄道加南線モハ1821 大聖寺 近畿車輛で車体新製 台車電気部品は木製車のもの

1957年5月3日北陸路は大聖寺の加南線からだが、夜行で着いて、電車を2本撮っただけである。
中々に整った電車なのは認めるが、小生は木製車を撮りにきたのだから、まあ折角だから撮っておこうか、ぐらいの気持ち。それでもポール付の姿はこれが最後になった。


加南線モハ1812 大聖寺 木南車両1943年製

松任では松任工場に入場する社型国電(旧宇部)モハ1301+クハ5301が止まっていた。これは確かずっと以前にご高覧に供した筈である。

金沢では先ず浅野川線へ。


浅野川線サハ211←浅野川電気鉄道ハフ24 日車1925年製


サハ221←浅野川電気鉄道ハフ23 汽車東京1925年製

サハ606←ハフ21 車体は名古屋市電ボギー車のお古 台車は雑形3軸ボギーからの改造 

モハ572←カ12 浅野川電気鉄道生え抜き 汽車東京1925年製


モハ851←国鉄モハ1900←伊那電気鉄道デ101 汽車東京1923年製

モハ1601←浅野川電気鉄道デハ2 日車1927年製 のち小松線サハ1601 

小生に電車の講釈が出来るわけもないから、サハ600のみを。車体は一見して分るように、かなり細身で、その割には長めのボギー路面電車の成れの果て―名古屋市電を鋼体化改造した際廃棄した木製車体を再生したものと聞くが、詳しくは知らない。乙訓ご老人の出番であろう。

問題は台車で、これが珍物である。国鉄雑形3軸ボギー客車の台車を切断し、2軸に縮めたとしか思えない代物だからである。一般に3軸台車のイコライザーは左右非対称だが、これは対象に見えるから、イコライザーを中間で切断し、継ぎ合わせたか。施行は名古屋市南区にあった三山(さんやま)工業なるところだそうな。車両絶対不足時期ならではの工夫だが、この付随客車は北陸鉄道に6両あった。

1957年5月/1958年7月北陸鉄道その2

落語の枕ではないが「えー毎度お古いお噂で」とでも言わねばならない、半世紀以上前のカビの生えたような写真で恐れ入るが、まあ老い先短い老人に「お付き合いの程、願っておきます」。

今回から、1957年5月に加え、翌1958年7月撮影を加えている。この間にポールからZパンタに変わっているからで、Zパンタだと1958年の撮影である。先ずは大分以前に1954年撮影をご覧頂いた小松線から。この線はすべて尾小屋鉄道に行った時の「ついで撮影」である。旧簸上鉄道ホハ4→省コハ2470→金石鉄道ハ12→北陸鉄道ハ12→サハ511は中妻撤去、密閉化されている。

サハ571は枝光鉄工所製、何とも不細工な車両である。短くてずんぐりむっくり、窓が小さく、低く、屋根が深く、扉幅が狭く、床高は結構あるなど、よくこれだけ泥臭くデザインをしたものと感心するほかはない。温泉電軌ホデハ15→北陸鉄道モハ841→サハ571という経歴で、加南線からの転入だそうな。

モハ501~503は当線生え抜きで、新潟鉄工所製白山電気鉄道デ1~3である。ベンチレーターがやや古めかしい「お椀」型だが、昭和の生まれ。以前ご覧に供した1954年3月撮影時は1本ポールだったが、一人前にZパンタを装着している。モハ503は加南線を経て浅野川線に転出し、EB221と電気機関車に、しかもボギー車に化けている由。

1957年5月北陸鉄道その1


サハ521+サハ604
金石線サハ521←北陸鉄道ハ14←金石鉄道ハ14←省コハ2475←簸上鉄道ホハ10 台車は菱枠型

しつこく九州が続いたので、今回は気分を換え、古いのは同じだが、53年前の北陸鉄道を何回かに分け、ご覧に供することにする。以前1954年3月撮影分は、確か小松線と金石線をご覧頂いたと記憶するが、今回は加南線、浅野川線、金石線で、要は旧簸上(ひのかみ)鉄道買収客車の最終活躍の姿を撮るのが最大目的。他の電車―木製車ならまだしも、半鋼製電車なんぞは、まあつけたりというか、おまけというか、目の前にいるんだから撮っておこうか、ぐらいの気分であった。今回の撮影は全て1957年5月3日で、旧簸上鉄道の客車に絞る。

以前の小松線、金石線の際も少し記したが、その後この一連10両の旧簸上鉄道の小型ボギー客車には、ぞっこん惚れ込んだ。早い話一時期カンカンになっていたのである。バッファーを含めて全長32フィート9インチ(9,373mm)と短く、最大幅は8フィート2インチ(2,480mm)だが、車体実幅は7フィート(2,134mm)と、ニブロク軽便並みである。屋根は浅いダブル、両端は貫通式窓付オープンデッキ。サイドの出入り口上部には飾り金具があった。

