梅田貨物駅 138年の歴史終える

明日、16日はJRのダイヤ改正日、その前日となると、何かと心が騒ぎ出す。“葬式鉄”など絶対にしないと言い張っておきながら、その日となると、気もそぞろ、足はどこかへ向いてしまう。

関西圏では、183系電車の撤退が話題の中心だろうが、いよいよと言うか、やっとと言うか、梅田貨物駅の廃止も、地味ながらも大きな変更点だ。本日は梅田貨物駅の最後の記録に当てることにした。

130315_026梅田駅は17ヘクタールあり、ピーク時の貨物扱いは年間360万トンあったが、最近では114万トン/年まで減っているという。2年掛けて更地にされて売却されるというが、その利用法は百出されて、いまだ結論が出ていない

梅田の高層ビルから見下ろすと、そこだけ時間が止まったように、錆付いた梅田貨物駅の構内が広がっている。

その歴史は古い。明治7(1874)年、大阪駅の貨物取扱所として開設、昭和3(1928)年に、大阪駅から分離、貨物専用の梅田駅が誕生する。国鉄借金返済のため、国鉄分割民営化時に売却することが決まったものの、貨物拠点の移転先をめぐって紛糾し、なかなか進捗しなかったが、結局、吹田操車場跡地の吹田貨物ターミナル、百済貨物駅に分散移転することになり、明日16日から、この2駅での業務を開始することになった。梅田貨物駅そのものは、今月末まで営業するようだが、貨物列車の発着は本日が最終日となった。

130315_141「さようなら138年間ありがとう」の記念の看板が取り付けられた。138年とは、明治7年の大阪駅時代からの起算

130315_033ss入換はDE10の1500番代が担当、懐かしい突放の作業も見せてくれる

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成18年には、修繕施設などのあった東側部分が先に売却され、跡地には4棟の高層ビルが建ち、“グランフロント大阪”として来月、オープンする

130315_083西側に新大阪と大阪環状線を結ぶ短絡線(東海道支線)がある。「はるか」「くろしお」の通り道。地下地下線化、新駅設置の計画がある

130315_276貨物駅を印象付ける二つのドーム屋根、二本の線路がさらに手前まで伸びていた

130315_300陽が暮れて、背後の梅田のビル街が輝きを増すとともに、貨物駅は深く沈み、最後の貨物の発着を迎える

 

 

梅田貨物駅 138年の歴史終える」への4件のフィードバック

  1. 梅田貨物駅、思い出します。38豪雪で北陸線の小駅「福岡」には貨車の配給がなく出荷できなくなった。その時、伏木へ行ったら冷凍車が20両ばかり水揚げがなく留置されていた。交渉して回送してもらい15頓レムに10頓で梅田に送った。が、そこから九州、山陽方面は中継実績がなく止まってしまった。そこで入社2年の老人の出番となった。梅田貨物駅に赴き日通の関連会社である合同通運を紹介してもらい、大阪で配達をしてもらっている運送屋のトラックに便乗して、日通到着ホームから九州行きホームに製品を移動した。広い構内をウロウロする事1週間、京都へ帰ることなく京町旅館泊まり込みで中継役をやった。2月中旬以降は物流もほぼ順調となった。旦那に教えてもらった鉄道用語が役に立った。

  2. 総本家青信号特派員さま   昨日、梅田貨物駅に行かれたのですか。私もその前日にどうしても撮りたいところがあったので行ってきました。それは済生会中津病院から十三大橋の方へ少し行った阪急中津駅の所の道路と阪急電車がオーバークロスをしているところです。子供の頃に梅田に行く時ここを通ると下を走る蒸気機関車の煙がモクモクと道路の方へ来るのが面白く思っていました。また、梅田貨物駅は会社勤めをしている時、製品に不具合がありみんなで探しに行ったことがあります。そして、無事見つかりホットしたことを覚えています。大阪へ行くたびにステーションビルから赤茶けた貨物駅の大屋根と建設中の高層ビルを撮ったりしていました。佐竹さんの鉄道展の準備作業の帰りに高島屋京都に行き、梅ちゃん先生のジオラマ展を見て、会場で「昭和の大阪」という写真集を買いました。写真は産経新聞社のものを集めたものですが、これを見ていると写真による記録は重要であると認識した次第です。そして、祇園四条から京阪特急を待っていると旧3000系でした。その日は定期運行の最後の日でした。これも何かの縁と思い、丹波橋で近鉄に乗り換えるつもりを変更して京橋まで乗車して帰った次第です。

  3. 乙訓の老人さま、どですかでんさま
    コメントをいただき、ありがとうございます。
    旅客駅ではない、貨物専用駅のため、ふつうは何の接点もないように思うのですが、お二人とも、同じような仕事上の不具合で、梅田駅へ駆けつけられたとのこと、興味深く拝見しました。
    梅田駅が最後の駆け込み寺だったんですね。
    どですかでんさんの言われているオーバークロス地点は、いちばん上の写真が、その地点です。ただし、コンクリ塀の上に金網が張ってあり撮れません。そこで、塀によじ登り、さらに金網の上にカメラを差し出して撮りました。ここまでして撮る63歳はいないでしょうね。

  4. 須磨に侘び住まう老人も、梅田貨物駅にはいささかの郷愁がある。国鉄木製客車の末期―1955年ごろでは、木製車は救援車か配給車で、梅田には梅田用品庫があったから、何度か配給車を撮りに行った。放出用品庫には雑型が2両おり、内1両は「ある列車」の生き残りだったが、梅田配属は3軸ボギーの大型車が大方で、面白くはなかったが木製車には違いない。
    貨物の移動は当時さすがにトラックやオート3輪で、馬車は見なかったと思うが、馬用の水飲み場が残っていたのを記憶している。それもヨーロッパの町の広場などに残る優雅な石造りではなく、実用一点張りのコンクリート製だった。
    1940年代後半の観光課勤務時代、近畿観光都市連盟というのがあり、大鉄局旅客課が肝煎り、京阪神、和歌山、伊勢各市の観光課がメンバーで、毎年地方で観光物産展を開催していた。菓子や土産物などの展示即売をやるため、国鉄が有蓋貨車1両を提供し、梅田貨物駅まで持ち寄ると、業務用として無賃で送ってくれる。それはいいのだが、例えば秋田市での開催だと、貨車は梅田、吹田、米原、その先は良く分からないが恐らく富山、新津等で、列車をバラして編成替えをやる。そのため大阪を出て、秋田に着くのに確か数日を要した。おまけに秋田のヤードでその貨車が行方不明になり、かといって素人がヤード内を探し回ることもできず、半日かそこら開催地のデパートで待ちくたびれた覚えがある。その当時既にトラック便なら2日で届いた。
    菓子類の食物を出品する業者には、現地まで輸送に1週間はかかると告げておくと、業者は慣れたもので、製造日付を先付にして納品してくる。このため製造日付なんぞ全く信用できないものであることを知ってしまった。今だから話そうの類だが。

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