C5756 急行「大和」を曳く 投稿日時: 2013年7月9日 投稿者: tsurukame 待っていました、C57特集。ご希望のC57牽引「大和」です。遠くて機番が見えませんが、記録ではC5756になっています。なお、筆者保存のC5756はこの画像一枚きりです。 1965年2月28日、急行203レ、場所は関西本線加太-中在家信号所間です。 関連記事: 撮影地今昔-関西本線・加太 C5756急行『大和』を曳く(続)
tsurukame様 私の方こそ待っておりました。この写真です。当時の蒸機急行は遠く北海道か九州がその主な活躍場所でしたが、関西圏にもこのような素晴らしいシーンがあったのですね。203列車急行「大和」は加太駅を7時10分過ぎに通過して峠に向かったので、多分、前夜に加太会指定旅館「村田屋」に宿泊し、暁の決闘に挑まれたことと思います。有難うございました。 返信 ↓
tsurukame様 加太越えのすばらしい写真ありがとうございます。当時の優等列車は旧国名が数多く使われ 旅愁をさそったものです。「やまと」・・・いい響きです。ところでこの写真を拝見し、客車が6両なのでC57単機で大丈夫だったのでしょうがいつも6両だったのかが気になり 手元に唯一残っている古い時刻表を見てみました。撮影された1965年より更に古い1961年6月号です。201レ大和は東京駅14番線を22:45分に出発します。5分前に向かい側の15番線を25レ出雲 浜田・大社行きが出発し 大和が最後に出発する長距離急行です。編成表を見ると 先頭からニ、ネB、ハネ、ハネ、指ロ、ハとなっておりここまでの6両は名古屋までで このうしろに湊町まで行く9両が続きます。即ち東京駅を出発するときは15両です。多分EF58が牽いたのでしょうが 重量級の客車15両は楽ではなかったことでしょう。さて早朝5:31分に名古屋に到着します。前6両を切り離し、最後尾にC57が連結され9両が逆向きで5:43に関西線に出発します。時刻表には「名古屋駅で切り離される寝台車は6:30まで使用できます」と注記があります。約1時間はホームに留めおかれたようです。冬場なら暖房も必要ですから機関車も一緒だったのでしょう。何かと問題をかかえた国鉄だったとは言え、乗客のことを考えた留置サービスもあったことを知りました。さて関西線に入った9両ですが 先頭からハ、ハ、ハ、ハ、ハネ、自ロ、指ロ、ネB、ハです。写真を撮られたのは2月ですから 閑散期で5両なのか、61年当時は9両だったが利用客が減って65年当時は5両になっていたのかは判りません。5両の客車の形式が白煙に包まれてよく判りませんが、ナハのようにも見えます。ちなみに大和に使われたB寝台はマロネ41とオロネ10となっています。多分マロネが名古屋まで、加太越えはオロネだと推察します。東海道を下る客車急行の中では食堂車のない田舎急行だったのでしょうが、線路のつながっていた本州、九州のなかで東京から直通列車の無い県庁所在地は山口と和歌山だけでした。奈良は「大和」がありました。いろんなことを思い出させて頂けた1枚の写真でした。 返信 ↓
急行「大和」となるとすぐ反応してしまいます。高校生の時、クラブの合宿で信州方面に行く為に上野から高崎線、信越線で行くことになりました。上野駅で乗る列車の時間に間に合うようにいろいろ考えた結果、天王寺から急行「大和」となりました。顧問の先生に天王寺から乗ることになったことを連絡すると、変わったルートで行くんやなと言われたのを覚えています。この時の切符は普通の周遊券で近ツリの淀屋橋営業所で購入したもので、今もその指定券が残っています。「大和」の文字は手書きでなくゴム印で押されたものです。ゴム印があるのであれば利用者が結構あったのではと思います。そう言えば一人だけ顧問の先生が寝台を利用することになったのですが、天王寺からの寝台は満席で和歌山から来る王寺駅で併結する寝台車を予約しました。私の持っている指定券には14号車となっていました。この時はC57でなくDF50でした。