手元に昭和6年1月13日の中国新聞朝刊のコピーがあります。実は戦前の中国新聞の紙面は殆ど残っていません。広島本社に保管されていたであろう紙面は原爆で焼き尽くされ、福山支社のものも福山空襲で消滅したからです。戦災を受けなかった三原市図書館に辛うじて昭和5年11月から昭和24年11月の間の古い紙面(主に備後版)が残されていて、デジタル化されています。地元の戦前の出来事を調べるのに重宝しています。そんななかで、とりわけ目をひいたのが、昭和6年1月13日の紙面でした。前日1月12日3:57に発生した山陽本線河内(こうち)駅での上り急行列車転覆事故の生々しい記事と写真が紙面を埋めています。まずはその紙面を分割してご紹介します。約90年前の新聞ですので、写真の不鮮明さ、見づらさはご容赦のうえ つなぎあわせてご覧下さい。
それでは、紙面を順を追って見てゆきましょう。①7ページ上からです。昭和6(1931)年1月12日午前3:57、山陽本線河内駅を通過した下関発東京行き上り2,3等急行第10列車が脱線・転覆し、死者7名、重軽傷者130余名を出すという大事故でした。記事によると、12日の夕刊で速報されたようですが、中国新聞本社のある広島から事故現場の河内までは約50Km離れており、現在と比べものにならない程道路事情は悪く、鉄道が唯一の交通手段だったと思われますので、取材に駆け付けるのも一苦労だったと思われます。事故発生から1日が経った13日の朝刊に詳報が載ったと思われます。さて、この列車の牽引機は下関機関区のC5324でした。C53は昭和3年から昭和5年まで計97両が製造されました。この事故があった昭和6年当時、東海道本線の電化区間は東京・沼津間でしたので、東海道・山陽路の最新鋭機としてのC53は、沼津、浜松、名古屋、米原、梅小路、明石、糸崎、下関に配置され、下関区に最も多い21両が配置されていました。河内駅のある広島・福山間は大正14年に全区間複線化されていました。現在、河内駅の両隣は西が入野駅、東が本郷駅ですが、当時は西が入野信号場(場所も現在の入野駅の位置ではない)、東は本郷駅との中間にあった郷原信号場でした。下関区のC5324は13両の客車を牽いて、後日の調査によると白市駅を4分延、入野信号場を2分延で通過したそうです。何とか遅れを取り戻すべく河内駅に差し掛かります。河内駅構内の上り線出口側は半径600mの左カーブになっていて、その先に38mの椋梨(むくなし)川鉄橋があります。河内駅構内の様子と、河内駅近辺の略図を次に示します。
このカーブを制限速度を超過したスピードで通過したC53は遠心力で右側に転覆し、鉄橋上で横倒しとなり、後続の客車は鉄橋から川の中へ転落しました。その状況を新聞の写真から推測したのが次の図です。
機関車がC5324であることはわかっていますが、残念ながら客車の形式、番号はわかりません。
ここでもう一度冒頭の新聞記事①②を見てみます。すると「河内驛イ第五四號ポイント」、「イ第三一號ポイント」と記載されていますが、これがどのポイントを指すのか定かではありません。また更に意味不明なのが「安全トップへ入る」という表現です。構内の線路配置は当時と異なっている可能性も高いので、この「安全トップ」なる線路は、単線区間の駅の両端にある「脱線ポイント」のようなものがあったのかもしれません。「背後バファ止めを破壊して」という表現がそれをにおわせているように思えます。いずれにせよ、現在の線路配置にこだわらない検証が必要でしょう。
⑦図に書きましたように構内に「椋梨踏切」があります。せいぜい自転車を押して通れるくらいの狭い踏切です。この踏切から上り側、下り側を見た現在の様子をお示しします。
④ 6ページ上の見出しには、現在では余り使われない「大椿事」、即ち「思いがけない一大事」として1面を写真で埋めています。
⑤ 6ページ中 左の写真でマント姿の駅員?に先導されて歩く軍人が写っていますが、この急行列車に乗っていた皇族 華頂博信候だそうです。当時は帝国海軍将校だったようです。この事故の1年後 昭和7年には重巡洋艦愛宕の分隊長などを歴任後、貴族院議員などを経て昭和45年に没した人物だそうです。皇族の海軍軍人のためか 後ろに旭日旗を奉げた従者がいるのでしょう。河内駅には現在は跨線橋がありますが、この時には線路を横断していたようです。この日は薄っすらと雪が積もっていることがわかります。うしろに2等車が写っていますが、これが上り第10列車なら上り線上に停車中でしょうから、華頂候は下りホームへ移動中なのでしょうか。③7ページ下の記事によれば、当日広島へ向けて負傷者を移送する2等車4両を含む臨時列車が走ったようですから、それに乗り込む時のカットかもしれません。
