高松琴平のとんでもクハ

失礼しました。この6両の種車は、新製車ではなく、国鉄払下げの中古ワフ25000形式だそうです。中の1両1140は、ご覧のようにブリル台車に履き替えていました。乗り心地が悪かったからでしょう。晩年は貨車として使ったといい、事情は知りませんが恐らく、熊延鉄道ハ50、51(これは新製貨車を流用)同様、認可当局は客車としてではなく、「目下の情勢では貨車で客扱いするのは差支えない」と、妙な理屈で貨車として認可したんじゃないかと思います。

どんな色であったかは分りません。元来小生は色盲ではないのですが、色彩センスに極めて乏しく、永年モノクロ専門だったためか、およそ車両の色を覚えていないのです。上の写真からは、貨車並みの黒とも、錆びて茶色になっているとも思えませんが。

高橋 弘氏を悼む


51年半前の高橋 弘氏 両備バス西大寺鉄道会陽特別運転の日 1960年2月12日

佐竹保雄先輩と並び、在京都―関西、いや日本有数の、それも昨日や今日デビューしたんじゃない、筋金入りの鉄道カメラマン、高橋 弘が亡くなった。79歳であった。180cmを超える長身だけでなく、100kgも超える堂々たる体躯、それで温厚、誠実なお人柄だった。タカハシ写真館のご当主だけに、気楽トンボの我々と違い、せいぜい夜行で1日行程ぐらいと、行動範囲はそう広くはなかったが、関東から山陽路ぐらいまで、丹念に足を運んで居られ、行動力は人後に落ちなかった。1950年代自転車に小型エンジンを搭載した簡易バイクが流行ったが、それで北丹、加悦鉄道まで行かれた由だし、そのバイクが「ポキンと折れました」という話も、彼氏のボリュームを考慮すれば、さして不思議でもない。

車種に好き嫌いせず、何でも熱心・丹念に撮っておられたが、やはり一番好きだったのは電車、それも路面電車だったような気がする。別段メモをされている印象はないのだが、実に記憶がよく、車歴に詳しかった。それに細かいところにも気がつき、あの電車の台車はどうだった、あれのどこが変わっていたとか、それもけして吹聴するのではなく、メモもなくさりげなく記憶を披露されるのに、何度も感心し、脱帽した記憶が尽きない。

彼氏とは何度か山陽路の撮影をご一緒させて頂いた。気楽トンボの小生は、先に出発してステホを重ね、約束の場所で落ち合う。彼氏は仕事を済ませ、夜行でやってくるのである。ご一緒した先は尾道鉄道、井笠鉄道、両備バス(西大寺鉄道)などなど。西大寺・観音院の年に一回の大祭である会陽(えよう=俗に天下の奇祭「裸まつり」)の時も、小生は前日から行っており、彼氏と落ち合って岡山電軌、後楽園駅、終点西大寺車庫、沿線などで一緒に撮影した。彼氏は単端式2両がボギー客車5両を牽く「会陽特別列車」を、三脚に乗せた単レンズの8mmエルモのスプリングモーター一杯撮影しながら、スチルカメラの両刀使いもされていた。一連の8mmは小生が何度かお借りしてコンパでも上映したから、記憶が残る人もいるはずである。


両備バス後楽園駅構内 オーバーコートで撮影する高橋 弘氏 1960年2月12日

東山五条のお店で、暗室に入れてもらったことがある。ご父君の代から使っているという、陶器のバットには銀が随所で光っていた。冬だったが、暗室内のコンロには薬缶がのり、湯気を噴いている。現像液のバットは一回り大きいバットに漬けられ、時折薬缶の湯を注いで適温を保つ仕掛けである。四つ切バットで全紙までなら四つ折、六つ折してOKとのこと。小生は六つ切りバットで半切ぐらいはこなしていたが、もっと大きい印画紙だと、スポンジに現像液を染ませ、それで印画面を拭く名人芸もあるのだそうだ。

鉄道だけでなく、音楽、ステレオにもご造詣が深かった。アカイ900(分る人は手を挙げて=まだテレコが凄く高価だった時期、アマチュアでも手が出る価格で販売されたオープンリールのテープデッキ自作キット)も難なく組み上げ、ステレオが全盛になるとやはり自作のアンプとスピーカーシステムを聞かせていただいた記憶もある。

ここ10年ぐらいはご健康が優れず、正直やや痛々しかったが頭はしっかりしておられた。お目にかかったのは1908年12月7日、関東と関西の仲間が寄っての忘年会が関西受け持ちで湯の花温泉であり、翌日大津魚忠では、ご子息修氏のご配慮で弘氏も同席され、昼食をご一緒したのが最後になった。その折西大寺鉄道に行った記憶―一人でなら到底あんな列車を撮影できなかったと話されたのが忘れられない。こっちこそ、本当に有難うございました。得がたい先輩をまた一人失った。

関山のD51三重連 その2


やってくるのはD51ばかりだが 単行もあり 重連もあり

かなり深い積雪だが、線路には雪はない。その中に次々とD51重連列車がやって来る。俯瞰だと広い視野が得られるが、列車に接近した横構図だとかなり狭まり、35mmや28mmレンズの出番になる。


28mmレンズでも2両写し込めない

崖の上の、少し広いところで撮影していた時、珍しくも地元の人が話しかけてきた。素朴な老人だと見たが、いやはやどうして、欲だけは見事に突っ張っていたようである。というのは、小生が三脚を立て、マミヤC3に180mmレンズを付けてファインダーを覗いているのを見て、この欲深爺さまは、てっきりこの土地を国鉄が電化工事の為に購入するべく、我々は測量と現地検分に来た者だと信じこんだようである。つまりレンズ交換式2眼レフカメラを、測量機器=まだレーザー光線での測量機などない頃だから、望遠鏡式のトランシットだと思い込んだのであろう。


うっかり小生がその爺さまの相手をしたのが運の尽き。この管首相ですら顔負けしそうな、粘り強く、しつこく、けして諦めないジイさまは、それからずっと小生につきまとい、質問を繰り返し、放してくれなかったからである。

彼が聞きたく、粘りに粘ったのは、いろいろ言辞は弄したが、要するにこの土地を地主はいくらで手放したのか―国鉄はいくらで買うのか、に尽きた。適当にあしらっていたのが、そのうち相手のペースにはまりこみ、当方はしどろもどろ。それでも「滑ったの、転んだの」といなしたり、とぼけたり、風向きを変えようと、それなりに努めはした。ところがドッコイ、そんなヤワな戦術で引っ込むジジイではなかった。

そのうち流石に根負けしたのか、先方は作戦を変えてきた。国鉄は、電化が先か、複線化が先か、とまたもや蝮の粘りで小生にまとわりついたのである。これにも適当にあしらったのだが、温度は低かったから、いくらなんでも脂汗をタラーリ、タラーリとまではいかなかったとはいえ、純朴そのものの小生は、心底くたびれ、疲れ果て、酒でも飲まないと生命すら保証できない疲労困憊常態に陥ったのであった。

