第15日目 5月15日
① 延吉20:55(2038次)→9:06ハルピン
② ハルピン15:49(K7081次)→6:10東方紅
今日は小竹先生とご同行させていただく最終日です。14日間お世話になりましてありがとうございました。先生は12:57延吉発の夜行列車で大連に向かわれ帰国の飛行機に乗られます。一方の私は、夜の延吉発でハルピンへ、休憩してから午後の列車で東方紅へと2連チャン夜行列車の旅です。
午前中は時間があります。先生はかつて蒸気機関車が走っていた時代に撮った思い出の撮影地が今はどうなっているのか見に行きたいと申されますので一緒に参ることにしました。
今日は昨日のように大雨も降っていなくホテル前からTaxiをチャーターでき、約30分で目的地「三峰洞」に着きました。
先生は杏子の花が満開の小高い山を指さされて、あの頂上に立つと龍井を発車した蒸気機関車をフカンで撮ることができた。爆煙を吐きながら勾配を上ってくるのは素晴らしかったと思い出に浸っておられました.
しかし、降りられた駅がありません。しばらく歩かれて、確かここが食堂だった。他に食べる所がなかったのでしかたなく食べたが、不味かったなあ。でも駅前には人通りもあったと申されます。
駅があったであろう上には、工場もありますが既に閉鎖されていて、周りは廃墟と化して生活感はどこにもありません。
散歩に来られたおじさんに以前にあった駅のことを聞きますと、確かにあったが3年前に田舎の小さな駅は廃止するとの鉄道省からの指示が出て壊されて撤去された。改築もされて間もない駅だったのにもう跡形もない。
そこが駅舎のあったところだと申されます。確かに石積みが残り建造物があった名残が確認できますが、消えた駅でした。
中国鉄路は各地で建設ラッシュを迎え総延長10万キロを超えていますが、本線やローカル線の小さな駅は、のきなみ閉鎖され廃駅となっています。
地方の小さな町や村々を結ぶ交通手段は整備された道路を走るバスへとシフトされています。
多くの中国鉄ちゃんが度々降りられた、この三峰洞駅は中国鉄路の合理化により忽然と消えた駅になっていました。
先生は、呆然と見ておられましたが、横をレールバスを両端にした保線車両が走り去っていきました。
準特急様からコメントをいただいておりました駅です。
まだ写真の整理前で、グーグル地図を見て安易にまだ健在と答えてしまっていたのですが、改めてPart16を編集する際に小竹先生に聞いてみますと訪問した駅が三峰洞駅でした。
よく確認せずで、まことに申し訳ありません。
[googlemap lat=”42.81092357650021″ lng=”129.38225269317627″ align=”left” width=”250px” height=”150px” zoom=”16″ type=”G_SATELLITE_MAP”]吉林省 延辺朝鮮族自治州 三峰洞駅[/googlemap]▲ これが思い込みに走らせた三峰洞駅のグーグル地図です。ご覧のように駅のホームがあります。
まさか3年以上も前の写真とは思いもよりませんでした。
※ 地図の左下のGoogle文字をクリックください。
約30分ほどで先生の思い出の場所を去り龍井の町へと戻りました。龍井は吉林省延辺朝鮮族自治州の州都「延吉」と北朝鮮「会寧」と国境を接した町です。人口は約29万人で内、朝鮮族が69%を占める、朝鮮族の町でもあります。
中朝の国境を語るに最も重要な朝鮮族について、今まで知らなかったその歴史を調べてみました。
【 中国朝鮮族の由来 】
現在、中国延辺朝鮮族自治州を擁する吉林省、さらに遼寧省、黒龍江省からなる東北3省に住んでいる朝鮮族は約200万人弱、人口の約4割を占めていますが、元々はこの地に住んでいなかった民族です。
移住した中国朝鮮族、その歴史は清朝初期に遡ります。
