大阪市電751型

昭和20年3月14日、B29の大編隊が大阪を襲いました。今は亡き両親から何回となく聞かされた話の出だしです。

当時、両親は千日前にあった大劇のまえで写真館を開いていました。昼頃から始まった空襲は悲惨を極め、大劇の地下に逃げ込んだ両親は逃げ遅れて最後に地上に出たときは、すでに難波と千日前を結ぶ通りは炎のトンネルとなっていたそうです。何分かに一回、風が起きてトンネルの炎が上へ開くときがあるのに気づき、日本一(日本橋一丁目)の交差点へ出たときにはこの世のものとは思えない光景だったそうです。高島屋の前の石畳には亀の甲に似た焼夷弾が不発のまま突き刺さり、市電が何台も堺筋に並んで止まっていて、そのほとんどが骨組みだけになり、まだ燃えているものもたくさんあったそうです。父は、そこに落ちていた自転車を拾って母を後ろに乗せて祖母のいる八尾を目指したと言っていました。

今日の画を拝見して、両親からの話を改めて思い出しました。

※今回は、投稿者の手落ちで、保存に不備があり色が悪いことをお詫び申し上げます。

大阪市電751型」への1件のフィードバック

  1. 751形について少しだけ調べてみた。

    戦時中の昭和17年、休車中の散水車の台車、電装品を流用して局福町工場で車体を新製した車両で10両5編成作られた。
    当時としては大型車が欲しいところであるが、2両連結にして大型車並みの定員を確保しようと考えたものと思われる。戦時中にしてはこじんまりとまとまった軽快なスタイルである。
    沿線に工場がある鶴町車庫に配置され、工員輸送に使用されたが、本来単独で使用する直接制御車を無理に連結したこともあり故障が頻発したため、戦後は連結を切離して単車で使用され、昭和30年に廃車された。

    路面電車の連結運転は京都の2000形、2600形が有名であるが、こちらは朝のラッシュ時のみ連結して昼間は単独で使用されており、751形のような永久連結車は珍しい。
    吉谷先輩から詳しく正確な解説がお聞きできないのが残念である。

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