連日日中(緯度が高いから3時から夜10時ごろまで明るい)は調査に走り回り、夜は夜で延々と喧嘩腰の議論(皆過労と睡眠不足で気が立っている)が重なって雰囲気ギスギス・チームワーク良好ならず。これではいかん、休息も必要と、2交代で32時間ずつの息抜きを提案し、満場一致で可決。半数ずつ、日をずらし正午以降エドモントンを出発し、翌日20時までに帰って来て会議に参加せよ、という次第。
第1班5人は2台のレンタカーに分乗し、国道2号線を一路南へカルガリー目指す。特段に広い片側3車線のモーターウェイだが、中央の分離帯?の幅が100mぐらいあり、のんびり牛が草を食んでいる。カルガリーまで約250km、3時間程だが、一直線に半時間以上走っても、景色は殆ど変わらない。
速度は遅い貨物列車 機関車は総括制御で車掌も前頭機関車に乗っている
並行してカナダ国鉄の線路があるのに、タダでもらった50万1道路地図には記載がない。これは後年ヨーロッパでも同じ体験をした。幸いデイゼル機関車3重連の貨物列車とすれ違ったが、話には聞いていた列車の速度は遅い。貨車はタンカーばかりで、そう長くもなかったが、この時点ではまだコンテナーはまだ普及していなかった。現在なら長いコンテナー列車が走っていることだろう。
このときはかなり遅くバンフーに到着し、バンフー・スプリングスホテルに投宿。超有名だが、全木造の、ドラキュラかお化けが出ても不思議のない古い古い、ミシミシする大きな建物で、カナディアン・ロッキー観光客誘致のため、鉄道会社が開設したものである。扉も蹴破れそうな代物で、宿泊料だけが実に立派であった。
因みに予約は応援に来ていたシアトル駐在員が電話でしてくれたが、その際身分保障にクレジットカードの番号を要求され、唯一所持していた駐在員(彼は泊まらないが)の番号を申告してOK。この当時すでに米国圏では個人小切手からカードの時代になっていたわけで、日本は約20年遅れている。
バンフーの町で遅い夕食をとったが、同行者1名の「たっての希望」で日本人経営レストランへ。ところがメニュー記載価格が日本語と英語とでかなりの格差があるではないか。日本人は値段に頓着なく、涙を流して日本食を食うからだというが、経営者の根性が心底情けない。
時間を惜しみ、高い宿泊料は勿体無いが早朝から出立し、睡眠不足のままカナディアン・ロッキーの早駆けツアーに。ジャスパーを経て、何とか全走行350km以上、刻限までにエドモントンの安ホテルに戻った。生れて初めて氷河も実体験したが、現実はそう綺麗な「富士の白雪」でもなく、案外汚れているものと得心した。これははるか後年見た北欧でも同じだった。
巨大な職用車(だろう) こんなサイドキューポラーで何ほどの視野が確保できるのか
エドモントン駅構内
これも巨大で重い手荷物車 魚腹台枠で恐らく床にはコンクリートが敷いてあるはず
そのほか寸暇を盗んで、本来用事のないエドモントン駅も秘かにひと覗き。巨大な客車が僅かにいた。3軸台車が放り出してあり、ギヤボックスがついている。気動車の駆動軸(古い3軸ボギー客車にエンジンを搭載した例がある)にしてはやたら脆弱だと思ったが、これは車軸発電機だった。サンパチ豪雪の際、ベルト駆動の車軸発電機が凍結して充電できず、バッテリーが消耗して電気が消えた経験があるが、やはり豪雪地帯では、それなりの設備がなされていることを痛感する。
話は前後する(要は小生の興味の順である)が、エドモントン市ではEdomonton Transit と称する、2車体3台車の高床式トラムが一部開通したばかりで、メイン競技場へのアクセスであり、バス同様関係者はIDカードがあれば無料で乗れる。北国だから冷房はなく窓は嵌め殺し、上部のみ内側に少し開く。これを3編成つないで運行していたが、大会が終われば恐らく2両か4両になるのだろう。