それなのに何ぞや。ハタで仔細漏らさず聞いていた某後輩は、時に噴出すのをこらえながら、助け舟も出さず、先輩が塗炭の苦しみからの脱出に必死こいでいるというのに、実に嬉しげにこの一件を楽しんでいたのは、下克上は世の常とは申せ、誠に怪しからん、嘆かわしい次第ではあった。


関山駅に進入するD51×3重連列車 左は交換のD50+D51牽引列車


右の録音機を担いだ若者は誰でしょう

関山のD51三重連 その1

ダンナ、新兵、ノッポのトリオは松本電鉄浅間線を撮り、記憶は定かでないが(恐らく)やたら大きな安宿―信州会館に泊まり、信越本線田口-関山間を目指した。ネガカバーには1964年3月3日とあるから、世間をお騒がせ?した「サンパチ豪雪・雪中横断記」の1年後である。ダンナと小生はサラリーマン3年兵、もう一人は現役ドーヤン生。

その道中列車を車窓から撮らんとして、いつの間にか機関車がD51の三重連になっているのに気付いた。アタマ2両か1両は回送であろうが、当時三重連として名高かったのは、D51なら東北本線奥中山、芸備線布原、86なら花輪線竜ヶ森で、少なくとも信越本線関山とは、行った人はあんまり、あるいは殆んどいないんじゃないか。


これはD51重連の旅客列車

天候はいまいち思わしからず 雪は結構深かったが3人ともオーバーシューズを穿って対策は万全

須磨老人も撮っていた

京王帝都電鉄の、半鋼製のくせにダブルルーフのださい電車は、この電車あんまり好きでない老人もなぜか撮っていた。場所は新宿甲州街道併用軌道。扉はプレスドアになっているが、トルペードベンチレーターがしっかり残っている。先頭車の番号は2153である。こうしてみると、ダブルルーフの方が格段に格好いいですな。

松本電鉄浅間線 その3

先回最後の俯瞰写真に関し、急カーブとの関連がよく分らんとのご指摘があり、改めてもう1コマ俯瞰写真を入れておく。またこのカーブ半径を5鎖と記したのは大間違いで、28mmレンズのため大きく、広く見えるはするが、1鎖(20m強)程度であろう。

左下が松本駅。 この地図では浅間線がまだ駅に突っ込んだまま終点になっているが、市街を真っ直ぐ右(東)に向かい、直角に曲がって上(北)へ。このカーブのすぐ下にある「文」マークが教頭先生にお付き添いを頂いた女子高校(もしや彼は我々が女子生徒に何か悪さをしないかと心配したのではあるまいか。杞憂以外の何者でもないのに)。松本駅からカーブして左上に向かうのは上高地線である。

併用軌道は横田までで、以遠は新設軌道になる。横田には車庫があり、2回目の離合が行われ、乗務員も交代。松本に向かう乗客は結構あって、温泉行きだけでない、地域の交通手段であることが分る。


横田の駅と車庫 車両は6両中昼間4両が稼動しづめで2両が予備


乗務員も横田で交代


スタフを扱うのは本来運転手の業務のはずだが

横田以遠は新設軌道になる

横田の次に運動場前で3回目の離合。ここは運動イベントがない限りほぼ乗降はなく、単なる離合所である。


運動場前での離合


終点浅間温泉に着く


のんびりした風情

右の若者は誰でしょう

この線は一段高い温泉旅館街に突き当たっておしまい

プラットホームを歩く一見山行きのような若者は誰でしょう

電車の番号について記しておくと、ホデハ2、4、6、8、10、12の6両で、当初4~8、10だったが、5を2、7を10、10を12に改番し、全部偶数ばかりとしたのである。鉄道線たる上高地線は反対に全部奇数に揃えた。かように奇数、偶数で所属を示すのは、古くは官設鉄道の機関車でで行われ、九州の北筑軌道(→博多電気軌道→九州水力電気と所有者は変わったが、蒸気動力3フィート線は終始北筑線と通称)では、客車が奇数、貨車が偶数だったらしい。

メーカーは改番後で示すと2、4が東洋車両1924年、6、8、10が汽車東京1927年、12が日車1929年製。いずれもガラス風防がある開放デッキだったと思われるが、密閉式に改造。それでもデッキと客室に段差があるのは前に記した通り。

こののどかな浅間線は1964年4月1日廃止されたが、リポート等はなぜか極端に少ない。なおご覧頂いた写真は複数回にわたっており、小生1人/ダンナとワッチ(若かりし日の乙訓老人)と小生/ダンナと新兵(これは誰か当ててください)と小生/という撮影であった。小海線撮影の前後に訪れたケースでは、信州会館なる、やったら滅多ら大きな山男用宿泊施設に宿泊し、夜半にいささか怪ぬ見世物を覗いた記憶もある。入り口で呉れた紙切れには、新宿行夜行列車の時間と、駅までの略図があり、大方の客筋が分るが、「親切を絵に描く」とはまさしくこれだと、痛くその商才に感じ入ったことであった。

浅間温泉では場慣れしたダンナの誘導で、地元民専用の安い回数券をタバコ屋で求めて住民用浴場に。素朴な湯殿では、むき出しの鉄パイプから温泉が掛け流しされ、木札に墨痕淋漓「湯口で頭髪や入歯を洗わないで下さい」。これは小生が記してこそジョークになる。

松本電鉄浅間線 その2


学校前の離合所 電車左の蒲鉾型コンクリート工作物は恐らく戦時中の公共防空壕であろう

紙芝居めいた「次回予告」をしてしまったが、松本を出て最初の離合場所が学校前である。その名に違わずいくつかの高校などがかたまっていたように記憶し、旧制松本高等学校も確かこの一帯だったんじゃないか。


運転台をピッタリ合わせ 通票(スタフ)を交換する

停車位置がズレると 片方の乗務員が下車せねばならない

ここの急カーブを何とか立体的に撮れないものかと思案し、道路に沿った恐ろしく古い木造の校舎に目をつけた。記憶が薄れているが、確か女子高校だったような気がする。職員室に乗り込み、「若干の言語」を弄して報道機関カメラマンであるかの如き印象を教頭に与え(嘘はついていないから念の為。彼が勝手にそう誤解しただけ)、学校内立ち入り=足場確保の承認を得た。それでも教頭はかなりの猜疑心にかられたようで、撮影中ずっと付き添っていた。これも確たる記憶がないが、重澤旦那、吉田、小生の3人=リュックサックに登山靴かキャラバンシューズ、山行きともつかず、カメラマンとも思えない風体はともかく、人品骨柄卑しからぬ気品を感じたことは間違いなかろう。幸い10分毎に離合写真が撮れる。


停留場名が「学校前」だけあってこの周辺は学校だらけ

で、2階と3階から、この急カーブを曲がる電車が目出度く撮影できた。恐らく半径は10鎖=20mか、フランジがこすれるキィーキィーキィーという音が、終日絶えないわけである。上から見下ろすと、台車がグイと振られ、あたかも車体からはみ出しているかの如し。