木次線は1932年12月18日木次-出雲三成間が開業。宍道-木次間1916年10月11日開業済の簸上鉄道を1934年8月1日買収して木次線につなげ、かつ線路規格を改修。こんな小さい客車も、一旦鉄道省としての形式番号が与えられはしたが、勿論すぐ処分された。

ホロハ1~3はコロハ1620~1622に付番されたが、出石鉄道に行き、そこも戦時中の企業整備で東武鉄道に転じたが、浅草に留置中2両が戦災に遭い、1両のみ日光線コハ120に。あとの7両コハ2470~2476は、ことごとく金石鉄道、温泉電気軌道、金名鉄道と、北陸線沿線の小鉄道に再起し、北陸鉄道に統合されたのであった。

北陸鉄道に集結したこの7両は、製造年次や台車に若干差異はあるものの、まあ同型とみなして差支えない。しかるに北陸鉄道車両課は僅かな寸法的差異等をことさら強調?し、配属先線区毎にサハ501、511、521、551、561と実に5型式に区分した。合体後の三重交通車両課とよく似ている。

前回ご覧頂いた1954年3月撮影のサハ511(小松線)、サハ521、551(金石線)はまだオープンデッキだったが、3年後ではことごとく中妻、貫通路も撤去され、箱型車体に改造・締め直されていた。引戸が設けられ、当然次位の窓は戸袋に、扉下には踏み込みが付された。


サハ552←北陸鉄道コハ2←金名鉄道コハ2←省コハ2475←簸上鉄道ホハ9 妻面の手ブレーキはベベルギヤを使った 日車この時期の小型客車に独特の野上式 台車が菱枠型なのは野上八重治辞職後の製品だからである
サハ562←北陸鉄道ハフ8←温泉電気軌道ハフ8←省コハ2472←簸上鉄道ホハ6 台車は3号野上式弾機台車

なおこの小型ボギー客車は、日車の技師長に鉄道院から野上八重治を招聘した時期に重なる。彼は日車入りするやすぐ欧米視察に出してもらい、帰国するや矢継ぎ早に発明を特許化。軽便用を含め台車の弾機で4種、手ブレーキ2種等々で、当時需要が高かった小型ボギー客車に片端から装着して送り出した。彼なりに外遊のの恩返しでもあったのであろうが、構造が奇抜すぎた。

今回の写真では、最後のサハ560型の台車弾機をよくとご覧じろ。何やらオイルダンパーと間違いそうで、正直小生も最初に見た時はてっきりそう思った。これは野上八重治が3番目に発明した「野上式3号弾機台車」で、一種の原始的な空気バネのようなもの。頚城鉄道のボギー客車全部がこれを装着しており、現在も1両だけ残る旧畳敷客車改造のホジ3に健在である。

彼の発明した弾機台車中、1号型は井笠や宮崎など、温暖地では別段のことはなかったが、皮肉にも北陸、信越の雪国発注の客車に集約して装着され、ことごとく冬季雪を抱き込んで危険状態に陥っている。頚城鉄道では無認可で3号型に有料交換、石川、丸岡、栃尾鉄道では通常のダイヤモンド台車に交換=恐らく日車の無料アフターサービスと思われる。野上は山陽鉄道出身で、豪雪地帯の実情に疎かったのであろう。

こんな台車を売りつけられた方こそ、いい迷惑であった。なお野上式弾機台車4号型は冬季に限らず丸っきりの欠陥台車で、簸上でも1両に装着していたはずが、簸上時代に振り替えられていたと思われる。残りはまとめて兵庫電気軌道に赤字で叩き売り、バラック応急電車といわれた22~28が装着した由だが、長生きはしていない。折角招聘した技術者だったが、その後すぐ辞めた(辞めざるを得なかった?)ので、日車は心底ホッとしたはず(社史『驀進100年』には勿論そんなことは書いてない)である。彼は野上式自動織機を発明し、それを製作販売する会社を興し、独立したのであった。

1955/57年熊本電気鉄道


旧海軍荒尾工廠のEB2と3 1~3とあって15t 41.3kW×2 国有財産だがこれは横領ならず返却(解体)された

宇部電気鉄道デハ2→宇部鉄道→買収→14 熊本電気鉄道最後の2軸車である

モハ14改造二代目工作車 かつこの時点唯一の2軸車 上の写真から3年後 パンタがなければ屋根で相撲がとれる

久しぶりである。書き込みをサボって読むだけに回るのに慣れると、それはそれで至極気楽なものである。乙訓ご老人も、総本家青信号特派員氏も、どうやら同じらしいと踏んだが。そういえば健筆とどまることを知らない「ぶんしゅう」氏も最近ややお静かな。

