朝のラッシュ輸送が終わり入庫するデハ202/(43-9-7) 大橋
昭和30年前後の3大都市の最新鋭路面電車のラストとして東急玉川線デハ200形が登場した。
24年3月14日【18443】「連接車7」で準特急先輩が「東急デハ205」を紹介されており重複する部分があるが、当時玉川線に在籍していた他形式と併せて紹介する。
同線の撮影は、DRFC入会直前の昭和41年3月11日と現役時代の43年9月7日の2回で、その他に上野発夜行列車に乗るまでの時間潰し乗車が2回ある。
41年3月は渋谷駅の乗場が判らず、溝の口行の東急バスに乗り、適当に降りたところが三宿であった。ここで暫く撮影後電車で二子玉川まで行き渋谷に戻った。
朝のラッシュ時が過ぎていたため電車は全部単行で目的のデハ200形は走っていなかったが、30形から40形に改造したデハ52が撮影できたので満足した。
43年9月は前回の経験から朝のラッシュ時間帯に行ったため、デハ202と204の2編成と30形等他形式の連結運転を撮影した。
デハ200形(201~206)
昭和30年東急車両で201~206の6編成が新製された。当時としては画期的な超低床構造の車体で、中空軸平行カルダン駆動、HSC-Dブレーキ、応荷重装置等最新の設備を備えた高性能車両であった。関 三平氏も記述されておられる通り、先進過ぎた装備が仇になり、44年5月10日玉川線廃止時に廃車となり、デハ204のみ「電車とバスの博物館」に保存、展示されている。
富山、高岡、岡山の新型車がデハ200に似ていると思うのは私だけだろうか。
デハ202/(43-9-7) 大橋
デハ204/(43-9-7) 大橋
デハ30形(46~52→30~39→31~39)
前身の玉川電気鉄道時代、昭和2年に46~52を汽車会社、53~55を日本車輌で新製。17年の改番でデハ30~39となった。当初は2扉であったが、27年に中扉を増設、29年に車体延長と連結運転に対応して制御器の直接制御から間接非自動制御(HL)化が行われた。その際35は23の台車と交換して40形のラストナンバーの追番52に改番、トップナンバーの30が35に改番された。
(玉川電気鉄道は13年4月1日、東急の前身である東京横浜電鉄に吸収合併されている)
38/ (41-3-11) 三宿
34+33/(43-9-7) 大橋
デハ40形(56~66→41~51)
昭和3年56~61、4年62~66を日本車輌で新製。当初から3扉車で17年の改番でデハ41~51となった。
24年に下降窓の2段窓化、27年に車体延長とHL化が行われた。
30形と共に昭和初期のスタイルを残していたが、関西方面の電車に比べると窓が小さいためスマートさに欠けていた。
デハ47/ (41-3-11) 三宿
デハ51/(43-9-7) 大橋
デハ48+デハ47/(43-9-7) 大橋
デハ40形52(50→35→52) / (41-3-11) 三宿
前述の通りデハ35の台車交換により改番された車両。
デハ60形(71~75→61~65)
大正14年製の木製車31~35(31、32日本車輌、33~35田中車輌)を東京横浜電鉄時代の昭和14年に川崎車輌で鋼体化改造して71~75となり、17年の改番でデハ61~65となった。
24年に制御器のHL化と台車、主電動機の40形との交換が実施された。32年両端扉の2枚引戸と内側への移設が行われ、乗務員室に小窓が設置された。
デハ61/(43-9-7) 大橋
デハ64+デハ63 /(43-9-7) 大橋
デハ70形(71~78)
昭和18年に71~73、21年に74、75、19年に76~78を川崎車輌で新製した。車体は17年に完成していたが戦時中の資材不足で完成が遅れた。
当初から連結運転を考慮していたため、HL制御器を装備していた。
42年に「連結2人乗り」(2両連結で最前部と最後部の扉を乗車口、中扉4カ所を降車口)改造を実施して片運化された。
玉川線廃止後も世田谷線用として残り、車体更新、駆動装置の平行カルダン化が行われ、平成12年まで使用された。
デハ71/ (41-3-11) 三宿
デハ77/ (41-3-11) 三宿
デハ77(連結2人乗り改造後)/(43-9-7) 大橋
デハ80形(81~108)
昭和25年から28年にかけて28両新製され、主力として活躍した。完全な新製車は最初の81~86のみで87~108は木製車の鋼体化改造車であった。
新製(改造)当初からHL制御器を装備し、当時としては斬新なスタイルであった。
81~84は42年に「連結2人乗り」改造が実施され片運化された。
玉川線廃止後は、81~86と104~107が残り、85と86は両運のまま「連結2人乗り」改造を実施、104~107は87~90に改番されたが、「連結2人乗り」改造を実施しなかったため殆ど使用されず、45年に江ノ電に譲渡され、同社のデハ601~604となり平成2年まで使用された。
世田谷線に残った81~86は、車体更新、台車の交換、平行カルダン駆動化が行われ、平成13年まで使用された。
江ノ電デハ601(元デハ104→デハ87)が里帰りをして宮の坂駅前の宮坂区民センターで保存されている。
製造年と製造所は次の通りである。
81~84、87/25年日立製作所、85、86/25年東急横浜製作所、88~92/27年東急車両、93~102/28年東急車両、103~108/28年川崎車輌
デハ81/ (41-3-11) 三宿
デハ82+デハ81(連結2人乗り改造後)/(43-9-7) 大橋
デハ98/(43-9-7) 大橋
デハ85+デハ86/(43-9-7) 大橋
デハ104+デハ103/(43-9-7) 大橋
デハ150形(151~154)
昭和39年玉川線最後の新車として東急車両で4両新製された。車体は鋼製(耐候性高抗校張力鋼)であるがコルゲートされていた。但し性能的にはデハ200形から大きく後退して、釣掛駆動、HL制御であった。
42年に「連結2人乗り」改造が実施されたが片運化はされず両運のままであった。但し連結面は「連結2人乗り」に対応していないため先頭にでることはなかった。
全車世田谷線用として残り、58年から更新修繕で連結面運転台撤去、コルゲート部分のステンレス化等が行われたが、釣掛式のままで平成13年まで使用された。
デハ151/ (41-3-11) 三宿
デハ151/ (41-3-11) 三宿
デハ152+デハ151(連結2人乗り改造後)/(43-9-7) 大橋
デハ154+デハ153(連結2人乗り改造後)/(43-9-7) 大橋