1958年8月上田丸子電鉄

なんで上田丸子へ行ったかは、写真を見ていただければわかる。この電鉄は、実に多数のガソリンカー、ディーゼルカーの『成れの果て」をかき集め、電動車、制御車、付随車にしていたからで、就中旧飯山鉄道のボギーガソリンカー、7両全部を集めていた。飯山には他にキハ51なる、2軸車が1両あった(←南総鉄道キハ103)が、これは飯山鉄道買収(1944年6月1日)に含まれず、日立航空機立川工場の通勤用に転じていた。


上田丸子電鉄モハ3223+モハ3224 3224は秋田鉄道ジハ6買収車

飯山鉄道は1931年7月17日瓦斯倫動力併用認可を得、日車東京支店と5両のガソリンカーを契約したことが、1931年上期の営業報告書に記されている。しかしこの時点日車東京支店はボギーのガソリンカー製造実績がなかった。そのためかどうか不詳だが、設計は本店が行った。1930年10月/11月製の佐久鉄道キホハニ51~56と若干の差異―窓が下降式、寸法も厳密に同一ではない―があるが、ほぼ同様の設計であった。車体実幅は2,200mmと狭いから、扉下に踏み板を張り出している。

組立図は勿論本店が引き、図番組8ハ-831、日付昭6-3-30。ところが支店にも組8ハ-145、昭6-7-27なる組立図一式が存在し、しかも「基図本組8ハ-831」の記入がある。すなわち支店は本店の図を完全にトレース=コピーしたのであった。

それからがややこしい。各車には支店の銘板が張ってあり、従前ファンは、この5両は日車東京支店の製造と信じて疑わなかった。しかし日車売上台帳を見ると、一筋縄ではいかない。それは、本店、支店両方に注文先を飯山鉄道とする売り上げ実績、工号があるからである。工号とは日車内部の符丁で、顧客からの何番目の注文かが分かる仕組みで、本店と支店とで様式が違う。

売上台帳64期(1931年6~11月)での本店は、車両の部ではなく、「製作器具内訳表」に注文先飯山鉄道、品名手荷物室付半鋼製四輪ボギー瓦斯倫客車、数量5両外4点、請負金額39,707円、製作費36,918円63銭、工場損益2,788円37銭。支店は「製作車両内訳表」にやはり注文先飯山鉄道、品名半鋼製四輪ボギー瓦斯倫客車、数量5両、請負金額60,000円、制作費56,786円34銭、工場損益3,213円66銭。常識的には本店の発注先を飯山鉄道でなく、支店とすべきだったのであろう。

これから判断すれば、受注は間違いなく支店。ところが現実には本店が下請けで2/3を製造し、支店へ。支店が残りを仕上げた、と読める。支店の制作費には本店への支払=36,918円が含まれている訳で、飯山鉄道キハニ1~5竣功図記入代価は1両12,500円だから、5両で62,500円。2,500円が搬入経費(運賃、保険料、荷役費)と思えば勘定は合う。

車両業界では下請等の実態がどうあれ、最初に受注したところがメーカーとされ、そこの銘板を張るのが常識で、現にこの飯山5両も竣功図を支店が調整し、製造所名日本車両製造株式会社東京支店、昭和6年9月と明記されている。この5両は日車東京支店製として間違いはないのだが、上記の如き事情が介在した。それも5両の内3両を本店が、2両を支店が作ったのならまだ話は分かるが、付加価値額からは2/3本店で製造した半製品を、支店で仕上げたという、極めて珍しい事例と判断できる。


モハ3223←サハ25←運輸通信省キハニ5←飯山鉄道キハニ5
サハ22←ハフ103←運輸通信省キハニ4←飯山鉄道キハニ4

話が100%脱線した。この5両―飯山鉄道キハニ1~5は、設計認可1931年7月17日、機関ウォーケシャ6SRL、チェーン2軸連動。買収でも省形式はずキハニ1~5のまま。1944年(キハニ2、3)と1948年6月22日(1、4、5)が廃車になり、全部1949、50年に上田丸子電鉄に払い下げられ、1~5の番号順ならサハ23、ハフ102→サハ21、サハ24、ハフ103→サハ22、サハ25に。

サハ23←運輸通信省キハニ1←飯山鉄道キハニ1 この位置の踏み板が原型である

さらにサハ25は台車を電車用に履き替え、モハ3223に改造。但し一旦廃車されていたと聞くから、廃車復活ではなく、単にボディを再用したのであろう。連結しているモハ3224も同系列車には違いないが、飯山ではなく秋田鉄道ジハ6買収車で、鉄道省キハ36470→キハ40300→東武鉄道キハ21→上田丸子電鉄サハ26→モハ3222→モハ3224という経歴になる。

なお飯山の5両は、客扉幅が750mm、手荷物扉幅960mmだったが、小生が見た時点ではすべて手荷物室側の客扉を埋めていたが、面影は十分残している。サハ22、23共、その扉跡が分かるだろう。また連結器は簡易連結器だったが、全車通常の自連に換装しており、モハ3223、サハ22は妻下部に鋼板を重ね張り足している。

1958年8月上田丸子電鉄」への1件のフィードバック

  1. 北陸鉄道に引き続き、「1958年上田丸子電鉄シリーズ」が始まり、当時の貴重な写真を楽しみにしております。湯口先輩の仰せの通り、上田丸子電鉄は「よくこれだけ集めた」と思うほど元ガソリンカー、ディーゼルカーが在籍していました。丸子町駅も懐かしい風景です。
    北陸鉄道「昭和40年シリーズ」終了後、上田丸子電鉄に進めたいと思っていますが、何分にも現役サラリーマンの身ですので、タイミングが合わない点はご了承願います。

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