6月にあった「特急三百哩」を見るきっかけを作って下さった早稲田鉄研OBの宮崎繁幹さんから「駅弁包装紙の投稿を見てこれを思い出した」と原稿が送られてきました。
これまた見たことない珍品資料です。以下、宮崎さんのお話をお聞き下さい。
《さてその後、「ここどこ?わただれ?」の方は、猛暑もあってサボっていましたが、駅弁掛紙を拝見し、食べ物つながりで「食堂車チラシ」があったことを思い出しました。
図柄や値段から見て、戦前に使用されたものと思われます。戦後の食堂車営業中にも配布された様に思いますが、いつ頃まであったものでしょうか?電車や気動車の食堂車では配布されなかったように思いますが。
細かい詮索は置いといて、では、戦前の食堂車へとタイムスリップ致しましょう。
⇩ 『和』食堂車でもコーヒーを販売していたのですね
⇩ 食堂車で、絵葉書・煙草・切手まで販売していたとは知りませんでした。
⇩ 和食堂車という用語は何時まであったのでしょう。対になる語は、順当なら洋食堂車になると思いますが、ついぞ聞いたことがありません。和食堂車←→食堂車で一対だったのでしょうか?
⇩ 今なら食堂車が付いていようモンなら、大変な混雑ではないか!私の知人で100系新幹線に乗っている間、ズッと食堂車で一杯やっていた奴が居りましたが。
⇩ 「洋」食堂車というのはない、と思ったら、有ったのですね。失礼しました!
⇩ 「洋」食堂車に御飯はないのか?と心配したが、カレーライスが「御好み料理」に載っているからあったのでしょう。御飯もライスと書けば洋食になる!
⇩ この東船軒の夕食は安い!⑤の精養軒の夕定食は一圓五十銭です。
⇩ 時分どきには定食だけを供食し、それが過ぎると一品料理タイムになったようです。右下のチラシ番号が「№14」。何種類もチラシを用意して、状況に応じ、乗客に撒いていたのでしょうね。結構な手間だった事でしょう。
⇩ 「和」食堂なのに、けっこう洋食メニューも載っている。オカズは洋食でも、付いてくるのが御飯なら和食になるらしい!
⇩ カレーライスは、戦前既にポピュラーな「和食」だったのですね。
⇩ チラシ一枚の図案にもセンスが感じられます。
⇩ 英文表記が先にあるとは。戦前でもインバウンド客は多かったのでしょうか。
⇩ 今じゃ、仮に食堂車があったとしても、京都・大阪間で食事なんか無理ですね。メニューを見て何にしようかと考えている間に、大阪へ着いてしまいます。
⇩ 汽車は出て行く、煙は残る。しかし普通の食堂車は歴史の一コマとなりました。
これが宮崎繁幹さんからの秘宝開陳です。
皆様からのご意見・解釈をお待ちですので、ご遠慮なくコメントして下さい。
食堂車のチラシをご披露いただきありがとうございました。
明治の国有化以降、食堂車の営業をしていたのは、直営(明治42年廃止)、浅田屋(のち撤退)、共進亭、精養軒、仙台ホテル(のち伯養軒)、東松軒、東洋軒、日本亭(のち撤退)、松葉館(のち撤退)、みかどで、昭和13年に残った6社を統合して日本食堂ができました。
メニューの品目や価格で時期が絞り込めるチラシもあるかもしれませんね。
井原様、解説有難うございました。日本食堂の設立が昭和13年とは、結構早かったのですね。してみると、これ等のチラシはそれ以前のものですか。なお⑥のチラシを「東船軒」と記してしまったが、正しくは「東松軒」だったのですね。お詫びして訂正します。しかし、元のチラシの「松」の字の作りは、「ム」ではなく「ロ」に見えるのだが、正しい字のチラシを貼っておきます。
部外者ではありますが、貴殿の記事には初めてコメントいたします。
⑥のチラシに記載されている「柗」は「松」の異体字ですので、間違いではありません。下記リンク先に例が多数掲載されていますので、ご参照ください。