またまた蛇足だが、欧州の旧市街ではこの程度のカーブは珍しくも何ともないのに、ついぞキィーキィーは聞いたことがない。鹿島雅美氏に伺うと、未明―初発より早く、人力でレールのフランジ接触部分に油を塗っているからに過ぎず、作業員は殆どが北アフリカ系だそうな。そういえば、パリ街中のプチホテルに泊まった際、同行のとんでもない早起き「偉いさん」に未明の散歩を付き合わされたことがある。無人の街路の皿溝に満々と水が流れ、やはり北アフリカ系の作業員が道路のゴミをその流れに掃きこんでいた。

現在この箇所をグーグルで検索・拡大すると、どうやらピッカピカの松本秀峰中等教育学校が、足場を借りた学校の後裔らしい。何でも中高一貫6年制の私立学校で、それもつい昨年ぐらいに開校したとか。バス停の名称は城南高校前て、この時の面影はない。

話を戻して、ここで直角に曲がった線路は無舗装の地道中央を北に向かう。こんな俯瞰は足場がないと撮れない。大きな木造建築はみんな学校である。


無舗装の道幅は約7m=4間道路なのであろう

福井鉄道の旧京浜


福井鉄道南越線モハ103 

乙訓ご老人の投稿があって、待てよ、確か須磨老人も福井で撮ってる筈と、限りなく薄れた記憶を搾り出すと、1958年7月30日南越線でモハ103を、翌年4月3日鯖浦線でモハ101を撮っていた。高松琴平同様、京浜電気鉄道の新車導入に対する代償=「供出」で、当然ながら最も古い車両を手放したのである。詳細は乙訓老人か、藤本哲男氏にお願いしたい。元来この老人がなんでこんな電車を撮っているんだといわれそうだが、話は簡単―木製車だからでありますよ。中央扉が真ん中にないのが福井での特徴みたいですね。


福井鉄道鯖浦線モハ101

井笠鉄道矢掛線1964年6月


乗客7人(含小生)でのんびり走るホジ8

西村雅幸氏の中国新聞連載特集紹介を見て、矢も盾もたまらなくなって47年前のネガを探すことに。井笠鉄道は高校生だった1954年以来、何回行ったか思い出せないぐらいだが、矢掛線に乗ったのは1964年6月11日の1回だけである。既に笠岡-井原の本線ではホジ1~3、101、102が主力になり、かつて矢掛線でも働いたジ14~16(旧神高鉄道=両備鉄道が国有化されて改軌、取り残された神辺-高屋間が神高鉄道になり、1940年1月1日井笠鉄道が買取)は、本来の神辺線に戻っていた。従って矢掛線は本線で出番が激減したホジ7~9のうち、1両が往復していた。


矢掛到着 バスの基地でもある この屋根の骨組が今も残る

矢掛到着のホジ8 右のホハ3はラッシュ時の増結用

折り返し列車はワを1両連結した混合列車に

ラッシュ時はそれなりの乗客がある筈だが、昼日中とあってホジ8単行の車内は閑散そのもの。折り返し北川行はワを1両連結した混合列車になり、北川のひとつ手前の備中小田でちょっとした椿事?が。男女3人が、びっくりするくらい大きなコモ包みの小荷物を荷台に積み込むべく、待ち構えていたのである。こんな小さな駅でも駅員が居り、小荷物の重量を測る秤も鎮座している。


備中小田での珍騒動 貨車に積めばよさそうなものだが 車掌の表情をご推定あれ

そのコモ包みがご覧の代物だから、ちょっとやそっとで積み込めない。おまけに列車を待たせたまま平然と荷札をつけたりしている。当然停車時間が長くなり、北川での本線との連絡に遅れないかと車掌はヤキモキ、イライラ。写真からもその憮然たる表情がありありと読み取れよう。


やっと北川到着 コモ包みの大きさをご確認あれ

まあ3~4分かかって何とか積み込んだが、北川ではそれを下ろすのに手すきの駅員を呼び集める騒ぎに。笠岡行きとの接続も約3分遅れで辛うじて維持され、めでたく井笠鉄道のこの日の平和は回復されたのであった。


手すきの駅員を動員して荷物を半分下ろした時 笠岡行本線列車が到着

左がやはり客車、貨車1両を連結した笠岡行混合列車 左が矢掛線ホジ8

この矢掛線の廃止は神辺線とも1967年4月1日、本線たる笠岡-井原間は4年後の1971年4月1日である。蛇足になるが、井笠鉄道の矢掛-備中小田-井原-高屋-湯野というコースは、国道486号線と並行するが、これはかつての「山陽道」なのである。井笠鉄道廃止前から井原線の建設が続けられ、長い中断があって第三セクター井原鉄道として、この旧山陽道ルートで開業したのが1999年1月11日。

また高屋のすこし西が岡山、広島の県境だから、かつての神高鉄道はたったの7.93kmのくせに、広島・岡山の2県にまたがる鉄道であった。これも蛇足だが、2県にまたがる軽便は、筑後軌道、両備鉄道(神高鉄道)、三井鉱山(神岡軌道→鉄道)、草津軽便鉄道(最終草軽電気鉄道)しかないことは、意外に知られていないのではないか。

松本電鉄浅間線 その1

電車嫌いのヘソ曲がりだの、「新しいものについていけないだけの、単なる頑迷なジジイ」だのと云われているらしい。その幾分かは当っているのが忸怩たる思いだが、この老人とて、頭から電車が嫌いというわけではない。分野によっては好きなものもあるが、極めて限られる。例示すれば花巻軌道線、秋保電鉄、駿豆三島軌道線、静岡鉄道秋葉線、それに今回の松本電鉄浅間線など=のどかで時代離れした電車であることが共通する。花巻、秋保は既にご高覧賜ったので、今回は浅間軌道線を押し付けがましく、しつこく。

筑摩電気鉄道の軌道線として、1922年3月9日特許、軌間1067mm、5.2km。開業時は鉄道線の2軸単車デハ1~3を路面乗降改造して投入したが、2年で布引電気鉄道(小諸-島川原、7.5km)に売り飛ばす。後しばらく鉄道線の2軸車デハ11がはいったこともあるが、最後まで木製ボギー車で終始した。なお布引電気鉄道は経営不振で、ガソリンカーに変更を申請しながら、無手続でレールも撤去し、1936年認可当局が現認したら、橋桁も売り飛ばし、車両は影も形もなかったとある。1936年10月28日免許取消処分された。

本題の筑摩電気鉄道は1932年12月2日松本電気鉄道に改称したが、浅間軌道線は同年起点を約100m延伸して松本駅に近くなった。さらに敗戦後の1949年駅前北側に隣接した停留場を設け、我々が知っている起点の「松本」がこれである。ついでながら、「日本鉄道旅行地図帳6号」(新潮社)では「松本駅前」とするが、「地方鉄道軌道一覧」や「鉄道停車場一覧」、「帝国鉄道年鑑」等はことごとく「松本」だけである。電車の方向幕、サイドの行先札、乗車券も同様だから、「松本」が正しいのであろう。