⑥ 6ページ下の右上写真をご覧下さい。積雪のなか 荷物を下げた乗客の徒歩連絡の様子です。この場所は河内大橋(⑦略図参照)であることが、特徴ある欄干から特定できます。この河内大橋は現在も現役の橋として当時の姿をとどめています。
実は この特徴ある橋がいつ架橋されたのかがよくわかりません。と言うのも、金属製の橋銘板が戦時中の金属供出で鉄製の欄干飾りなどと共にすべて失われているからです。河内町観光協会が作った町内のガイドマップでは昭和7年に建設されたと書かれています。多分もうひとつの河内小橋のコンクリート製欄干に昭和7年と彫りこまれているので、大橋も7年と推定したのでしょうが、昭和6年1月の鉄道事故時点で被災乗客が荷物を抱えて河内大橋を渡っている写真が何よりの証拠であり、架橋は昭和6年1月以前であることが確認できました。いずれにせよ、この河内大橋は築90年を迎える貴重な土木遺産です。
③の記事を見ると、この事故を起こした急行列車の乗客が、後続の下関発東京行き第18列車に乗って目的地に向かう車中で、記者が神戸まで同行取材しているようなのです。椋梨川鉄橋上にはC53が横倒しになっていて通れない筈なのに、なぜ後続第18列車が走れたのか、状況が呑み込めません。糸崎で臨時列車を仕立てて河内駅手前まで推進運転で回送し、被災乗客を乗せて、第18列車を代走させたのであれば、鉄橋の先で待っている上り臨時列車に乗り込むため、乗客が荷物を持って河内大橋、河内小橋を渡って移動している光景であれば納得できます。
さて12日早朝の事故発生後 直ちに復旧工事が始まっています。
右側の写真解説によると、引揚げ作業のために小倉工場から人夫を、鷹取工場からグレン車(クレーン車)を現地に急送させて復旧工事を急いだようです。もう1枚の写真があります。
線路上にクレーン車が、そしてよく見ると川の中に組まれた足場上にC53が置かれていることがわかります。まず⑭に写っているクレーン車(操重車)の検証をしましょう。昭和6年当時に鉄道省に在籍していた大型の操重車は、昭和3年にアメリカから輸入された、インダストリアル・ブラウンホイスト社製のソ20しかありません。ソ20は我が国初の事故救援用クレーン車で、大阪鉄道局吹田操車場常備だったようです。上の写真のアームの形状から間違いないと思います。
新聞記事では鷹取工場から派遣したとなっていますが、たまたま鷹取にいたのか、現地へ行く救援列車として吹田から移動して鷹取で待機していたのかもしれません。⑭の写真で、このソ20が停車して客車を吊り上げようとしている場所がどの地点かということですが、左手に2基の腕木信号機があり、腕が左側に向いていることから、信号機の背面側からの撮影で、カーブした上り線用の出発信号機だと思われます。吊り上げ中の客車の位置からしても、ソ20は上り線の椋梨踏切と鉄橋の間に据えられていると考えられます。となると、鷹取から来たソ20を含む救援列車はまず鉄橋上に横たわったC53を河原へ下ろしたあと、鉄橋を渡って河内駅に入り、上り線側に転線したことになります。ここで次なる問題が出てきます。ソ20が吊り上げられる荷重は最大65Tonです。ところがC53のテンダーを除く機関車本体の自重は81Tonあり、吊り上げ不可能です。そこで② 7ページ中の見出しのように 解体して河原に降ろし、河原の仮設足場上に⑭のように仮置きしたものと推察できます。なお⑬の不鮮明な写真で、アームのうしろから煙が立ち上っていますが、ソ20の動力は蒸気機関であり、その煙だと思われます。
⑬の解説文では「機関車は近日中に一旦広島機関庫に輸送予定」となっていますが、解体した機関車をどのように広島機関庫まで輸送したのでしょうか。これも興味をそそられます。なおC5324は昭和24年3月15日に下関区で廃車となっています。昭和3年に生まれて3年しか経っていない最新鋭機、3シリンダの高級機を簡単に廃車するわけにゆかず、必死で修復工事が行われ 戦中、戦後を生き抜きました。