https://www.google.com/search?sca_esv=555716531&rlz=1C1RPHE_jaJP952JP952&hl=ja&sxsrf=AB5stBhKIAECX9yLF3xEIjTNbb8vW4uYkw:1691715823304&q=%E6%9D%BE+%E7%95%B0%E4%BD%93%E5%AD%97&tbm=isch&source=lnms&sa=X&ved=2ahUKEwj8v9XFtNOAAxWYmVYBHWTZDOYQ0pQJegQIChAB&biw=1280&bih=578&dpr=1.5
御教示ありがとうございました。漢字は奥が深いですね。鉄道趣味も、思わぬ勉強になります。しかし普通字体のチラシもあるところを見ると、誤読されたり、読めないケースも多かったのでしょうか。或いは、旅客課長の御指導があったりして。
米手作市様(宮崎繁幹様)
このような食堂車のチラシがあったことを全く知らず、驚きと共に大変興味深く拝見しました。ご紹介頂き、ありがとうございました。そこでふと思い当たったのは、チラシを配るということは、車内放送設備が無いのでハコ毎に大声で叫んで歩くか、チラシを配るしか乗客への伝達手段が無かったということですね。となると、客車の大家 米手様。客車に放送設備が設置され、車掌室から「次の停車駅は・・・」と放送が出来るようになったのはいつ頃なのでしょうか?教えて下さい。
これはムツカシイ質問です。
調べても放送設備の設置時期は書いてありません。
客車の近代化は1949年から始まりました。しかし、これは戦災復旧のような緊急性の高いもので、台枠のゆがみ直しや屋根の張り替え、便所の整備など客車の基本を戦前に戻すような作業で、良くする事ではありませんでした。1955年頃から近代化を進めだして、蛍光灯、モケットの張り替え、窓のアルミサッシ化などが行われました。この頃から各車にスピーカーが付きだしたのでは無いでしょうか。
子供の頃の記憶では、オハ61系には外付けのスピーカー、スハ43系には埋め込み式のスピーカーで、オハ31系などはスピーカーなしだったように思います。相変わらず記憶だけのお話しで、間違っていたらゴメンナサイと申し上げます。
スハニ31のスピーカー
外付けで、露出配線。
近代化改造後のマロネロ38
埋め込み式のスピーカー。蛍光灯化済み。
オハ61。車内はモケット張りに改良したが、スピーカーは外付けで、見えにくいが露出配線。
オハニ30。放送設備なし。
米手作市様
たちまちスハニ31、マロネロ38,オハフ61,オハニ30の車内の写真がさりげなく出てくるところが流石と感心しております。私も外付けのスピーカーボックスは記憶にあります。貴重な証拠写真、ありがとうございました。
宮崎繁幹様、米手作市様、井原実様
宮崎繁幹さん、ご無沙汰しております。グルメではありませんので食堂車に立ち入ったり、酒もダメですので長時間占領することはありませんでした。今回の食堂車のきめ細かなチラシのことなど当然知らないことです。しかし宮崎さんのお持ちのこれら貴重な資料からいろいろなことを想像します。①本当に丁寧な文章で書かれています。このチラシの時代は、特急列車や急行列車を利用することができる人は上流階級の人で、ましてや食堂車を利用するのはほんの一握りの人だったのではないかと思われます。だから戦前等は今の時代に考えられないような丁寧な言葉遣いの案内文だと考えられます。昔の阪急電車のアナウンスと同じような「ございます、願います」調です。②次に西村さんと同じ質問ですが、食堂車の準備や利用状況などのお知らせです。この件につきましては米手作市さんが戦後の拡声器の整備状況をよく撮影されておられ有難うございます。私も一般車内放送は聞いたことがありますが車内販売のお知らせ放送以外に細かい食堂車のチラシのような内容の放送はあまり聴いたことがありません。若し、放送設備がない時代のチラシならその出すタイミングなど大変だったと思います。③個人的にはリベット付きの3軸ボギー車の食堂車の時代で戦前か終戦後しばらくして落ち着いてきた時期ではないかと思っております。井原実さん昔の食堂営業会社状況有難うございます。