中国や朝鮮の歴史は複雑で私もよく分かってはおりませんが、朝鮮半島北部に住む朝鮮族が満州の地にやってきたのは15世紀頃です。女真時代に戦争捕虜、連行された民間人、移民等で移住させらたのが最初と言われていますが、詳細な歴史が記録されているのは満州族が建立した清朝初期からになります。
豆満江を挟んで満州と朝鮮が位置していましたが、広大な平野が広がる大地の満州と地形上険しい山岳地帯の朝鮮北部とは、農作をする上で雲泥の差がありました。そのために朝鮮族は豆満江を越えて対岸の満州の延辺地域に耕作地を造り、水田稲作作業を続けていましたが、1644年に都を瀋陽から北京に移した清政府は1677年には鴨緑江、豆満江の北岸一体と、間島地域は満族の発祥の地として封禁令(立入禁止令)を出し、流入を禁じ、違法者は厳しく罰し送還しました。
しかし、一旦はもとに戻された朝鮮族でしたが、狭くて痩せた朝鮮の土地と、常習的となっていた飢饉に耐えきれずに肥沃な豆満江の中洲の島(間島)へと、密かに川を渡り空いている土地で農作業を日帰りで行い、やがては隠れての定住生活を送ることになりました。そして、1860年代以降に続いた朝鮮の大凶作によって朝鮮族は、厳罰を覚悟で生きるために先を争って豆満江、鴨緑江を越えて豊かな満州の地になだれ込んできました。次第にその数は増え続けていったと言います。
封禁政策は200年間続き、東北辺境を荒廃させていく現実を知った清政府は、今度は朝鮮族を活用しての延辺の開墾へと方向転換をします。
1882 年には、朝鮮罹災民の荒蕪地開墾を許可、1883 年には朝鮮移住民の「専門開墾地域」を許可設定される事となり、一気に殆どの貧民農民が大挙して押し寄せることとなりました。朝鮮移民は前人未踏の草地、、林地や泥沼を開墾して水田を造り、氷の浮かぶ川の中に入って堰を築き溝を掘り、肥沃な大地へとに変えていきました。
1905 年、日本は日露戦争後、南満州に勢力を広げたが延辺にも勢力を伸ばし、1907 年龍井に「韓国統監府間島派出所」(後の間島日本総 領事館)を設置しました。「間島」の朝鮮族の生命財産の保護を名目として、公然と「間島問題」に関する国境事件を作り上げて駐屯、思うがままの活動を行うようになり、朝鮮族は管理下に置かれました。
朝鮮総督府は朝鮮半島北部の朝鮮族を強制的に送り込み、満州国は開拓のみならず、発展に必要な各地の炭鉱・鉱山、製鉄所で強制的に働かせました。
400年以上前から移民としてこの地に来た朝鮮族は、1932年満州国の建国により朝鮮半島と全東北を支配し、搾取を続ける日本帝国に対し抗日戦争を起こし、その後の国共内戦、また朝鮮戦争を戦い抜きました。(※ この辺りの歴史についての詳細は、下記の参考資料朝鮮族のウェブサイトにありますので、お知りになりたい方はご覧ください。)
朝鮮戦争では、国共内戦において寝返った元国民党軍兵士と共に国への忠誠心を試されて中国義勇軍の兵士として最前線に立たせられています。前進だけを命じられて逃げて後退すれば、後方からの正規軍が銃殺したとも言われています。
毛沢東は、かつての国民党敵軍兵士と満州に移住した朝鮮族を信頼出来なかったようです。元国民党の兵士の殆どはここで命を落とし駆逐されています。血で固められた中朝関係とかっこよく言われますが、実は駆逐と対反共への一石二鳥の作戦でもありました。
終戦後その功績を称え、1949年中華人民共和国成立後の1952年に延辺朝鮮族自治州が成立し、朝鮮族は1 つの少数民族として認定されましたが、朝鮮族の約半数は北朝鮮に戻っています。
現在の朝鮮族は朝鮮独立後に満州に残留した末裔が多いようですが、漢族と結婚したりで年々その数を減らしています。異郷の地に移住し壮絶な戦いを生き抜いてきた朝鮮族ですが、今度は漢族からの上から目線で扱われてもいます。朝鮮族の戦いは今も続いています。
参考資料;中国朝鮮族の由来
http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/tyousenzoku.PDF
