ダンナ、新兵、ノッポのトリオは松本電鉄浅間線を撮り、記憶は定かでないが(恐らく)やたら大きな安宿―信州会館に泊まり、信越本線田口-関山間を目指した。ネガカバーには1964年3月3日とあるから、世間をお騒がせ?した「サンパチ豪雪・雪中横断記」の1年後である。ダンナと小生はサラリーマン3年兵、もう一人は現役ドーヤン生。
その道中列車を車窓から撮らんとして、いつの間にか機関車がD51の三重連になっているのに気付いた。アタマ2両か1両は回送であろうが、当時三重連として名高かったのは、D51なら東北本線奥中山、芸備線布原、86なら花輪線竜ヶ森で、少なくとも信越本線関山とは、行った人はあんまり、あるいは殆んどいないんじゃないか。
思い出した、誘われたけど2月末から2ケ月は超多忙であり、動けないので同行できなかった。当時、大阪営業所で富山工場の納品計画を立てていたから日曜日も出勤していた。関山の後、大糸南線の非電化区間にC56推進のラッセルを撮りに行ったのと違うかい?めでたくずぶぬれになったのではないか。老人も北陸本線大滝踏切でロータリーの雪を被ったことがある。現地人に大笑いされた。ロータリの場合、進路に障害物あれば簡単に投雪方向が変えられる。それを知らずして、踏切そばのお宮さんの対角線上でカメラを構えていた。被って当たり前となり、酒のサカナとなった次第。