米手作市氏からのお名指しは身に余る光栄といいたいが、その実この老人に、事もあろうに電車―それも軽便ならイザ知らず、標準軌間電車の解説をせよとは、そりゃ余りといえばあんまりな、ミスキャストもいいとこじゃござんせんか。勘ぐれば、日ごろ歳を笠に着た大言壮語が目に余り、乙訓ご老人がおとなしくせざるを得ないこの時期に、一発かまして恥をかかそうという魂胆と見たが。いや歳をとると人間僻みっぽくなるものであります。
なるほど現在は、恐らく誰よりも山陽電気鉄道の近く住んではおるが、申し訳ないが日頃は目にする電車毎に、気の毒なぐらい乗客が少ないと気をもんでいるぐらい。明石以西はもう少しマシだろうが、少なくとも明石以東は、JRにほぼ完膚なきまでに打ちのめされているのである。JRの須磨海浜公園駅新設で、ある程度利用があった須磨水族園団体客や海水浴客までJRが分捕り、対抗上終日月見山に特急を停車させているが、到底歯が立たない。
閑話休題(=「それはさておき」と読む)、米手氏から頂戴した「お題」だが、正直よく知らない。まあ川崎車両特有というか、あんまり褒められんというべきかの流線形電車ではある。日車は「びわこ」号で独特の流線型を創出し、なぜか電車はそれっきりで、あとは気動車に移された。川車は江若キニ10でその亜流を造り、その後こんなスタイルの電車にしたんじゃないかと思うが、全くの見当外れかもしれない。少なくとも扉上から妻面にかけての、幕板と屋根との仕切りカーブは江若キニ10の流れであろう。
元来この電鉄の兵庫-須磨間は兵庫電気軌道として1910年3月15日開業し、1917年4月12日明石に達している。1927年1月1日宇治川電気に合併し、1933年6月6日山陽電気鉄道に譲渡。兵庫駅前の路上を発し、東尻池で神戸市電と平面交差、併用軌道と新設軌道を交えて須磨へ。一ノ谷付近でまた国道2号線上をゴロゴロと西へ向かい、また新設軌道、併用軌道で明石へ。
明石以西は神戸姫路電気鉄道として1923年8月19日明石-姫時間を一気に開業。その後宇治川電気合併→山陽電気鉄道という流れだが、こっちは地方鉄道で1500V。ところが明石以東は軌道で当然600V、路面乗降停留場も多く、車体幅も狭い。この200型は201~207が1936年、208~212は1938年製で、扉下に踏込と折り畳みステップがあり、路面からだと都合3段上らねばならない。まあこれは京阪京津線や福井電鉄、京王電鉄やら、類例はいくらでもある。明石で線路を接続し、西新町にデッドセクションを設けていた(そうな)。
話を敗戦後に飛ばすと、戦災による車両の著しい不足=非常事態とあって、何と標準軌間なのにモハ63が割り当てられ、20両を投入。明石以東の軌道区間も車両、建築定規を拡大し、老人も路面を行く63を見て正直肝を潰さんばかりだった記憶がある。一ノ谷前後の併用軌道区間も山側に移設され、今日の山陽電気鉄道になった、というお話。「お題」とは限りなく関係が薄そうだが。ついでながらこの区間が地方鉄道になったのは、実に1977年度なのである。
手元に恐らく谷川義春氏撮影と思われる写真があるので添付しておく。200型は1枚しかないので、31、32(1920年梅鉢製)は「おまけ」である。
これは舞子のあたり?かと思うが、電柱にご注目あれ。旧併用軌道で使った溝付レールを2本束にして使っているが、同様の電柱は現在でも塩屋の東方に見られるので、ご興味ある方はどうぞ。
須磨の大老様、
早速のご解説、ありがとうございます。
昭和10年頃というと、国鉄のモハ52、C53、C55と流線型が流行った時期で、地方の私鉄も好んで似たものを造りました。京阪や江若、阪急にも250型があり、晩年に嵐山線でよく乗りました。一口に流線型と言っても手作り感があり、各鉄道によって個性が出ておもしろいですね。今の電車も似たものばかりですが、量産のなせる技か没個性で私には同じに見えておもしろくありません。
貴重な写真を見せていただき、眼福、眼福!
山陽の200形と言えば関氏のイラストの姿が印象に残っており、何でこんなに不細工な・・・と思っていたものですが、改造前のポール&ステップ付きの姿を見て納得しました。ご大老は余り良い点を付けておられませんが、これはこれで良く纏まっているように思う私の方が変なのでしょうか。嵐電沿線で育った目には先ず腰高なプロポーションが魅力的で、ポールコードをなびかせて快走する姿が浮かんできます。
須磨の大老様、
写真と絵を見比べていて、ふと気になることがありましたので今一度お尋ねします。
絵は、ポールがパンタになり、乗降口のスカートが切られてホーム使用となっていることから年代は後期と思われますが、テールランプは上部にあります。これはこれで正しいのでしょうか?イメージ的には時代が逆の様な気がしますが。
お教え下さい。