一方の転落・大破した客車の方は、車番が判らないこともあり、その後のことはわかりませんが、唯一オハ3140ではないかと思える写真があります。我々の感覚ではオハ31と言えば、地方線区で余生を送っていたイメージしかありませんが、昭和6年当時は急行列車の3等車として新型車だったのですね。川向うにはD50らしき機関車がいます。当時糸崎には9両のD50がいましたので、ソ20を推進してきたのかもしれません。なおソ20は少しの移動なら自走できました。
当然ながら鉄道省において事故原因調査が1月20日から20数回の査問委員会を経て実施され、同年4月12日に調査結果が公表されています。その内容が国民新聞に掲載され、その紙面が神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫に電子データとして保存され、公開されています。
詳細は省きますが、転覆の直接原因は推定80Km/hで曲線を通過したことによる脱線、転覆と判定し、車両や線路に不具合は無かったとしています。しかしなぜベテラン機関士がそのような高速で運転したのかという真の原因は「謎」とされています。またこれらの結果はあくまで原因調査であり、責任の所在や関係者の処分や刑罰については別途懲戒委員会や検察に委ねられるとされています。また前年10月1日のダイヤ改正による運転時分の設定には問題ないとされ、また当日4~2分の遅延運転であったことにも触れられていません。
②7ページ中の左下に出てくる「立栄寺」が遺体安置所にされました。
新聞記事にもあるように、遺体は早々に各本籍地に送られたとあり、このお寺はあくまで仮の安置所であったため、現在境内には慰霊碑的なものは無さそうですが、改めてご住職に当時の記録などがあるかどうかを聞きに行こうと思っています。また事故現場付近にも記念碑や慰霊碑は無さそうで、90年近くも前にここで大事故があったことを知っている人が果たしてどれくらいおられるのかが気になります。
さて最後に 事故発生現場の椋梨川鉄橋の近況をご紹介しておきます。
中国新聞の記事をもとに調査を始めましたが、特に事故直後の様子が判る写真は地元にも残っていないようで、参考にした黎明会刊「ふるさとの想い出写真集」に2枚と、ウィキペディア記事の写真も毎日新聞のもので、クレーン車や救援機関車が写っていることから事故直後ではなさそうです。従って中国新聞の記事と写真は非常に貴重な記録だということを再認識するとともに、例の尼崎事故に似たような人災が意外にも地元でも起こっていたことがわかりました。この調査の過程で、更に5年前の大正15(1926)年9月に安芸中野駅付近で更に大きな転覆事故があったことを知り、これも現地取材しましたので、続報でご紹介したいと思います。
西村雅幸様
これかどうかわかりませんが、おふくろの話ですが、親父が山陽本線列車事故に遭遇したようなことを聞いたことがあります。昭和6年と言いますと親父は23か24歳くらいです。何でも救助作業を手伝ったようですが、また聞きですし、両親とも他界していますので詳細は全くわかりません。親父は熊本から東京に向かったのでないかと思いますが、熊本発の東京行きがあったのか途中で乗り換えたのかもわかりません。それにしてよく研究され現地に足を運ばれ当時の橋を撮影されたり調査力も凄いですね。C53やD50の全盛期でオハ31らしきものも急行に入っていたのではないかなど想像力にも感心しております。
準特急様
早速のコメントを頂きありがとうございます。お父様が遭遇されて救助作業を手伝われた事故が、この第10列車の事故かどうかはわかりませんが、熊本から上京されたのであれば、関門トンネル開通は昭和17年ですので、門司港から関門連絡船で下関に渡り、上り列車に乗換えられたのでしょう。熊本から東京まで、乗る列車にもよりますが、丸2日はかかったことでしょう。今回調査した河内町は自宅からマイカーで30分程度ですので、気軽に行ける距離です。昭和6年当時のことを知っておられる方は100歳近い方のはずで、直接話を聞ける人を探し当てることはまず不可能で、あとは写真や報告書、新聞などの紙媒体の記録が頼りです。ところが田舎町のことゆえ、写真館のようなものは多分元々無いので、古い記録写真を探すのは難儀です。今さらこんな鉄道事故を調べても、何の役にもたたないことを知りつつ、調べ歩くプロセスを楽しんでいます。
