昭和43年10月の福井国体で運転された御召列車は、福井県内だけではありませんでした。今なら、国体開催県のみで終わる視察が、当時は、国体後に、丹後・但馬地方にも及び、小浜線、宮津線、山陰本線でもC58、DD54の牽く御召列車が運転されたのでした。これで今回の御召の牽引機は、EF58、DE10、EF70、8620、C58、DD54と、すべての動力が揃った6形式にも及ぶという、近年にない、変化に富んだ御召となりました。
▲越美本線で御召が運転された翌々日の10月4日には小浜線敦賀~上中間で、5日には若狭高浜~東舞鶴間でC58171(敦一)、東舞鶴~豊岡間でC58223(豊)+C5856(舞)の御召が運転された。敦賀第一、西舞鶴、豊岡と、近隣の3区から1両ずつC58が選ばれた。
5日に、同学年のM好さんと牽引機が交替する東舞鶴へ向かった。駅に着いて、裏へ回ると、C58223+C5856の晴れ姿が見えた。後年の御召のように過剰すぎるほどの装飾もなく、ごく標準的な装備だが、それだけに蒸機でありながら隅々まで磨き上げられた2両の姿には目を見張るものがある。3日前のハチロクに比べると、撮影者はうんと少ない。御召到着まで約1時間前、和やかさの中にも緊張感が走る。
▲待機中のC58を撮ったあと、二人で西舞鶴方面に歩いた。下調べも何もなく歩き出したが、幸い、白鳥峠のトンネルの手前に築堤があり、その横には恰好のお立ち台がある。いま通ると、現場は平行する国道に沿って線路端までロードサイドの店が建っているが、当時は、一面の田圃が広がっていた。
25‰が続く白鳥峠だけに、御召らしからぬ力行ぶりである。重連の場合、次位に日章旗を掲示しないケースもあるが、このように次位にも掲示され、風にうまくなびいて、4本の日の丸がきれいに見えている。今まで何度か写した同機の一世一代の晴れ姿であった。
▲同年10月6日には、竹野~二条間にDD543+DD541の牽く御召列車が走った。DD54は、昭和41年から製造され、福知山・米子機関区に配置されて、蒸機を置き換えしていたが、故障・事故が絶えず、この4ヵ月前には、湖山駅で急行「おき」を牽引中、推進軸が折れて、脱線転覆事故があったばかりだった。故障・事故の集中していた量産形を避け、比較的安定した試作機1~3を御召牽引に当てたようだ。この日の御召は午後からの運転で、ゆっくりして馬堀駅に降り立った。馬堀に降りたのは、この日が初めてで、それからC57を求めて何度も降り立つことになる駅東方の築堤でとらえる。このあと、梅小路区へ向かい、大役を終えた同機の晴れ姿を心ゆくまで眺めた。もちろんDD54の御召はこれ一度切りで、DD54は短い生涯を閉じてしまう。
今頃になって思うのですが、国鉄という企業体は労組が牛耳っていて
民間企業より遥かに、左よりだったという印象があるのですが、
この時代のお召し列車の運行の多さは、「何ということ」でしょう。
戦後の全国の民主化を進めた方策のひとつに、昭和天皇の行啓、戦前の
御幸があるのですが、「民主化」ととることにより、これがイデオロギー
的にパスだった理由なんでしょうね。
それはともかく、まだ地方に行くと明治や、下手をすると江戸期生まれの
お爺ちゃんも生きており、村社会的に措ける「ハレ」の非日常が出現する。
機関士は一生一代の栄光に、禊して職務を全うせんと、勤労が芸術的運転
技能に昇華する。カマ屋は渾身の整備をし、筋屋は高等計算と秘術の限りを
尽くし、通過駅助役は不動の面持ちで、神経を使いその一瞬の責を受け持つ。
いま思えば、殆ど水戸黄門が流行った時代だけに、案外子供は面白く見ていた
んだなと思います。
あの頃は全国に拠点駅と管理局、そして機関車たちの家である、機関区が点在
し、よき競争感覚も残っていたのかもしれません。
労働とスポーツの共存も可能で、職場単位というのは強かったです。
この辺の話をしないと、平成生まれのレイルファンは、お召しという非日常を
単なるイベント列車レベルにしか、理解できないと思います。
僕は不敬な輩なのか、お召しは一回も撮影に行っていません。
ただあの頃の日本人はロイヤルエンジンという言葉に憧れ、日常的にも
ロイヤルという名詞を、もう少し親しみ以て使っていました。
昭和の遠き感覚を、平成の分かれ道より遠望す。
DD54までその栄光に浴したということで、もう言うことは無いです。
昭和戦後という時代は、地方の草の根まで照らす光があったような
気がいたしました。