で、懲りもせず55年半/53年半前のカビの生えた写真をゾロ並べ、諸兄の非難がましい冷たい視線を浴びながら、只管耐えることにする。1954年高校修学旅行の際、観光を一切拒否して熊延鉄道と熊本電気鉄道を撮ったものを以前「無理やり」ご覧に供した。今回はその翌年および3年後で、ポール姿は1955年3月19日/パンタ装備は1957年3月21日の撮影である。

熊本電気鉄道は1955年時点まだポール集電で、敗戦後に緊急導入した旧海軍荒尾工廠の凸型電機EB1~3も残存し、国鉄モハ90005が入っていたがまだ手付かずで標記もそのまま。1957年ではパンタに、架線もカテナリーになり、2軸車は二代目工作車(←14)以外ことごとく姿を消していた。「もはや戦後ではない」と誇らしげに経済白書が謳いあげたのが1958年だが、その1年前でも木製車両がまだまだバリバリの現役=主役というより、半鋼車は101、102と国鉄から購入しまだ未整備の70型(旧モハ90)しかなかったのである。


日立1944年(銘板は前年)製の実にダッサェー電車 時節柄木製2軸電車の改造名義による新製だから?かも


この時点まだモハ90003広ヨワのまま 右端は旧海軍工廠EB2と3
モハ72は旧モハ90003

モハ71は旧モハ90005

この熊本電気鉄道は、菊池軌道として、3フィート軌間蒸気軌道で1911年10月1日上熊本-広町を開業し、1923年サブロク改軌及び電化し、菊池電気軌道に改称。1942年5月1日鉄道に変更し菊池電気鉄道に、1948年2月20日熊本電気鉄道に改称。1987年2月16日御代志-菊池(旧隈府)を廃止。

旧3フィート時代の車両は蒸気機関車9、客車10(定員合計370人)、有蓋貨車10、無蓋14であった。やはり3フィートの蒸気軌道で、約3か月おくれて開業した西大寺軌道(→1915年鉄道に変更)が、機関車4両、客車7両、貨車3両を引き取っている。

敗戦間際、空襲で甚大な被害=変電設備もやられた。近辺の鹿児島本線鉄橋迂回線建設のため、陸軍が持ち込んでいた100式軌道牽引車や貨車が、敗戦で放置してあったものを、緊急避難は確かとしても、無手続きで燃料とも横領し、緊急運転に充当した由。社長の松野鶴平は政治家で鉄道大臣も歴任し、俗に松野「ズル平」と呼ばれていたぐらい、よく言えば敏腕・したたかな実業家で、彼の政治力には違いないが、国有財産横領も間違いない。

何しろ横領だから、設計申請など、正規の手続きが踏めるわけもなく、1949年4月1日開業の北熊本延長線工事に使った。業務用車両は認可不要なのである。かような例はあちこちで見られ、西武の鉄道聯隊車両一式(後日一部の台枠・台車が山口線の客車に化けた)や、島原鉄道の旧海軍工廠車両横領などがある。

世の中がやや納まった頃、車両の設計申請の際、国鉄の旧車であれば、必ず国鉄資材局長との譲渡契約書の写し添付が義務付けられていた時期がある。すなわち当局もある程度実態を知っており、非合法取得した車両に監督庁がお墨付きを与えるわけにはいかなかったことを示す。

ところで熊本電気鉄道でも、勿論日立製の田舎くさく泥臭い3扉車101、102(谷岡ヤスジのマンガなら「イナカー」と吹き出しそうだ)もいたが。

最も両数の多かったモハ51型、55型は戦時中旧京都市N電のお古!やオリジナルのボギー車を改造したと称して木製食パン型車体を田中車両で新製したもの。焼失したものもあり、55~57は電装を外しホハ58、59、57に。愛想もクソもない四角い半鋼製車=京津22~27などは「鉄のハコ」というが、これは「木箱」、「折箱」か。


モハ55+コハ32 藤崎宮前 55はのちホハ57に


モハ56 のち電装を外しホハ59に
ホハ58モハ55の電装解除 旧ボギー電車1の改造名義である

ホハ58+57+41+コハ31=全部木製車 藤崎宮前
モハ54+コハ32 後者は電化当時客車不足で有蓋貨車を改造 さらに戦時中西鹿児島工機部でデッキ、中妻撤去、多客化改造 粗悪応急車のままで30数年経過
モハ201←国鉄モハ1型 台車はD16か

モハ202←国鉄モハ1型 101とは窓配置が違う

モハ201型+ホハ+モハ101型 半世紀以上前だから今ではぎっしり家が立ち並んでいるだろう

ホハ41←モハ41 モハ63型割り当てによる名古屋鉄道の供出車 元来尾西鉄道

オリジナルの旧ボギー電車車体 宿直用布団が干してあり 未成年の技工見習いが寝小便をしたんだろうと 皆からからかわれていたのが可哀想だった 妻面幕板中央に方向窓あり