朝鮮族ネット;朝鮮族近現代史 1~94
http://www.searchnavi.com/~hp/chosenzoku/history/
▲ 立ち寄りました龍井駅は取り壊されていて新しい駅舎に建て替え中でした。下は時刻表ですが、始発と終着の各2本だけです。なぜに延吉まで行かないのか考えてみましたら、問題は一つありました。下の路線図をご覧ください。和龍から来た列車が龍井に入線しますと機回しをして朝陽川へ向かわなければなりません。そして朝陽川に着きましても同様に延吉に向かうには機回しが必要です。一駅ならまだしもわずかな区間で再度機回しをするスイッチバックの駅になっているのは面倒なことです。この区間だけ補機を付ければ乗り切れますがそこまでしても利用者がないのが要因かも。
▲ 工事中の龍井駅横には、ちょっと古っぽい建物がありました。龍井に最初に走った天図軽便鉄道時代の遺跡が残っていないかと探索していました。これがかつての駅舎か本社かなと色めきたちましたが、鉄道員や周囲の方々に聞き取りを行っても確証は得られずでした。
[googlemap lat=”42.764579419658666″ lng=”129.41948175430298″ align=”right” width=”200px” height=”200px” zoom=”16″ type=”G_HYBRID_MAP”]吉林省 延辺朝鮮族自治州 竜井市[/googlemap]▲ 1926年5月に建てられた間島日本総領事館です。現在は、龍井市政府(市役所)として使用されています。
数万人にも及ぶ反日運動の朝鮮族が拷問を受けた地下室も展示されていますが、案内はしてもらえませんでした。きっと案内もしたくない壮絶な部屋だったのでしょうね。
▲ 領事館横には総領事の住居跡も保存され、使用されていました。
玄関前の庭には当時に植えられたであろう桜の木が残り、丁度散りぎわを迎えていました。
▲ 11:34、先生の列車の時間がありますので延吉市内の冷麺チェーン店「順姫冷面」で昼食です。本場ものは確かに美味しいのですが、麺の量が半端じゃありません。おまけに1本麺のように長くて口中で切るのに往生しました。
残念ながら完食出来ずでした。
食後は大連に向かわれる先生を延吉駅までお送りしました。長い間、ご同行させていただきましてありがとうございました。また次回を楽しみにしております。
崔さんとホテルに戻って、夜行列車が出るまで部屋の延長をお願いしました。18時までは半額の宿泊料です。部屋にはPCもありインターネットも通じていますのでゆっくりするには快適です。のんびりとした時間を過ごしました。
▲ 18:20、部屋をチェックアウトして、崔さんお奨めの北朝鮮経営のレストラン「柳京館」に一人でTaxiに乗って行ってみました。
「喜び組」にはちょっと遠いですが、愛想の良い美人のお姉さん方が注文を日本語で聞いてくれます。
日本料理を無性に食べたくなっていましたので、注文したのは、定番のカレーライスとうどんですが、味は日本と同じです。美味しくいただいた後はショーターム鑑賞です。今日は18時50分から始まりました
▲ 大して広い部屋ではありませんが、逆に観客からは近く歌が始まると熱気に包まれました。日本人は私だけでしたので日本の歌は披露されませんでしたが、多いと歌われるそうです。約30分余り歌謡ショーは続き終わった頃にはそろそろ延吉駅へと向かいました。
▲ 19:44、延吉駅に到着しました。
1924年11月天図軽便鉄道開業時に建築された駅でしたが、1932年に2代目に改築、2004年11月に新たに3代目の駅舎として建て替えられました。
綺麗な軟座待合室に入りゆっくりと改札を待ちました。
これから東方江まで2泊3日の乗り鉄旅が始まります。どんな一人旅になるやら楽しみでした。 Part 17 へ続く