個人的な考えの進め方ですが、今の時代25年くらい前から採算とか経済効率ばかり言うようになり、若者がいう「コスパ」だらけになり、食堂車どころか寝台列車も無くなりました。
みかど食堂の時代は、戦後で言うWルーフのマシ29以前で、ホワシとかの和食堂車が連結されていたのは大正期かと思います。
日本が欧米と比肩されるために1、2等客があるこの路線と区間には「食堂車が要るから連結」で、そういった社会的法則性から、今日の鉄道シーンは遠く離れた自由競争の、一歩間違えるとレッセフェールの阿鼻叫喚のような呈をを晒しているように思えます。
撮り鉄が群がるのも鉄道に威厳が無くなったせいも多いのではと、個人的に見ています。
食堂車ってなんだろうと、幼い時から考えてきました。
鉄道の旅が非日常なら、ケとハレの違いの演出部分で、晴れの旅なら、庶民は駅弁を買い、小公子は紳士淑女に連れ立って、食堂車でテーブルマナーを教わり、幼い日の社会デビューに喜ぶ。そんなふうに私は、「かもめ」や「はと」の食堂車に思い出を重ねます。
今回の資料類を拝見しながら、半世紀前に思っていた推論が大きく外れていないような感想を持ちました。
そして現在の私は、駅中コンビニもホームの蕎麦も利用しながら、ひたすら青春18で親の郷里の先祖の墓に眠る両親の霊を慰めに、かつての特急で通った山陽路の車窓を眺めながら、この時代に生きる哀歓を、空いた区間のクロスシート車の窓に沿って、缶ビールと安くて手軽なコンビニ食で済ませて、遠い明治の山陽鉄道が切り拓いた列車食文化の長い道のりを思います。
それで文句が在ったらこんな時代は生きていけませんし、それでも新幹線は極力使わず在来線で往復するのは、公子は居士になっても、意地を貫いているのじゃないかと考えます。
出遅れてしまいました。東洋軒・精養軒・東松軒・みかど食堂は東海道・山陽本線の列車食堂を担当していたようですね。⑩のチラシに描いてあるのは東京駅のように見えます。これらのチラシが配布されたのは戦前で、日本食堂に統合される位昭和13年以前でしょう。
メニューの価格から昭和12年頃と考えられます。根拠となるのは鉄道ファン194号(1977年6月)に載っている、野村董氏の「東西食堂車ア・ラ・カルト」という記事です。当時の食堂車を利用された方の、体験が綴られています。
洋食堂車は一等車が連結された列車のみで、和食堂車は一等車の無い列車でした。昭和10年の時刻表には「燕」「富士」の特急と、下関行き急行7列車、神戸行き急行7列車の4本だけに洋食堂車が連結されています。特急でも一等車の無い「桜」は和食堂車です。当時の特急は庶民に縁が無く、一等車に乗れるのは限られた一握りの富裕層だったのです。そこで提供される食事も、一流ホテルやレストランと同等のモノだったのでしょう。食事のマナーはもとより、ドレスコードも要求されたと思います。洋食堂の夕食はフルコースで、完全予約制だったとか。
まだ旅行は一般に普及する以前で、庶民が乗るのは三等車です。駅弁さえも贅沢で、おにぎりを竹の皮に包んで持参するのが当たり前だったのでしょう。京都から福井へ行く列車の中で、駅弁を買ってもらったのが嬉しかったと母が述懐していました。昭和12年頃の話です。
紫の1863さん
博識の貴方がコメントをくださらないので心配しておりました。
貴重なお話です。洋食堂車と和食堂車で使い分けがあったのは知りませんでした。宮崎繁幹さんの資料は一級品ではないでしょうか?ありがたい限りと感謝しております。
ところで⑪のチラシについて宮崎さんは「京都➜大阪で食事は時間がないのでは?」と仰ってますが、私は「京都大阪までは未だ時間があるので、今のうちに食事をされてはいかが?」と言うように解釈しました。つまり下りが名古屋辺りを出発してこのチラシが配られたのでは?と思いますがいかがでしょうか?