恐ろしく素朴な「松本」出札口と出入口

その「松本」だが、実に素朴なものだったのは、写真をご覧頂ければ納得されよう。ちゃんと出札所があるが、改札口はなく、集札時の柵だけ。切符は半硬券だが、出札時パンチを入れて発売。車内で車掌から買うとパンチなしだったと記憶する。


本通から急カーブを2回繰り返して松本駅前(画面左)の「松本」へ

一応舗装されてはいるようだがご覧の有様

松本駅前で2回90度曲がって市内の目抜き?通りをゴロゴロと約1.4km行くと最初の離合地点である「学校前」。朝夕20分毎、日中10分毎の頻発だから、撮影するのに退屈することはなかった。運転席にはちゃんとタブレット(もどき)を積んでいるが、閉塞はこれ以上簡単にできないスタフ式だから、単に「通票」を交換するだけで、玉、キャリア共タブレット式と同じものを使っている。


流石に花巻軌道線などとは違って車内は充分広く膝が当ることはない

路面からは踏み段を2段上がって運転台 それからもう1段上がって客室となる 運転席には通票が

こっちは後部 いわゆるH棒はこんな狭い代物だが運転手の「もたれ」にはなる


松本駅前から約1.4kmの「学校前」に最初の離合設備がある このすぐ先に思わずエッという急カーブが待ち構えているが 次回のお楽しみに

布引電気鉄道デハ1~3竣功図 浅間線のデハ1~3を再び鉄道線用に改造している

花巻電鉄軌道(鉛)線 その2


軌道線デハ3の室内 座席奥行はもたれとも304.8mm その間隔は座席の約倍

仕掛け人の米手作市氏から、軌道線デハ5の「側面に竹梯子」とは何ぞやとのご質問が出た。写真が見つからないが、木製車体のデハ5は現役を外れて架線修理車になっており、その際使用する竹梯子を側面窓下に釣って―引っ掛けていたのである。

某氏から、写真はもっとある筈。出し惜しみするなとの警告?メールも。はいはい、出しますとも。ただ例のネオパンSSヴィネガー・シンドロームでネガは散々で見る気もしないが、幸いプリントしてアルバムに貼り付けていたので、ピント精度は当然落ちるが、それからのスキャンでご覧頂くことにする。なお前回軌道線半鋼ボギー車を、木製デハ4、5とほぼ同じと記したが、木製ボギー車は窓が2個×5、半鋼ボギー車は吹き寄せなしの10個等間隔である。


1926年雨宮製24人乗りサハ2 扉が2枚引戸に改造され開口部がやや拡げられている

サハ3 車体はサハ2とほぼ同じだが妻面が電動車と同じでボギー化改造されている

両側に民家がつらなり拡幅不能の西公園石神間 道路幅は2間半=15尺=4.55mだろう

先回は終点近くの狭い箇所をご覧いただいたが、今回は起点に近い狭隘箇所を。写真で見るとそれほどとも思えないかもしれないが、軌間が762mmだから、それを物差しとすれば、恐らくこれは当時としても「広くない」基準である「2間半」と思われる。なお機械関連では早くからフィート・インチ法を使ったが、土木関係では長らく尺・間・町・里が幅を利かし、川幅や橋梁長にも間(=6尺)が使われた。フィート・インチとの混同も多く、2フィート6インチを「2尺5寸」とする公文書などに事欠かない。

この区間は先回の鉛-西鉛間よりはマシだが それでも「なるべく」軌道内に車馬が入ってほしくない気持ちがありあり。それでもバスやトラックには、この道しかない。電車が来れば離合は「かなり」難しい。


離合設備があり駅員もいる石神 乗降用に木箱がおいてある 右は岡持を下げた出前のおばさん

デハ4とデハ1 狭幅車+広幅サハ同士の離合 やってくるデハ1(右)牽引の半鋼サハから「前の景色が見える」のが納得されよう

本来「路面と同一」であるべきレール面はこんな状態(まだいい方)

路面は不陸(ふりく=土木用語で平らならざる状態)続きで、雨上がりだから水溜りだらけ。車が通る度にその泥水を浴びる周囲の家も泥だらけ。この箇所はそれでも若干拡幅されており、何とか電車とバスと離合できるが、バス同士だと片方は軌道内に踏み入らざるを得ない。だから線路班が土を均しているのだが、さしたる効果があるとも思えない。

花巻電鉄軌道(鉛)線


鉛温泉に到着する上り鉄道線用広幅車 道路もここだけ若干広くバスとすれ違えるが 右のミゼットから奥は離合不能である 1960年3月18日

乙訓老人からチョッカイが出た。通常なら須磨から乙訓へ、やれコメントせよ、ソレ何か言えと迫るのに今回は逆だが、事花巻の、それも軌道(鉛)線とあらば、須磨老人が黙っているわけに参らない。早速挑発に乗り、シコシコとキーボードを叩き始めることに。

開業時の電車デハ1 窓数とモニター窓数は通常一致するものだがこれは後者が1個多い

花巻電気として開業以来、盛岡電気工業、花巻温泉電気鉄道、花巻電気鉄道、花巻温泉電鉄、最終が花巻電鉄(1953年6月1日)と社名を変えた。鉄道線は1925年8月1日盛岡電気工業として開業し、軌道線は1921年12月25日同社に合併されたのである。

軌道線は1913年8月3日特許、1915年9月16日西公園-松原間8.2kmを開業した。車両は24人乗り、オープンデッキのデハ1が1両のみ、他に無蓋貨車2両。メーカーは大日本軌道鉄工部(→雨宮製作所)で、恐らく雨宮としては電車の処女作であろう。15馬力×2、営業時間が「自日出、至日没」とあってもたったの4往復で、西公園発7時30分、10時、13時、15時30分、所要41分。松原発は8時41分、11時30分、14時19分、16時36分。こんな列車数でよく電化したと思われるだろうが、元来電気会社だからで、蒸気機関車なら走行用より待機中の保火用石炭の方が沢山要るだろう。電燈用の間隔の広い電柱をで架線を保持したため、盛大にたるみ、最後までポールで過ごし、電車走行を真横から眺めると、ポールの部分だけ架線が持ち上がっていた。

何分共道路が狭く、恐らく15尺=2間半(4.55m)程度しかなかったので、車体幅が5フィート2インチ(1,575mm)と狭いものだった。2両目のデハ2は1918年製、デハ3は1923年製であった。


1926年製サハ2、3 この時点では扉が1枚引戸で開口部が狭い
1926年製デハ4 1928年製のデハ5も同形 後者は竹梯子をサイドに装着して最後まで残存
半鋼製デハ1(軌道線) 西鉛温泉 奥に無蓋車が1両いるが無人停留場である
恐ろしい急カーブにさしかかる鉄道線デハ4 車体幅は2,134mm(7フィート)あり、車体前後も絞ってない 山ノ神-鉛温泉間
この母子は電車が近づいてきて店内に逃避した このあたりは少なくとも道路の広い側の枕木は露出していないが 幅は2間半あるんだろうか 軌間と比較してご推定あれ

