2013年 春の中国鉄路の旅 Part9 北朝鮮国境沿いの鉄路 その3 集安から丹東へ、水豊ダム

第10日目 5月10日
① 通化BT7:31(Bus)→11:40長甸
② 長甸(マイカー)→水豊ダム→上河口→丹東

今日はホテル横のバスターミナル(汽車站)から丹東行き長距離バスに乗って途中にある長甸にある次の北朝鮮との国境の橋へと向かいます。
鉄路&バス_比較_縮小1▲ 集安から長甸までのルートは鉄路も考えられない事はありませんでしたが、最短距離に鉄道は現在敷設されていなく、上のルート地図のように大きく迂回しなければなりません。3本の列車を乗り換えての所要時間は約24時間とバスの約4時間と比べると雲泥の差がありますのでバスでの移動となった次第です。
バス路線HP用▲ 地形図から見たバス路線です。鴨綠江に沿って走り、途中からは山間を走行します。高速道路はありませんので全線一般道です。
切符はすでに買ってもらいました。今日は天気も良くなさそうですので、ゆっくりとバスの乗り鉄旅です。長甸までの移動距離は約190キロ、所要時間は約4時間です。

01_バス切符▲ バスの切符ですが、保険料(1元=約17円)まで付いてきました。56元+1元=57元(約960円)が運賃になります。
朝起きると外は雨模様でした。1日ずれなくて良かったですね。ホテル食堂で朝飯を食べてからの出発です。

02_朝食202_朝食1

品数は豊富ですがたいして美味しそうではない我々が2日間食べたホテルの朝食です。
こんな粗食の日が毎日続いていますので、食べ過ぎはなく、糖尿病持ちの身体にはとてもいい具合で長い旅の間は健康そのものでした。

01_basuta-minaru01_BT201_BT1_1▲ バスターミナル内です。国鉄駅待合室の4倍近くありますので広々とはしています。
ここから吉林省と遼寧省の各都市への路線網があります。1日に発車する5時から17時までのバス本数は74本もあり、国鉄駅の1本とは比べられません。これを見ましてもローカルでの人民の足は、鉄道からバスにシフトされているのが分かりますね。
01_BT路線図01_BT時刻表01_BTバス▲ 乗車する丹東へと向かうバスです。長時間乗るのでマイクロバスではちょっと心配と思っていましたが、大型バスで安心しました。

7:30、定刻に発車しました。乗車率は約40%と空いていました。これならゆったりのバスの乗り鉄旅が楽しめます。

01_BTバス201_BTバス301_BT4▲ バスは山あいの道のりを谷や川を越えて走行します。片側1車線の道路が続きましたが、道路幅も十分あり舗装状態も良好で、信号もありません。また走行している車は少ないので快調に飛ばします。
全区間を通して乗車する客は少なく、むしろ短区間を乗車する客が多く見受けられました。道端で手を挙げれば止まり、車内から声をかけられると止まって降ろすといった具合で、住民に密着した路線バスでもありました。

今日の外温は15℃。車内は空調付きでしたが、暑くも寒くもなく快適な車内でした。

11:40、長甸に無事到着、ここで丹東からおいでになるOさんの到着を待ちます。Oさんは昨年末に開催された小竹先生との例会で面識がありました。奥さんが丹東出身の方でたまたま実家にご家族と里帰りをされているという事で一緒に撮りに行こうとなったそうです。また、丹東に来られたのなら是非に実家にお泊りくださいとお招きいただきました。
03_昼食▲ Oさんは昨日まで元宝山のSL撮影に出かけておられたとのことで帰りの列車が遅延したので、こちらに着かれるのも遅れると連絡がありました。お待ちしている間に昼食をとることにしました。味噌豆腐鍋と地元の鮒料理です。鮒は琵琶湖の鮒ずしを時折食べますが、煮付けとなると大昔に食べたぐらいです。久しぶりですが、身の付きも良く美味しくいただきました。
食事が終わりOさん一行が来られる頃には、雨もあがって青空の撮影日和となってきました。

05_国境の橋105_国境の橋2路線図_平北鉄道国境の橋_路線図▲ 13:41、我々が直ぐに向かったのは、昨年11月にも訪れました北朝鮮との国境の鉄道橋です。
この鉄橋の北朝鮮側の駅は青水駅です。現在は北朝鮮鉄道平北線となっていますが、元々は日本統治時代に平北鉄道(株)として建設されました。

【 平北鉄道 】
この鉄道は、鴨綠江をせき止めての水豊ダム建設にあたっての人材や物資を輸送するためと、平安北道奥地及び沿線一帯の農業、林業、地下資源開発などの産業・経済発展のために国策的使命を負って計画されました。昭和13(1938)年9月27日に京義線定州から青水(鴨綠江中心)間115.1キロ、動力蒸気軽油併用の鉄道敷設免許を取って工事が着手されています。建設工事は急ピッチで進み、昭和14(1939)年10月1日に定州~青水121.6キロと枝線の富豊~水豊2.5キロが開業しました。昭和15(1940)年10月1日には富豊~水豊湖岸4.1キロも開業となりました。
しかし、水豊ダムの水力タービン輸送はあまりにも大き過ぎて車両限界をオーバーしたために再度、線路の土手やトンネルの穴を大きく削り直して輸送したとのエピソードも残されています。
07_上河口、国境の橋、平北鉄道路線図
将来的には鴨綠江を渡り満州の鴨北鉄道と接続して通化まで延伸される予定でした。このための国境の橋は、昭和13年6月に平北鉄道により着工されています。厳寒期のコンクリート打ち工事は全防寒設備によって保温されて行われていました。また橋桁トラスの最後の架設は氷上に足場を組んでの作業となったため最終工程時の解氷期には大きな困難があったそうですが、翌14年7月に竣工されています。これは、平北鉄道全通に先立つ完成です。

