井笠鉄道矢掛線1964年6月


乗客7人(含小生)でのんびり走るホジ8

西村雅幸氏の中国新聞連載特集紹介を見て、矢も盾もたまらなくなって47年前のネガを探すことに。井笠鉄道は高校生だった1954年以来、何回行ったか思い出せないぐらいだが、矢掛線に乗ったのは1964年6月11日の1回だけである。既に笠岡-井原の本線ではホジ1~3、101、102が主力になり、かつて矢掛線でも働いたジ14~16(旧神高鉄道=両備鉄道が国有化されて改軌、取り残された神辺-高屋間が神高鉄道になり、1940年1月1日井笠鉄道が買取)は、本来の神辺線に戻っていた。従って矢掛線は本線で出番が激減したホジ7~9のうち、1両が往復していた。


矢掛到着 バスの基地でもある この屋根の骨組が今も残る

矢掛到着のホジ8 右のホハ3はラッシュ時の増結用

折り返し列車はワを1両連結した混合列車に

ラッシュ時はそれなりの乗客がある筈だが、昼日中とあってホジ8単行の車内は閑散そのもの。折り返し北川行はワを1両連結した混合列車になり、北川のひとつ手前の備中小田でちょっとした椿事?が。男女3人が、びっくりするくらい大きなコモ包みの小荷物を荷台に積み込むべく、待ち構えていたのである。こんな小さな駅でも駅員が居り、小荷物の重量を測る秤も鎮座している。


備中小田での珍騒動 貨車に積めばよさそうなものだが 車掌の表情をご推定あれ

そのコモ包みがご覧の代物だから、ちょっとやそっとで積み込めない。おまけに列車を待たせたまま平然と荷札をつけたりしている。当然停車時間が長くなり、北川での本線との連絡に遅れないかと車掌はヤキモキ、イライラ。写真からもその憮然たる表情がありありと読み取れよう。


やっと北川到着 コモ包みの大きさをご確認あれ

まあ3~4分かかって何とか積み込んだが、北川ではそれを下ろすのに手すきの駅員を呼び集める騒ぎに。笠岡行きとの接続も約3分遅れで辛うじて維持され、めでたく井笠鉄道のこの日の平和は回復されたのであった。


手すきの駅員を動員して荷物を半分下ろした時 笠岡行本線列車が到着

左がやはり客車、貨車1両を連結した笠岡行混合列車 左が矢掛線ホジ8

この矢掛線の廃止は神辺線とも1967年4月1日、本線たる笠岡-井原間は4年後の1971年4月1日である。蛇足になるが、井笠鉄道の矢掛-備中小田-井原-高屋-湯野というコースは、国道486号線と並行するが、これはかつての「山陽道」なのである。井笠鉄道廃止前から井原線の建設が続けられ、長い中断があって第三セクター井原鉄道として、この旧山陽道ルートで開業したのが1999年1月11日。

また高屋のすこし西が岡山、広島の県境だから、かつての神高鉄道はたったの7.93kmのくせに、広島・岡山の2県にまたがる鉄道であった。これも蛇足だが、2県にまたがる軽便は、筑後軌道、両備鉄道(神高鉄道)、三井鉱山(神岡軌道→鉄道)、草津軽便鉄道(最終草軽電気鉄道)しかないことは、意外に知られていないのではないか。

井笠鉄道矢掛線1964年6月」への3件のフィードバック

  1. 花巻の時にもコメントしようと思っていましたが、これは単なる鉄道写真と言うよりは日本が貧しくとも元気であったあの時代の生活記録集と思います。鉄道車両の記録撮影は当然ですが、それ以外に人を入れた駅や車内のムードなど素晴らしいです。花巻の狭苦しい車内の雰囲気、もっと驚いたのはその線路敷きの危うさ。井笠の巨大な荷物。よく記録されたと頭が下がります。私の年代でもあのような風景はどこかで見たような懐かしい感じを与えてくれます。元気が出ます。京都郊外にお住まいの総本家さんも撮影終了後に乗車する駅に戻っても駅の雰囲気や到着列車等を撮っています。湯口さんからも言われたことがあります。そういう写真は気負ってないから案外ええ写真撮れることがあると。これからも馬鹿チョンとかコンデジと言われる携帯カメラを持ってブラつこうと思ってます。

  2. 準特急さんの仰るとおり 若いころにはフィルムも高価で 車両の方にだけ眼が行って なかなか車内風景や駅前風景を写すことをしなかったのが今になって悔やまれます。車両写真よりむしろ人や生活感のある鉄道写真の方が貴重だと思いますがあとの祭り。江若鉄道の復元をやってみて 一層感じます。駅前に何があったのか、駅前から南を見たらどんな景色だったか等々 あまりに車両写真に偏っていたとつくづく思います。それにつけても湯口先輩のひとコマ、ひとコマには臨場感があり いつも感心しきりです。私の新聞記事紹介が刺激になったようですが 膨大なフィルムの中からすぐに該当のコマを見つけ出されて こうして紹介して頂ける背景には フィルムや資料が体系的に見事に整理されているに違いないと拝察します。そのあたりのノーハウも是非ご披露頂きたいものです。

  3. 準特急さん、先をこされた。須磨の大人には現役時代「お前さんの写真は生活感や社会性がない」とよく言われたものです。今それを言うと「そんなおそれ多い事を言った覚えがない」と否定されるが、行った車庫で車両要目を筆写して、目に入った電車を次の列車が来るまでに撮影することに専念していた時代、気持ちのゆとり等全くなかった。1986年、「鉄」に復活して以来は須磨に言われた事を出来るだけ意識するようにしています。特に吉川文夫さんとお付き合いするようになり須磨の言っていた事が良く分るようになりました。
    軽便に限らず、ローカルであればあるほど「鉄道を必要としていた」社会があったのですね。伯父はそのことをよく言っていましたが、夢の実現なくこの世をさりました。父の祖父(乙訓の曽祖父)は明治30年ごろ、桜井から高見山越えで松阪に至る伊勢参宮鉄道の発起人だった言う話を聞かされました。機関車2台買ったは良いとして山越えは無理と諦め、機関車を売り払い解散したとか。その東側のルートが松阪鉄道(軽便)になったとの話も聞かされた。大石には遠い分家があるようだ。

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