対岸からであっても将軍様の鉄道の実態がわかるように思います。将軍さまの鉄道に日本が残した電化線は直流3000Vだったと思います。中国側の電化区間は東北地方にまで伸びていないように思いますが、届いていても現代の中国製電機は入線出来ず、機関車事情は困っているでしょうね。そのような中でブースター代用で客車に細工を施したのはよいとして、絶縁関係はどうしたのでしょうか。ぷるぷるさんご存命なら「俺ならこうする」と、HO相手でやってくれたかも知れない。将軍様の手元に残った電機、モータはへたろうがコイルを巻き替え再使用ができる。もともと重連仕様であったから制御器も整備したら何とかなったであろうと想像している。いや参った。それより北朝鮮の歴史の話、一度勉強してみたい。親父は我々一族は北朝鮮沿岸から流れ着き、土着民族に追われて大和の山中に居ついた、との言い伝えもあると言っていた。
乙訓の老人様、コメントをいただきまして、ありがとうございます。
北朝鮮との国境の橋を書くにあったってちょっとだけ朝鮮族の歴史について本やネットをみてかじっただけでお恥ずかしい限りですが、それでもこの民族は大国の政策や厳しい自然環境の流れの中に翻弄されているように感じました。今や援助をもらえるのは中国だけでそれも恵まれた鉱物資源目当てが本音で、政治的異変が起こればどっと流れてくる難民を避けるために生かさず殺さずの援助に終始しているようです。金銀銅・鉄そして注目を浴びるレアメタル、マグサイト、ウランはどれをとっても世界最大の埋蔵量だそうです。
これだけの資源があるわけですから瀬戸際外交を続けなくとも広く解放しての資源の開発売り政策に転ずれば十二分に食っていけ、豊かな国として近代化を図れるように思えるのですが、なぜにそうしないのでしょうね。
日本統治下時代に築かれたダムによってかつては水力発電大国でもありました。鉄道の電化率は80%にも達していますが、ダムの堆積は除かれず発電所の近代化はされず電力不足に陥り鉄道の稼働率は落ちる一方です。見た列車は4日に1回ぐらいしか走っていないそうです。それと電化は直流3000Vで間違いありません。
丸谷さんからもメールが届きまして北朝鮮視察への手ほどきを受けました。現在の緊張状態が和らぎましたら機会をつくって自分の眼で実態を見に訪れてみたいと思っております。
七歳まで北朝鮮会寧で暮らしました。小高い自宅の下は、草原が広がり、鉄道が走り、大きな川が流れて、その先には壮大な草原が広がり、冬はその川が凝ってしまいまうと、日本人の子供たちはそこでソリやスケートで遊び、その先には日本軍の飛行場がありました。日本軍に物資補給の会社をしていましたので、機密の資料や物資があったのでしょう。毎夜サーチライトで照らされていました。
家族の友人である山の中の朝鮮人監獄所の所長は、引き上げの途中河原に引きずり連れてゆかれ、棒で足も腰も滅茶苦茶に叩かれて杖にしがみ付きながら家族を、追いました。若い母親は乳飲み子が鳴くと周りに迷惑が掛かるので子供を滝つぼに捨てたり、ひどく悲しく辛いことばかり心に残り思い出しては涙します。なぜか、会寧の地図を開き息を止めるようにして、この辺りだったか?・・・と探すのです。
奪ったものは、奪い返される様になっているのに、何故奪い合うのでしょう。
生々しい悲しいお話ですが、貴重なご体験談をお聞かせいただきましてありがとうございます。
人間を悪魔へと変身させてしまう戦争はやってはならない大事な事です。「奪ったものは、奪い返される様になっているのに、何故奪い合うのでしょう」のお言葉通り、島の問題も同様と思っております。
中朝国境には度々訪れておりますが、会寧には飛行場があッタのですね。戦争時の地図を参考にしながら中朝国境を振り返ってみたいのですが、残念ながら昭和15年以降の地図は発行されなかったのか見ることはありません。この辺りの鉄道は大きく変わり、かつての路線は残っていません。延吉付近は高速鉄道のコンクリート橋脚が立ち並び、最高速度250km/hの高速電車が走る様に変貌してきています。