この電気軌道は1918年1月1日花巻(後中央花巻)に若干伸び、岩手軽便鉄道と接続。1920年4月志度平-湯口を延長開業。1922年5月1日馬車軌道だった温泉軌道(大沢温泉-鉛温泉)を合併し、その後電化。最終1923年5月4日湯口-大沢温泉に達し、18kmが全通した。

ボギー電車は木製のデハ4が1926年、デハ5が1928年に登場。車体前後を絞り、最大幅は1インチ拡がった5フィート3インチ(1,600mm)である。車輪は一人前の34インチだから、床高は空車で38インチ(965.2mm)。モーターは30馬力×2、定員40人(内座席22人)。


車内幅は間柱内面間で4フィート5インチ1/2(1,359mm)で 座席が左右各背もたれ共1フィートだから 座席間は749mmしかない しかもその後定員を50(内座席28)人に増加させた

恥ずかしながら26年前の拙著『私鉄私鉄紀行 奥の細道(上)』(レイル14号)から引用する。
「(前略)奥行きの恐ろしく浅いロングシートが両側にあり、しかもその上吊革もちゃんと2列に並んでいる。普段はさすがに千鳥にしか人は座れない。すなわち座席定員の半分しか座れない。その間をぬって車掌が乗車券を売りに来る。混んでくるとまさに膝が突き合いへしあいで、結構吊革にも人がぶら下がり、それでいてやっぱり車掌がやってくるのは神技である。ここの車掌はふとった人では絶対に勤まらない。」

1931年6月15日記号番号変更届で2軸車のデハ1をサハ1に、デハ2をデハ1に繰り上げ、サハ1に旧デハ1の台車モーター等を装着しデハ2とした。ところが8月16日に車庫火災があり、デハ1、3、4、サハ1を焼失。電気機関車も焼損したが、翌年復旧している。

1931年新製のボギー車デハ1、3、4は、ほぼ木製デハ4(焼失)、5をそのまま半鋼にしたもので、やはり両端は絞ってあり、その狭い妻面は「義理堅く」3枚窓なのも同じ。これが本稿主題(であるべき)「馬面」電車である。


西鉛温泉を出た「馬面」デハ1+ワ 流石に道路横断部分は併用の法定仕様に「やや」近い

ここになると路面と「軌道施工基盤」が同一=道路の約半分を事実上軌道が排他的に独占し バスやトラックとは離合不能

上の写真は道路が旧態依然―道路幅2間か2間半しかなく、しかも軌道がその約半分を独占使用しているのが分るだろう。本来併用軌道とは、道路を軌道と車馬とが仲良く使えという主旨なのだが。実はこれにも古い歴史?がある。1918年認可当局職員の現地視察復命書を引用する。
「(前略)道路ノ不良ナルニ加ヘ軌道ノ敷設亦頗ル乱暴ニシテ『軌条間ノ全部及其ノ左右各一尺五寸通ハ木石砂利其ノ他適当ノ材料ヲ敷キ鉄軌面ト路面ト高低ナカラシムヘシ』トノ命令書ノ条項ハ熊野停留場附近約半哩間ヲ除キテハ殆ント遵守セラレタル所ナク(尤モ路面ソノモノニ甚シキ高低アリ)枕木面ト路面ト同高ナルヲ常態トシ甚シキニ至リテハ施工基面ト同高ナル場所少ナカラス(殊ニ二ッ堰志度平間ニ於テ甚シ)。」

会社側にも言い分があって、当初は法定通り施工した(という)が、道路の余りの不良ぶりに車馬は少しでも状態の良い軌道上を走行。「電車ヲ避クル際軌道ヲ斜行シテ甚シク軌道ヲ損ゼシメルヲ以テ会社ハ自衛上殊更ニ軌道間ノ土砂ヲ除去」した由。すなわち場所によっては軌道を全く掘り起こして車馬の乗り入れを物理的に排除したわけで、狭い道路の約半分を事実上、排他的に独占使用していたのである。しかも道路管理者からも別段苦情や注意はなかったと見え、実に1969年9月1日の軌道線廃止まで続いた。こんなケースは全国的にもそうザラにあるものではない。

もう一点、この狭い併用軌道に、なぜ前後車体絞りもない、車体幅7フィートの鉄道線電車が平然と走っているのか。実は狭い軌道線電車ですら、カーブでは狭い側の法定残余(3フィート)に5インチ不足していたというのに。

1926年会社は全通により浴客激増輻輳を申し立て、夏季のみ軌道線に鉄道線電車の使用を、いわば「緊急避難」的に申請。「軌道線ノ道路使用幅員ハ之レカ為左右僅カニ9寸ツツ増大」「該軌道布設ノ為メ荷馬車ノ往来ノ如キモ極メテ僅少ニシテ自動車ノ如キハ殆ント往復ナク交通上支障」ないと強弁。10月31日までとの限定ながら、西花巻-西鉛温泉間への広幅車両の乗り入れを勝ち取ったのである。

ところが翌年もシャアシャアと同じ申請をし、当局は「其ノ後道路拡築ノ手続モ採ラス同様ノ申請ヲ為シタルハ穏当ナラス」と、これはマトモな対応だったのだが、どうしたことか1928年10月5日すんなり?認可。恐らく会社は認可の有無などお構いなく運行を続けていたのであろう。しかもこれは爾後完全に既得権となり、我々の時代でも平然と行われ、廃止まで続いたのであった。


鉄道線用広幅付随車に乗っていても、前頭の電車が狭幅なら前の景色が見えるという証拠写真 志度平温泉 こんな駅でも駅員が数名いた 

28年前のエドモントン その2

連日日中(緯度が高いから3時から夜10時ごろまで明るい)は調査に走り回り、夜は夜で延々と喧嘩腰の議論(皆過労と睡眠不足で気が立っている)が重なって雰囲気ギスギス・チームワーク良好ならず。これではいかん、休息も必要と、2交代で32時間ずつの息抜きを提案し、満場一致で可決。半数ずつ、日をずらし正午以降エドモントンを出発し、翌日20時までに帰って来て会議に参加せよ、という次第。

第1班5人は2台のレンタカーに分乗し、国道2号線を一路南へカルガリー目指す。特段に広い片側3車線のモーターウェイだが、中央の分離帯?の幅が100mぐらいあり、のんびり牛が草を食んでいる。カルガリーまで約250km、3時間程だが、一直線に半時間以上走っても、景色は殆ど変わらない。


速度は遅い貨物列車 機関車は総括制御で車掌も前頭機関車に乗っている

並行してカナダ国鉄の線路があるのに、タダでもらった50万1道路地図には記載がない。これは後年ヨーロッパでも同じ体験をした。幸いデイゼル機関車3重連の貨物列車とすれ違ったが、話には聞いていた列車の速度は遅い。貨車はタンカーばかりで、そう長くもなかったが、この時点ではまだコンテナーはまだ普及していなかった。現在なら長いコンテナー列車が走っていることだろう。

このときはかなり遅くバンフーに到着し、バンフー・スプリングスホテルに投宿。超有名だが、全木造の、ドラキュラかお化けが出ても不思議のない古い古い、ミシミシする大きな建物で、カナディアン・ロッキー観光客誘致のため、鉄道会社が開設したものである。扉も蹴破れそうな代物で、宿泊料だけが実に立派であった。