西村雅幸さん、
ご苦労様です。
こんな事故があったとは知りませんでした。
写真を見ると客車はスハ32型と思われます。初期のダブルルーフ車です。それと、全くの私見ですが、華頂候はマントを着た人ではないでしょうか。案内人がマントを羽織り、皇族が寒空に軍服だけとは解せません。それに黒い軍帽が海軍のもので、後に続く軍人は陸軍将校のように見えます。
米手様
客車の件ですが、⑯の写真の客車に限ると車番は車体中央に書かれるので、車端からの長さから17m車のように思えます。スハ32なら窓は2枚一組、これは3枚一組のオハ31と考えました。華頂候の件はおっしゃる通りですね。陸軍、海軍の軍装までは調べていませんでした。ありがとうございました。
そのようですね。
⑯の右端の窓が二枚組に見えたのと、皇族が乗るような急行列車には、当時最新型の(昭和4年製)スハ32だろうと思い込みました。失礼しました。
西村雅幸様
このような事故があったとは知りませんでした。新聞記事の一言一句を漏らすまいと読んでみましたが、私には難しくてよく理解できません。大幅な速度超過が引き起こした事故のようですが、「第五十五號ポイントの曲線半径百八十五米」が気になります。
川原に置かれたC53を見ると、運転室が取り外されているようです。「解体」というとバラバラになった印象を受けますが、本体には手を付けず外せるものを外して軽くしたのではないでしょうか。
⑯の写真ですが、橋梁上にはC53が横たわっております。しかし、ソ20の姿は見えません。これは私の勝手な見解ですが、糸崎で仕立てた臨時列車の本務機とは考えられないでしょうか? この列車の後部に逆向けで別の機関車を繋いでおき、事故現場の手前で乗客を乗せて18列車として運転し、D50は切り離されて残ったのではないかと考えました。
しかし、西村様のするどい検証には恐れ入ります。私などは無責任な推理で楽しんでおりますが、西村様の行動力と研究心には、ただただ頭が下がります。
ところで、河内駅近くをストリートビューで見ておりましたところ、椋梨大橋を東へ渡ったところの三差路に、大きな石碑を見つけました。「忠霊塔」と読めたのですが、この事故に関係があるのでしょうか?
紫の1863様
細部までご覧頂きありがとうございます。「第五十五號ポイントの半径云々」については私も理解できていません。数少ない断片的な写真から時系列的にどのように復旧作業が行われたのだろうか、救援車両はどのように送られてきたのだろうかと推測するのですが、明確には把握できません。おっしゃるようにプッシュプル状態で現場まで回送し、残された機関車とも考えられます。忠霊塔ですが、確かに建っています。新旧の比較写真を添付します。これは大正末期にに日清・日露などの戦死者を慰霊するものとして建立され、元は「忠魂碑」で円柱形の柱の上に砲弾型の飾り(実物?)が乗っていたようです。塔の周りを取り囲んでいた鉄の鎖なども含めすべて戦時の金属供出で撤去され、現在の塔はコンクリート製で「忠霊塔」になっています。当地にはこの種の忠魂碑が数多く残されていて、日清・日露はもとより戊辰戦争までさかのぼるものもあります。貧しい農村地帯からいかに多くの兵士が駆り出されたかを示しているようです。
西村雅幸様
90年前の新聞が地元の図書館でデジタル保存されているとは凄いですね。平凡な農村に降ってわいた事故、まさに「大椿事」と見出しを付けた地元紙の心境が窺えます。
この事故は「続 事故の鉄道史」(佐々木冨泰、網谷りょういち共著 日本経済評論社)の中の「第3話 河内駅五五号転轍器のミステリー」に詳しく述べられています。それによると、事故の前月にこの五五号ポイントの付け替え工事を行った際のミスや、ミスの露見を恐れて正規の手続きによらない減速指示を行った幹部職員のことなど、まさに「人災」であったことが分析されています。結果、10列車の機関士が禁固刑の求刑から結審時は罰金刑に留まり、引き換え(?)に⑲の紙面にある幹部職員には懲戒処分がなされたとのこと。重大事故には複数の原因が介在するものですが、ここまで人為的ミスが積み重なった例も少ないかと思います。
