先回の呉線の後、夜行「ちどり」で宍道へ抜け、悪天候の中一畑電鉄立久恵線を往復、広瀬線をひと覗きして一旦帰宅。一週間後夜行に乗り、3月19日門司に下り立った。EF1040を撮ってから門司港客貨車区を訪ね、ホヤ16860、オヤ3121を見る。なぜか水槽車ミが目に付いたが、水が悪いんだろうか。オヤ3121はかつて米軍司令官用の密閉展望車だったもの。元来が3等車だからTR23である。
オヤ3121(限界測定車←スヤ5116←スヘ3113←スハフ306) 門司港
オヤ16860(試験車) 門司港
小倉で下車し西鉄北方線を魚町で撮る。路面電車なのに西鉄唯一の1067mm軌間(←九州電気軌道←小倉電気軌道)で、かつてぶんしゅう氏が山陰在勤だった頃、気にかけていた旧米子電車軌道の車両(313~317)も混じっている。
西鉄北方線301 魚町 左看板はエルビス・プレスリー初映画「やさしく愛して」 女優はデブラ・パジェットだがリチャード・イーガンは単なる引き立て役だった
西鉄北方線304 魚町 右のオート3輪車はバーハンドルである
西鉄北方線317 魚町 これは元米子電車軌道
小倉駅は現在より大分西―それも紫川の西に展開していた。このあたりの国鉄線路の付け替えは激しく、時期によって相当の差があって駅名/線名も変っている。現在の日田彦山線は以前添田線で、元来小倉鉄道が1943年5月1日買収されたもの。その始点は東小倉で、貨物は国鉄線と勿論ヤードでつながってはいても、旅客は連絡していなかった。我々が学生の頃は日田線と称し、日豊線城野接続、列車は門司始発に改善されていた。
据付ボイラー代用の6802 煙突を継足しキャブ内には電線が引き込まれている
キャブサイドのナンバープレートはない
東小倉機関区にはかつての私鉄買収古典機は影もなく、C11、12ばかり。ただ煙突を継ぎ足した6802(形式6760)が1両おり、しかも火が入っている。これは据付ボイラー代用で、駅、機関区浴場、客貨車区、保線区等の業務エリア+組合事務所、食堂、散髪屋等に暖房用蒸気、熱湯を供給する「地域エネルギープラント」なのである。
ついでにいえば、食堂以下の小店舗類はことごとく零細業者で、しかも客車や貨車の旧車体を国鉄敷地内に据え、国鉄職員のために営業していた。家賃は取らずその分安くさせ、食堂や散髪屋には瓦斯、水道、電気等も無料で使わせていたはずである。小生は気が弱いから食堂、靴屋等を利用したにすぎないが、重沢旦那は各地で浴場も(当然無料)利用していた。
国鉄現業部門の制服や作業服は貸与だから、職員は期限がくると、新品とひきかえに今までの貸与品を返却せねばならない。当局がボロとして民間に払下げた古制服類を、まさにこの交換用に職員に格安で売るリサイクルシショップ?が、ちゃんと国鉄敷地で営業していたのである。
C11173
C11299
C12270 これは小倉鉄道C1214の買収機である
C12284 キャブサイドの窓に横桟が入っている
【東映会館】 魚町、西鉄電停の背後の洋画の映画館は、おそらく2000年頃まで存在した、小倉東映会館ではないでしょうか。福岡の天神・岩田屋前と並び、九州一の繁華を誇った魚町電停のあたりは、西鉄北方線と北九州市内線の乗換えでいつも賑わいの絶えない交差点でした。北方線が昭和50年代の終わりにモノレールと入れ替わりに廃止になり、ジャンクションも東に移り、魚町の賑わいが下り坂になりました。
今は北九州を走り回った路面電車の姿もなく、また、昭和の時代は北九州唯一のファッションビルだった東映会館も姿を消して、地方都市の華やかな思い出は過去のものになりました。
こんな言葉はたとえが悪いのですが「小倉・北九州の上層から下流底辺まで」すべてを短時間の探訪で撮影しておられるようで、頭が下がりました。
昭和のこの時代のコントラスト、光と影はくっきりとしすぎて、面白いくらいです。門司港の元九鉄本社(現鉄道博物館)下に佇む、木造車両から、背後に外車の写った魚町まで、これがリアル北九州だな、と先輩の探訪に、ただただ感無量で見ております。
人並みに生を受けた小生がこの街で育ち、惑いながら生きていたのは、この10年後。懐かしくて多層な街の横顔を、こうやっていま振り返る、人生の妙に複雑な思いです。