因みに予約は応援に来ていたシアトル駐在員が電話でしてくれたが、その際身分保障にクレジットカードの番号を要求され、唯一所持していた駐在員(彼は泊まらないが)の番号を申告してOK。この当時すでに米国圏では個人小切手からカードの時代になっていたわけで、日本は約20年遅れている。

バンフーの町で遅い夕食をとったが、同行者1名の「たっての希望」で日本人経営レストランへ。ところがメニュー記載価格が日本語と英語とでかなりの格差があるではないか。日本人は値段に頓着なく、涙を流して日本食を食うからだというが、経営者の根性が心底情けない。

時間を惜しみ、高い宿泊料は勿体無いが早朝から出立し、睡眠不足のままカナディアン・ロッキーの早駆けツアーに。ジャスパーを経て、何とか全走行350km以上、刻限までにエドモントンの安ホテルに戻った。生れて初めて氷河も実体験したが、現実はそう綺麗な「富士の白雪」でもなく、案外汚れているものと得心した。これははるか後年見た北欧でも同じだった。


巨大な職用車(だろう) こんなサイドキューポラーで何ほどの視野が確保できるのか

エドモントン駅構内


これも巨大で重い手荷物車 魚腹台枠で恐らく床にはコンクリートが敷いてあるはず

そのほか寸暇を盗んで、本来用事のないエドモントン駅も秘かにひと覗き。巨大な客車が僅かにいた。3軸台車が放り出してあり、ギヤボックスがついている。気動車の駆動軸(古い3軸ボギー客車にエンジンを搭載した例がある)にしてはやたら脆弱だと思ったが、これは車軸発電機だった。サンパチ豪雪の際、ベルト駆動の車軸発電機が凍結して充電できず、バッテリーが消耗して電気が消えた経験があるが、やはり豪雪地帯では、それなりの設備がなされていることを痛感する。


手前に伸びる軸は車軸発電機用

話は前後する(要は小生の興味の順である)が、エドモントン市ではEdomonton Transit と称する、2車体3台車の高床式トラムが一部開通したばかりで、メイン競技場へのアクセスであり、バス同様関係者はIDカードがあれば無料で乗れる。北国だから冷房はなく窓は嵌め殺し、上部のみ内側に少し開く。これを3編成つないで運行していたが、大会が終われば恐らく2両か4両になるのだろう。




28年前のエドモントン



Baldwin1919年製107号  1C1 元Oakdale & Gulf R.R.

先般クアラルンプール(マレーシア)の、それも37年も前の写真を並べ立て、多分に諸兄の顰蹙を買ったばかりだが、それに懲りずめげず、今度は28年前のエドモントンでの写真を無理やりご覧頂く。エドモントンと聞いてすぐ位置が分る人は少なかろう。カナダには10の州と3の準州があり、総人口は3,300万人程度。

ところがアルバータ州には108万人のカルガリー、104万人のエドモントンの2大都市がある。前者はカナディアン・ロッキー観光=バンフーへの入り口やスキー等で世界的に著名だが、州都はその約300km北のエドモントンで、日本領事館もある。後年ウエスト・エドモントンなる、世界最大のショッピング・モールが出現したが、観光地とはいえない。ただしカナダ北限の大都市ではある。

時は1983年6月、カナダでは最高の季節(のはず)だったが、少し寒い日もあり、若者が上半身裸で走り回ったり、日光浴の一方、結構ぶ厚い防寒衣の老人や、中には毛皮を着た婆さまもいた。広大な町を斜めにノース・サスカチワン河が蛇行しながら横切り、その部分は深い峡谷状を呈し、両岸は超高級住宅地で、日本領事公邸もそこにあった。

小生ともう1人が先遣隊で半月早く現地入りし、ホテルや車、日本人居住者のボランティア通訳を確保。後から来る本隊=2年後神戸で開催するユニバーシアード神戸大会のための、エドモントン大会調査団(事務局及び各競技団体役員)の受け入れと運営に当った。

その間ほぼ睡眠も3~5時間程度。若かったから何とか保ったが、安ホテルに1か月滞在しながら、町の見物をする暇すらなかった。それでも3時間ほど寸暇を盗み、当時開園間もないフォート・エドモントン・パークにだけは行くことができた。

ノース・サスカチワン河に面した広大な地に、1846、1885、1905、1920年の開拓砦や町並みを復元した、素朴で健全、結構見ごたえのあるテーマ・パークで、エンドレスの線路を敷き、本物の蒸気機関車や馬車が園内の交通を担っている。確か当時は週末だけだったかと記憶するが、現在は夏場が毎日、冬場は週末のみ開園のはず。売店の売り子に至るまで、ことごとくボランティアだと聞いたが、皆それなりの時代にふさわしい衣装であったのも印象深い。


入園するとすぐ蒸機列車に乗り園内に向かう 乗車は入園料に含まれる

キャブ略号はEdomonton Yukon & Pacific 蒸機に限らずすべてボランティアによる運営


右の代用客車は無蓋車の改造らしい


手前の建物代わりのカブースは旧カナダ国鉄

コンビネーションコーチは1913年 デイコーチは1914年製

園内交通の駅馬車や荷馬車も無料で乗れる

公園全体がまだまだ建設途上だったが、驚いたことにトラムラインが敷設中で、架線も一部張られていた。その後Edomonton Radial Ry. の路面電車が数両復元されて走行していると聞く。現在では公園外でも、ノース・サスカチワン河にかかる高い鉄橋を含めた線路に世界中から大量のトラムが集められて動態保存。阪堺電車も健在のはずで、このあたりは電車屋さんの解説が欲しい。

37年前のマレーシア鉄道


ムーア風のクアラルンプール中央駅


改札口と言いたいがフリーパス 左のトルコ帽は駅員らしい

RG50氏のマレーシア便り。余命を勘定しだした老人も、最初の海外体験でマレーシアに出張したことがある。指折り数えると、37年前だった。老人がまだ30代後半の元気な時である。仕事はクアラルンプールで開催される見本市へのアテンドと、その2年後事務局の当番が回ってくるので、その会場の選択―具体的には開催地をクアラルンプールにするか、シンガポールにするかの見極めであった。

約1か月の出張だったが、その内往路に台北、バンコック、途中にシンガポール、帰路に香港と、各2泊づつしたので、クアラルンプールには25泊ぐらいした。それも2週間の入国許可しか得られなかったので、途中一旦シンガポールに出国し、マレーシアに再入国(そんなこともあろうかと、ダブルビザを取得していた)。その間ブキット・ビンタン通りのフェデラルホテルに連泊した。

本来の見本市は夕刻から夜遅くまで開催だから、昼間はかなり余裕があるのだが、京阪神と堺の4市グループでの参加(総合事務局はジェトロ)なので、そう勝手な行動もできない。それでもクアラルンプール駅には行った。ムーア風の建物が特色だが、列車は少なく、蒸機は勿論全廃。日本製のステンレス車体気動車が幅を利かしていた。