⑯の写真右側の、斜めに土手へ突っ込んだ客車の番号はオハ32410と読めます。オハ31型になる前のオハ32000型当時の番号ですね。
まほろばの鉄趣味住人様
貴重な情報をありがとうございます。「続 事故の鉄道史」をなんとか入手してみようと思います。オハ31になる前のオハ32410ですね。それなら納得です。有難うございました。
西村雅幸様
「事故の鉄道史」は20年以上前に刊行された本ですが、正・続とも Amazon や HMV など大手ネット通販なら手に入ると思います。
正編には古間木事故(タブレットの不正取り出しによる正面衝突)、安治川口事故、柳ケ瀬トンネル乗務員窒息事故など。続編にはこの事故のほか、近鉄奈良線花園事故、桜木町事故、参宮線(当時)六軒事故、北陸トンネル内「きたぐに」火災、余部橋梁「みやび」転落事故などが載っています。
まほろばの鉄趣味住人様
早速ネット通販で検索し、手に入れることができました。届くのが楽しみです。ありがとうございました。
忘れておりました。追伸です。
西村様が「後編」でご紹介された安芸中野~海田市間での特急1列車の事故も、「事故の鉄道史」(正編)で取り上げられています。
まほろばの鉄趣味住人様
教えて頂いた「事故の鉄道史」両編を手に入れて、2つの山陽線事故の真相を知ることができました。安芸中野の事故は自然災害に起因し、当時の通信手段から考えれば、現場職員の努力の限界を超えた事故だったようですが、河内駅の事故は保線関係者の人為的なミスだったものを、機関士の責任にすり替えた とんでもない事故だったことを知り、ショックを受けました。昭和6年当時の鉄道省の体質や報道機関の姿勢など、隔世の感があるようでもあり、90年経ってもやっぱり「改ざん」「隠ぺい」や「忖度」が平気で行われているこの国の恥部を見たような気がします。河内と安芸中野での現地調査はもう少し続けようと思っています。またこの2冊に掲載された多くの事故例を興味深く読み進めているところです。貴重な情報提供ありがとうございました。
西村雅幸様
鉄道愛好家にとって、事故の記録に接するのは、被害者の心境を思えば辛いものですが、反面これらの尊い犠牲の結果、より安全・快適な輸送手段に向けて地道な改善・改良が積み重ねられてきたこともまた事実です。河内事故はまったくの人災でしょうが、それでもこれだけの大事故の割に犠牲者が少なかったのは、安芸中野事故の教訓による客車の鋼製化のためでしょう。
両事故の現地調査を続けられるとのこと、改めて敬意を表するとともに、多少なりともお役に立てたことを嬉しく感じております。
西村様
貴重な記事、たいへん興味深く拝見させていただきました。質問させていただきたいのですが、河内駅の事故の死亡者は全員氏名まで明らかになっていますでしょうか。もしお分かりなら教えていただきたいのですが、その中に、明石三ニ氏はおられるでしょうか?よろしくお願いします。
真田意索様
私の記事をご覧頂きありがとうございます。安芸中野での事故は当時の看板列車の事故で、自然災害由来であり、外国人を含めて要人の犠牲者も多かったためか、しっかりと記録が残っているのに対して、河内駅での事故は、急行列車で、人災の側面があるためもあるのか、地元にも殆ど記録が残っていません。但し一時的にご遺体の安置所になった立栄寺には、ご住職にお話を聞くなどの取材をしていませんので、明石様のお名前がどこかに残っているかを調べるために訪ねてみます。何か新たな情報が入手出来ましたら、このHPに記事を載せることに致します。
西村様
お返事ありがとうございます。明石氏は現在の岡山県備前市三石の方です。亡くなった方は本籍地にとありましたので、参考までにお伝えします。よろしくお願いします。
真田意索様
