五稜郭の巨体
つぎの「B」も機関区での撮影、北海道は五稜郭機関区へと参ります。青函連絡船で函館に着くと、そのまま列車に乗り換えて、大沼やヤマ線へ行ってしまい、函館で時間を掛けて写すことはありませんでした。そこで、最後の訪問時の帰途、連絡船をひと便遅らせて五稜郭機関区へ行き、最後の函館を記録することにしました。この時代、すでにC62は見られませんでしたが、その改造機体となったD52は健在で、函館本線の貨物列車を牽いていて、その巨体を写すのには、格好の場所でした。(昭和47年3月)。▲蒸機を斜め後から低い位置で仰ぎ見る角度の迫力のあること、前回の宮崎区のC5789でも感じた。五稜郭機関区でも、D52ラストナンバーの468号機を同じような撮り方をしていることが分かった。太いボイラーに、不釣り合いな小さな動輪、これぞD52の魅力でもある。
▲扇形線に留置中のD52468、五稜郭機関区は、ラウンドハウスが半円状に取り囲む、本格的な機関区だった。468両も製造されたD52のラストとあれば、値打ちがある。この時期、北海道で進行していたデフの切り詰めもD52に及んだのは1両だけで、ほかは原型を保っていた。▲強烈な水銀灯の光源をそのまま入れてしまうと、ハレーションを起こしてしまうから、D52のバックに光源を隠して、機体をシルエットにしてみた。いまも世界中を飛び回って、短期間だけDRFC会員だったSさんがのブログに載った、津和野の転車台で撮られた夜間運転のD51が、ほぼ同じと撮影法だった。アングルの見つけ方は、昔も今も変わらないものだと改めて思った。
▲五稜郭機関区には、当時、健在だった瀬棚線の貨物牽引用にC11が3両配置されていた。五稜郭の入換も担当していたようだ。
▲いっぽうD52は、10両が配置されていて、五稜郭~長万部~鷲別の貨物列車の牽引に当たっていた。この時期、北海道のDL化は、貨物を優先的に進められ、同区間でもDD51が進出していて、D52は余剰気味だったため、一部の旅客列車も牽引していた。この日、長万部から乗った列車もD52牽引で、御殿場線のD52以来、久しぶりのD52列車の乗車となった。▲これからD52に乗務するのか、二人の乗務員がD52の点検に当たっていた。九州と別に変わらない夜の機関区風景だが、気温が低いぶん、煙の流れ方が違うようにも見えた。
D52はいいですね~
山陽本線や函館本線を追いかけました。
太いボイラーに小さなキャブ、アメリカの機関車の雰囲気が漂っています。
このD52468のキャブが梅小路鉄道博物館に展示されているのをご存じですか?
米手作市様
またひねくれ男の登場です。確かにボイラが太く長い車体は魅力ですが、D52は人間でいいますと団塊の世代の少し前、つまり米手さんや私の生まれたころの資材不足の時代に製造され、EF13やC11、D51の角型ドームと同じ粗悪車でした。とにかく長大貨物を牽く機関車が必要だったのでしょう。その後改造されて見られるようになりましたが、やはり苦しかった時代の名残りもありました。しかし、人はいろいろで山科の人間国宝は最も好きな機関車にD52戦時設計車を挙げておられました。失礼しました。
たしかに戦時の粗悪車だったことは異存ありません。でもスタイルは好きでした。
御殿場線は知りませんが瀬野八は何度も行って楽しみました。
一ノ関ではD62をみて感激しました。
米手作市様
これで客車以外にもいろいろ物色されていたことがよくわかりました。D62は電車少年だった乙訓の老人さんも東北に行った時にその音と豪快なスタイルに驚いたと言われました。マロネロ38は1966年7月1日の改正でオロハネ10+スロ52に置き換えられたと記事にありました。だから私は見ておりません。ところでマロネロ38ですが大阪~大社間の普通列車にも入っていたような記憶がありますが、いかがでしょうか。いろいろ失礼なことを申し上げましたが、また、来年もお手柔らかによろしくお願いします。
米手作市様
マロネロ38はD52ではなくC55の利尻で述べるべきでした。失礼しました。
米手さま
いつもコメントをありがとうございます。D52468ですが、ご指摘のように梅小路蒸気機関車館に保存されていますね。キャブだけでなく、静態保存ですが、丸ごとの保存です。
間違いでした!車体の静態保存でした。
来年の鉄博カレンダーにD52468のキャブ内部写真があったのでキャブだけかと思いました。
今年最後のミスでした。
準特急さん
いろいろ物色しました。
手元の資料を探しましたがマロネロ38の写真は札幌でしか撮っていません。オロハネ10も準急「石北」編成で撮っていますが「利尻」ではありませんでした。