待合室には蒸機煙突利用の灰皿が

待合室に妙な灰皿が何本もあり、これが蒸機の煙突を再利用したものだった。

シンガポールからマレーシア、タイにつながる鉄道(ミャンマーもだが)はメーターゲージで、連結器はドロップフック式だが、ディーゼルカーは自連である。


ステンレス車体のディーゼルカー




これは客車である インド(行ったことはないが)と同様幕板が広いのは熱さ対策



貨物列車の本数は少ない バックはかつて錫を露天掘りしていた跡

保存蒸機 連結器は英国植民地に多いドロップフック式

それから何十年か。我が家の実力者(ヨメ様)と、キャメロンハイランドからの帰路、クアラルンプールに立ち寄ったことがある。話には聞いていており、シンガポールも然りだが、この都市の発展は凄いもので、超高層ビルやらタワーやら。新交通顔負けの高架トラムやら。老人が過ごした1974年との落差は凄い。ビンタン通りにフェデラルホテルを探したら、高層ホテルの谷間にあるにはあった。かつて屋上に回転レストランがあった―その付近でズバ抜けて高い建物だったのだが。

かつてのクアラルンプール中央駅は放棄され、廃墟と化して、近くに新駅が出来ていた。中心街の広大な芝生広場はそのままだったが、地下がやはり広大な駐車場とレストランが。世の中は三日見ぬ間の桜かな。上海(も行ったことがないが)はもっとすごいんだろうな。

米手作市氏の誘いに乗る

毎朝この掲示板を開けるのが日課だが、またもや米手作市氏からチョッカイが出たではないか。で、すぐさま乗せられ、いそいそとスキャンする羽目に。

この真四角鉄箱電車に関しては老人の出る幕はない。台車だけである。これは雨宮製作所1926年製で、元来下野電気鉄道デハ103が装着していたものである。独特の板台枠をアングル材で補強、軸バネはウイング。写真は株式会社雨宮製作所の『機関車・車輌案内』(カタログ)掲載で、側面がノッペラボーだが、現実には丸穴が5個開いている。軌間762mm用で、花巻と下野電気の50人乗りボギー電車=花巻は電動機30馬力×2、ギヤ比4.93だが、下野は25馬力×2、6.67。


雨宮カタログの台車 762mm軌間ながら車輪径は1067mm並みの864mm ホイルベースは1,498.6mm 現実には側板に丸穴が5個穿ってある 左上は雨宮製作所の社紋

ところで下野電気鉄道デハ103は、出力とギヤ比以外、盛岡電気工業→花巻温泉電気鉄道(鉄道線)デハ1~4と同じ図面で製造された。下野の写真が得られないので、花巻デハ2で代用しておく。


花巻電鉄デハ2 1960年3月18日湯口撮影 花巻 本来鉄道線用の車両だが オッソロしい急カーブがある狭い併用軌道の軌道線対応のため連結器が独特である 下野電気鉄道デハ103も外見は同一

下野電気鉄道は1929年1067mmに改軌(1943年6月30日東武鉄道に合併)されたから、この電車はたったの3年余しか走行しなかった。その後東武浅草工場で保管され、1939年台車だけ日本鉄道自動車が引き取って1067mm用に改造し、銚子電気鉄道デハボ101に装着して再起した次第である。なお台車は現在東武博物館と上毛電気鉄道で保管されている由。

奈良電クハボ601など

先日のDRFC総会時、小生投稿#12892(2011.4.7)の奈良電気鉄道クハボ601撮影日(1952年12月14日)は確かか、とのお尋ねを受けた。改造前の姿なので、番号ごとの改造時期を知るためだそうである。ネガは古いのが幸いし、フジでもビネガー・シンドローム発生のかなり前の製品だから、事なきを得ている。この日は山科-草津線-関西線-奈良線という、学割での一周で、撮影日に間違いないと確言しておく。

で、事のついでに当日のネガをスキャンする気になり、またまた諸兄のご高覧を強要する羽目に。各コマ全て、すさまじい傷やらスクラッチだが、これは当時写真屋で売っていた、35mm極安パトローネ入りフイルムだからである。太秦の映画会社のカメラマンが、撮影中中途半端に残ったフイルム(残尺という)をくすね、ボスカメラマンの管理下新米の助手が写真屋に売りに行き、酒盛りの原資とする。写真屋では、何度使いまわしたかも知れぬ古パトローネに詰め、小生のような、カネのない手合いが買って、ヒトコマずつ大事に撮影する、という連鎖である。

かなりはデジタル修正したが、遂に根が尽きた。一部は修正が至らないままの見苦しい写真だが、58年以上前の、まだ敗戦後の混乱を若干は引き摺っていた時代として、ご寛容ありたい。なお当時純正の富士35mmパトローネ入り(日中装填と称した)は340円で、FPとSPとの2種類があり、感度は32と64。コダックXXだと500円以上した。10円で国鉄が8kmまで乗れた時代―現在なら8kmは190円である。この非純正フイルムは150円だったかと記憶するが、高校生には大変な出費である。現像代はブローニーが30円、35mmが50円で、自分で現像しだしたのも、少しでも安く上げるためであった。


草津線列車C51100 何やら25%方「お召し」仕様の様な そうでないような

フイルム自体は当然未使用だが、それを詰めたパトローネのテレンプが何回もの使用で劣化し、遮光にやっと耐えていたのと、詰めたのも写真屋の新米丁稚である。なお映画用のフイルムはパーフォレーションの形状が、我々が使うスチル写真用と若干違うことは遥か後年に知った。


関西線でのスロハ

伊賀上野での近鉄伊賀線 旧信貴山急行電鉄の電動車+吉野鉄道の制御車

オハ70 奈良

入換中の6847 型式6760

この日の撮影は草津線のC51100に始まり、伊賀上野で近鉄伊賀線の旧信貴山急行の電車、奈良では型式6760や、狭い窓ガラスがさらに左右に二分され、敗戦後の雰囲気をたっぷり残しているオハ70を。また近鉄奈良線と関西線との立体交差地点で、先般ご覧頂いた奈良電クハボ601やら、近鉄奈良線電車を。保線用無蓋電車の左に学生帽をかぶった高校生が写っているが、彼が一緒に東京まで行ったのに、上野駅で意気阻喪して帰ってしまった、上京中学時代の親友H君で、彼は鴨沂高校、小生は朱雀高校であった。佐竹先輩と小生に久しぶりに会うため、一度サカタニでの写真展打ち上げに顔を出してくれたことがある。


保線用の無蓋電動車951 保線に当るのもすべて正社員ばかり

近鉄奈良線631

これも懐かしい奈良電気鉄道1001

片町線のキハ41500形式

すべての写真の天部が詰まっており、パンタが切れたりしているのは、先回記したように、なまじファインダーにパララックス矯正装置があり、接写でそれを使った後、100%戻し忘れるためである。