本日東広島市河内町にある立栄寺(りゅうえいじ)に取材に行ってきました。突然の訪問だったのですが、先代のご住職ご夫妻が丁寧にご対応頂きました。ただ残念ながら、事故による7名の犠牲者の名前はわかりませんでした。過去帳も調べて頂きましたが、昭和6年1月に当地以外の方の名前や戒名はなく、新聞記事にもあったように、犠牲者は立栄寺で仮安置後、速やかに本籍地へ送られたため、何も記録がありませんでした。先代のご住職が6歳の時の事故だったそうで、早朝に大変な騒ぎだったことをかすかに覚えているとのことでした。先代のご住職のお母様が地元の婦人会長をされていたこともあって、被災者の対応のみならず、事故後の復旧工事関係者へのお世話にも奔走されたようです。炊き出しの量も半端ではなく、五右衛門風呂でご飯を炊いたということでした。お寺の歴史を記した門徒さん向けの会報に、この事故の記事がありました。そこには同年1月26日付けの門司鉄道局長名の感謝状の写真が記載されています。先代のご住職がこの感謝状の額が残っている筈と探して頂きましたが、すぐには見つからず、探しておきますとのことでした。ということで、真田様のご期待にそう結果には至りませんでしたが、90年も前の出来事ゆえ、感謝状の存在がわかったのはひとつの収穫でした。また、大正15年の安芸中野で起きた事故の慰霊碑がある安芸中野の専念寺とも交流があるが、鉄道事故でつながっているとは全く知らなかったと驚かれ、お寺同志の御縁を結びに行ったようなことにもなりました。まずは取り急ぎご報告まで。感謝状の写真を添付しておきます。
西村様
早速にありがとうございます。名前が判明しなかったのは残念でした。私もできる限り調べてみます。新しいことが判明すればお伝えします。ありがとうございました。
真田意索様
もしお差支えなければ、なぜ貴殿が明石氏のことをお調べになっているのかをお教え願えませんでしょうか?
遅くなりました。私は現在、岡山県備前市の耐火物の歴史をまとめております。その中で明石三ニ氏を知ったわけですが、明石氏は備前市で耐火れんがの会社を経営していました。敬虔なクリスチャンで、三石教会を自宅の一画に建てられた方です。この方は、技術者としても優れておりました。経営者としても、また地域からも愛されていた明石氏は、1931年の列車事故で46歳にして亡くなったことは分かっています。地元に伝わる話では、人にたまたま席を譲ったがために命を落としたとも。しかし、どの列車事故なのか、そこがはっきりしていません。出張中の1931年の列車事故といえば、河内駅の事故がヒットし、事故の記事等を遡っていけば判明するのではないかと、そのように思ったわけです。他で忙しく、まだ調査は出来ていませんが、故人を偲ぶためにも、どの事故なのかはっきりさせたいと思っています。
真田意索様
明石氏とのご縁がよくわかりました。備前市の耐火物の歴史をお調べとのことですが、今回の件とは全く無関係ですが、私も備前市(片上)の品川白煉瓦について、同社の創業100年史などを調べたことがあります。片上港から伊部に特殊軌道(トロッコ)があったことを地図で見つけて、その正体を調べたときのことです。2008-11-2付けにてこのデジ青に「永年の謎が解けました」と題して投稿していますので、ご覧ください。その中でコメントを寄せて頂いた方が三石のことに言及されていました。耐火煉瓦ではありませんが、三石近辺には山陽鉄道時代の煉瓦構造物が今なお現役土木施設として数多く残っていて、100年以上前の職人の技を堪能させてくれる興味深い地域だと思っています。今回の河内駅事故に関して、被害者を含めもう少し調べてみようと思います。貴重なお話をありがとうございました。
河内駅からほど近い立栄寺の本堂の写真も添えておきます。
ご無沙汰しております。
あれ以降、東広島市教育委員会さま、広島県立図書館さまの、協力をいただき調べましたところ、中国新聞昭和6年1月13日の記事に、即死者明石三二と発見しました。
どうもありがとうございました!
真田意索様
私の方の調査は進んでいなかったのですが、東広島市や県立図書館が対応してくれて、90年も前の事実が判明し何よりでした。戦中、戦前の中国新聞の多くが原爆で焼失していて、この種の事跡を調査するのは容易ではありません。私の記事がきっかけとなって、真田様の疑念が解ける一助になったことを大変うれしく思っています。本題である耐火物のご研究にも励まれますようお祈り申し上げます。ありがとうございました。
当該事故で
オハ32260
オハ32279
2両が昭和7年(1932年)1月に廃車手続が執行され解体されております。
横浜臨海公園様
デジ青を御覧頂き、コメントをありがとうございました。少しずつ事実が明らかになってゆくのは、うれしいことです。