対岸の中国側鉄路は満州国時代に橋からの工事が始まり路盤工事まではできてはいたのですが、そこで終戦を迎えてしまっています。その後、朝鮮戦争時にロシアにより線路は敷設されましたが列車が走ることはない路線として放置されています。中国側により2006年10月に接続する上河口~長甸の建設も終わっていますが、この鉄路も昨年6~9月に臨時列車が走ったきりです。

危険を冒してまでして先に完成したこの橋が使用されなかったとは思えません。かと言って対岸の路線は直ぐに左へ曲がりトンネルに入って、水豊ダムとは反対側に伸びています。私の推測ですが、水豊ダム建設に伴う中国側への資材運搬のために対岸までの輸送は行われていたのではと思いますが、どうでしょうか。
前回掲載しました、2012年冬の中国鉄路の旅 Part2 国境の橋もご覧ください。

では、前回は訪問しなかった水豊ダムとはどんなところなのか行ってみました。
06_水豊ダム1▲ 14:10、中国側から見た水豊ダムの全景です。対岸の北朝鮮側に水力発電所が見えます。

[googlemap lat=”40.459225675599804″ lng=”124.96244430541992″ align=”left” width=”300px” height=”200px” zoom=”13″ type=”G_HYBRID_MAP”]遼寧省 水豊ダム[/googlemap]【 水豊ダム 】
朝鮮半島が日本の統治下であった昭和12(1937)年に満州国と朝鮮総理府は重工業化を目指すための電力確保の一環として、鴨緑江を堰き止めての水豊ダム建設を決定し工事が開始されました。

水豊ダムは、重力式コンクリートダムで高さ106.4m、長さ899.5m、堤体積311万㎡(黒四ダムの約2倍)を誇り、10万5000Kw発電機(東芝製5台、シーメンス製2台)7台を備える約70万Kw(実際はシーメンスからの1台が届かず6台の約60万Kw、黒四ダムの約2倍)の発電能力は当時世界最大級でした。

湛水面積は琵琶湖の約半分、霞ケ浦の2倍で、建設費は東京~下関を結ぶ弾丸列車計画とほぼ同額だった事からしても巨額な投資がなされました。費用は当時朝鮮半島でも一大重化学企業であった朝鮮窒素肥料(朝鮮窒素)(現在のチッソ)が負担したそうです。
工事は満州国側(流筏設備、鴨北鉄道)が西松組、朝鮮側(水豊発電所、平北鉄道)を間組、道路工事を松本組が担当して始まり、昭和16(1941)年9月28日に一部発電が開始され敗戦真近の昭和19(1944)年3月に完成となりました。のべ人数約3,000万人強の工事労働者には朝鮮人や中国人が強制動員させられ劣悪な条件のもと、数100名と言われる多くの犠牲者を出しての完成でした。発電された電力は満州国と朝鮮総理府の半分づつ送電されていました。

1945年8月9日のソ連侵攻によって発電機5台が略奪されましたがその後に復旧されたようです。朝鮮戦争勃発時は、国連軍の爆撃にあいましたが堅牢な水豊ダムは破壊できず完成後約69年経った現在なおも北朝鮮と中国が半分づつを分ける重要なエネルギー源として寄与しています。
06_水豊ダム4

06_水豊ダム208_国境の橋_温度▲ ダム下の水豊の町です。手前の橋は道路橋、奥が町から水豊ダムに向かう鉄路で山には何かスローガンが掲示されていますね。

4:34、さわやかな日差しと緩やかな風が気持ちの良い午後でした。ダム建設で犠牲となられた方々のご冥福を祈りながら山を下りて、国境の橋の袂へと向かいましたが、この旅で最大のピンチに見舞われました。

07_青水付近の民家▲ 15:06、国境の橋近くの対岸、アンズの花が満開の北朝鮮の民家です。写真を拡大していただければお分かりのように小舟が3隻みえます。川で漁をする船なのでしょうか。

08_青水駅▲ 前回も撮りました青水駅です。今回は客車とDLの姿はありませんでした。

08_国境の橋2_edited-1▲ 遠くに橋を見られる岸辺には何やら養殖いかだがありました。道端には「三文魚銷售処」と書いた看板がありました。三文魚=サーモンですが、多分、マスでしょうね。小竹先生は現物確認をしたいと果敢にも揺れる板橋を渡って見に行かれました。
08_国境の橋08_国境の橋3
▲ 15:38、近くから撮ってみようという事になり撮っていましたら、橋を管轄警備する若い兵隊に見つかってしまいました。「橋は撮影禁止です。写真は消してください」と言うので、分かりました石碑は良いですねと撮ってから車に入りますと、今度は上官らしき兵隊が出てきて、車から出なさいと睨みつけます。
後で小竹先生は石碑を撮ったのは余計だったなあ、長居をし過ぎたと申されましたが、後の祭りで5名の兵隊に取り囲まれて撮った写真DATAの消去を全員やられました。そして身分書、パスポートの提示も求められての調査もありました。仕方ありませんね、悪いのに見つかってしまったからには観念です。この写真は難を回避しましたが、どういうこともない写真なのですが・・・。

09_上河口駅
▲ 16:20、前回もお邪魔してこの鉄路についての歴史を語っていただいた老夫婦が住まわれる旧上河口駅舎に参りました。老夫婦は、早い再会に大喜びで歓迎してくださいました。

今日の撮影はこれで終了です。この後丹東のOさんの奥様の実家へと向かい小竹先生と一緒に2日間ごやっかいにならせていただきました。まだ旅の途中ですが、疲れを取ることができました。ありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。
  Part 10 へ続く

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