和歌山鉄道クハ803など


片上鉄道キハニ120 1937年10月14日和気 牧野俊介撮影

片上鉄道キハニ120組立図 

米手作市氏、畏れ多くも乙訓ご老人までが露払いして下さったからには、黙っているわけに参らず、須磨老人から一言を。この流線形クハ803は加藤車輛製作所1936年8月製、片上鉄道キハニ120が前身である。加藤製としては1か月後の能登鉄道キホハニ2と共に、個性の強い流線形で、運転席窓の庇が特徴だが、車体実幅が2,200mmと狭いのに幕板が広く、屋根も深く、鈍重―スマートとは申しかねる。扉下、荷台にも踏み板を盛大に張り出し、最大幅は2,640mm。50人乗り、機関は戦前私鉄中型車標準のウォーケシャ6SRL、エアブレーキを装着し、手動ワイパーがある。塗装も木部がニス塗り。

1942年に代燃ガス炉設置、1946年には多度津工場で機関を下ろし、台枠を補強して客車化、1948年3月12日手荷物室を撤去しフハ120に。1955年2月ナニワ工機で制御装置を付し和歌山鉄道クハ803に。


これは乙訓ご老人ご撮影のクハ803

和歌山電軌クハ801 ←国鉄キハ5020←芸備鉄道キハ3 日車1929年12月製 本来両ボギー2個機関で製造 一旦口之津鉄道に納品されたがキャンセルされ 日車に出戻って1個機関片ボギーに改造し 新車と称して芸備に納品された代物

和歌山電軌クハ802 ←片上鉄道キハニ102 日車1931年製

なお和歌山鉄道は乙訓のご老人お書きの通り、1941年12月東和歌山-伊太祈曾間を600V電化、1年後大池、さらに1年後貴志と2年かかって全線の電化を果たした。当初はオリジナルのガソリンカーを電車にしたが、淡路鉄道方式ではなく、マトモな電車用の台車(南海のお古)と交換している。半鋼ボギー車ばかりでなく、木製鋼板張り(俗に謂う「偽スチール」あるいは「鉄面皮」)の丸山車輛製2軸車キ101~103のうち、キ103を加藤車輛製作所でボギー化、片側扉を広げたモハニ103なんて代物もあった。芸備鉄道買収の片ボギー車キハ5020にポールとコントローラーを付したクハ801もでっち上げ、これはかなりあとまで健在だった。


和歌山電軌モハ201 ←和歌山鉄道オリジナルのキハニ201 小島栄次郎工業所製とされるのは メーカーたる松井車両製作所が当時手形不渡りを出して銀行取引停止中だったため 

敗戦後は江若鉄道が、国鉄キハ41000形式を獲得した代償供出によるキニ1、2(川車)をモハ205、206にし、片上キハニ102をクハ802に、など。これらの旧ガソリンカーの一群は乙訓ご老人が以前この欄に写真を出して御座る。他には旧京浜やら阪急やら阪神やら南海やらのボロ電車をかき集め(いずれも供出だから状態は推して知るべし)るなどしたが、そっちは須磨老人の受持外である。

ともかく東の雄上田丸子電鉄には及ばないまでも、百鬼夜行の旧ガソリンカー天国=西の雄だったのは確かである。小生の撮影は和歌山電気軌道となってからの1959年7月16日で、紀勢本線全通初日を撮影、御坊臨港鉄道、有田鉄道、野上電鉄を撮っての帰路で、和歌山電軌軌道線の2軸単車は終点でまだポール回しをやっていた。

その前日、自宅から山科駅までの間に大雨に遭遇し、傘がなく川にはまった状態で猿股までぬれたまま亀山でステホ、幸い風邪も引かず翌朝は体温で衣服は乾いていた。しかし靴はチャップリンが「黄金狂時代」で、ナプキンをして大真面目な顔で食べ、腹を抱えさせられた靴同様、水を含んでブカブカ・チャプチャプ、軟らかくなり何やら白い粉を吹いていた。確か新宮だったかの機関区構内の靴屋で応急処置をしてもらった記憶がある。

なおモハ205のみは1952年12月28日で、得体の知れない映画用(当然安いが感度も判らない)35mmフィルムだったので、傷だらけである。


モハ205 ←江若鉄道キニ1 川崎車両1931年製 撮影時点和歌山電軌に合併され1か月が経過しているが 社紋は和歌山鉄道のまま 

和歌山電軌モハ601 車体は旧阪急

モハ601+クハ802

和歌山鉄道モハ300車体 南海軌道線57を高床化したもの

奈良電クハボ601


高校1年生の時、クハボ601を撮っていたことを思い出しました。近鉄奈良線は元来が600V軌道で、奈良の街中へは、ゴロゴロと道路中央の併用軌道で進入していました。国鉄奈良線を立体交差する跨線橋手前での撮影(1952年12月14日)で、画面天部がやたらと息苦しいのは、なまじファインダーに手動パララックス矯正装置があり、台車などを至近距離で撮影した後、ほぼ100%それを戻し忘れることによるものです。

飯山線1962.3.4その2

先回が2月6日だったから、3週間近く開が抜けてしまった。その間山陽200、300型なんぞの夾雑物?(失礼)があって、ピントも外れてしまったが、思い出して「その2」を続ける。

十日町を過ぎると、やがて越後鹿渡、越後外丸、越後国を越え信濃国に入ったところが森宮野原と、いずれも豪雪地帯が続く。我々は8時51分越後鹿渡で214レから下車。下り列車は10時08分だから、時間はたっぷりある。ともかくモーニングコーヒーと朝飯の支度を。腹が減っては戦は出来ぬ。




291レを待っている間に野うさぎが1匹我々の視野を横切っていった


4人ほどが雪壁に段をつけていたのは どうやら人道確保=線路を歩かれないように らしい

292レで越後外丸に移動

太陽が出て雪がまばゆく 露出にとまどう

飯山線はいわずもがなだが、戦時中の1944年6月1日飯山鉄道の買収で、線路規格は低くC56が活躍している。何分ともこんな山中を延々と走りぬけ、日本有数の豪雪地帯だから、採算がいいはずはなく、戦前は地方鉄道補助の大口常連=毎年度20~30万円程度を受領していた。

機関車は日車製27tCタンク機1~3、日立製42t1C1の11~15で、後者は国有化で形式2950、2950~2954に。ガソリンカーはボギー車7両全部が上田丸子鉄道で付随車で再起したのは先に記した。他に2軸車が1両(←南総鉄道キハ103)いたが、買収されず、日立航空機立川工場で工員輸送に当たり、敗戦後も残存していた由だが、見損ねたのが残念である。

客車はボギー車は木製と半鋼車で、前者は国鉄制式車より窓が一つ少ない=便所はあるのに、通常便所になるデッキ寄りの独立した1個の窓がないのである。なぜか国鉄に編入されず、高知鉄道や三井鉱山に再起したが、高知には遂に行かず仕舞い、三井は半鋼車体に改造後しか見ていないのが何とも残念至極、口惜しい。

半鋼ボギー客車はは独特のスタイルで冴えたデザインではないが、国鉄半鋼雑形に編入。2軸木製車もオリジナルは屋根のやや深い個性のあるもので、これは松尾鉱山鉄道で見ることができた。