なるほど、米手さまのおっしゃる通りかもしれません。私は、チラシの絵を見て汽車は、五重塔の京都から大阪城の大阪へと向かいつつあると思ったのです。そこで食堂車も、最後のひと稼ぎかな、と考えた訳でした。
「京都~大阪」だけでなく、上りの「横浜~東京」のチラシもありました。小田原前後あたりで配ったのでしょうか。
やっぱりナー!
米手さまの御説が、正しかったですね。横浜出てから、食堂車へ行ったんでは、カレーライスくらいならOkかもしれませんが、フルコース完食なんてのは、とても無理です!
宮崎繁幹さん、
おもしろいですね。
ここに投稿していただいたお陰でいろんな事が分かりました。三人寄れば文殊の知恵、とはよく言ったもので、これからも秘宝館の収蔵物をご開陳ください!
1954年の映画「つばめを動かす人たち」には放送装置が出て来ますから、食堂車のチラシ配布は戦前の文化だったのでしょうね。
https://m.youtube.com/watch?v=-rzDC0MatN0
wani様 「つばめを動かす人たち」のご紹介、ありがとうございます。確かに車内放送していますね。まだ名古屋以西はC62牽引の時代ですね。スワローエンジェルはC622だけではなくC6218にもマークがついていたこともわかりました。
wani様
「つばめを動かす人たち」思わず見入ってしまいました。
特別急行「つばめ」の存在は憧れでした。その「つばめ」をあたかも運転したり、車内風景やつばめガールの案内放送等で乗車気分にも浸れました。
牽引機がEF58、名古屋でC62に付け替えというのも凄いですね。
機関士さんや助手さんの仕事ぶりも見事に描かれていました。踏切でトラックとぶつかりそうなシーンには思わずハラハラしてしまいました。
酷暑の中、楽しませていただき有り難うございました。
食堂チラシの件で盛り上がりました。平成14年に発行された、かわぐちつとむ著「食堂車の明治・大正・昭和」によりますと、このチラシは「食堂車案内票」というのが正式名称のようです。最も古いものは、大正14年、北海道の松葉館のものだそうで、手札サイズの硬質紙に黒1色刷りの質素なものだったようです。その後、模造紙やザラ紙になる一方、カラー刷りや凝ったデザインのものが各社で作られて普及していったようです。当初は1等車、2等車だけに配られていたものが3等車にも広がったようです。一方で、記載内容に問題のあるチラシもあり、昭和4年7月14日付けで旅客課長より添付のような警告文が発せられています。この中で、和洋食の区別を明記すべしとされています。また当局に届け出たものしか配らせていなかったようです。
「柗」なる異体字が存在すること、そしてパソコンでも変換できること(投稿後にバケないか不安ですが)、ひとつ勉強となりました。
局報の「報」の字が異体字である(政府の発行する官報や、自治体の公報、国鉄本社の発行する鉄道公報なども同様)ことは知っておりましたが、こちらの文字はパソコンでは変換できない(登録されていない)ようです。
四国総局報の標題部分を、お目にかけます。
そういえば「鉃」もありましたね。
井原様、初めまして。
コメント、ありがとうございます。
「鉃」の字は確かにパソコンでも変換されるのですが、貼付のWebサイトでは異体字とは認識されていないようです。局報の「報」の異体字の方も同様です。「柗」の字は、パソコンでも変換され、かつ貼付のWebサイトでも異体字として認識されています。こうしてみると漢字も奥深いものと痛感いたします。
同じ意味の似たような漢字があるのは、昔々アホな官吏が書き間違えて、以後使わざるを得なくなって市民権を得たからであると教わりました。後世の学者さんもたいへんですね。