1968年8月5日の乗車でした。そして急行「大和」は1968年10月のダイヤ改正でなくなったのでした。西村さんのおしゃるように急行「大和」は言葉の響きが私もいいと思います。だから、いつまでも覚えているのだと思います。tsurukameさんの写真も朝の空気感が感じられ、いい写真を見せていただきありがとうございます。ちょっと逆光ぎみなのでしょうか。左側のうしろから朝の太陽の光があたって、列車が輝いているようです。ネットで調べてみると1965年10月からDF50になったようです。メジャーな急行列車ではありませんが、私にとっては存在感のある列車でした。 返信 ↓
遙か昔の現役時代、8㎜が貴重品だった時代に大阪在住のバッタ先輩から「秘密の映画をみせたろか?」と声をかけられておずおずとついて行ったところ、天王寺駅を出発する急行「大和」の勇姿を見せられたことを思い出しました。この牽引機がC57でした。暗くて、露出不足の画面でしたが貴重な映画でした。もう一度見てみたいものです。 返信 ↓
どですかでん様 実は私のコメントの中で 確か1両だけが和歌山へ行っていたかすかな記憶がありつつ 確証がないので県庁直通がないのは山口と和歌山と書きました。和歌山行きがあったことを紹介して頂きありがとうございます。すっきりしました。天王寺からの寝台が満席というのも意外です。東海道線の夜行がとれないとき、大阪の玄人さんは大和を利用したのかも。いいお話をありがとうございました。 返信 ↓
西村様 寝台車が混んでいたのは夏休みの為かもしれません。この大和号は名古屋で列車編成が長くなりますが、名古屋での増結ではないようです。たぶん、名古屋は夜中のはずですので。私も知らなかったのですが、ネットで調べているとどうも金沢からの急行「能登」号を併結していたようです。能登号が米原経由東海道で東京行だとは知りませんでした。この急行「大和」は変遷が面白いようです。しかし、和歌山-王寺間は普通列車で、正確に言えば和歌山-東京間の直通寝台客車で、直通列車としてはなかったということになるのでしょうか。とにかくこの時の急行「大和」は東京駅に朝の6時に着くのですから、早くなく、遅くなくちょうど良い時間に東京に着く列車だったと思います。実はこのことが私が急行「大和」を選んだ理由のひとつでした。 返信 ↓
準特急様、西村様、どですかでん様、皆様へ 楽しいコメントをありがとうございます。C5756の画像が1枚きりと書きましたが、記録帳を見ると他にもあり、フィルムを取り出しました。しかも同じ『大和』で、1964年12月6日加太会発祥の日の撮影です。ただ、12月ですから夜明けが遅く、同位置でも暗くて今回のように客車が見えません。拙著HPにも使っていない画像ですが、改めて投稿します、ご覧ください。 ところで、西村さんが1961年の『大和』を詳しく説明して下さいました。私の手元には1964年10月の時刻表があります。新幹線開業時並びに『大和』撮影当時のモノです。『大和、伊勢、那智』は上り、下りで編成が異なり複雑ですね。 【下り】東京を『大和・伊勢』14両(荷物車1両は別)で出発。名古屋で荷物車と2両を切り離し、12分後12両逆編成で亀山へ。亀山で鳥羽行き『伊勢』6両と湊町・和歌山市駅行き『大和』6両に分かれる。さらに王寺で湊町行き5両と和歌山線経由和歌山市行き519レ1両に分かれて夫々の地へ。このように65年加太の撮影時は、61年当時より短く、前からハネ3両、ロネ(B寝台)1両、ハネ1両(以上湊町行き)、ハネ1両(和歌山市行き)でした。 【上り】もっと複雑です。和歌山市発528レのハネ1両が、王寺で湊町発『大和』5両を後部に併結、さらに奈良で後部にオール・ハの『南紀観光号』を併結します。亀山では併結しません。名古屋では、発車80分前から使用できるハネ・ロネ各1両と荷物車を前部に併結、逆編成で『大和』として東京へ。下りで併結されていた『伊勢』は、上りでは多気で『那智』と併結、名古屋でハネ・ロネ各1両と荷物車を前部に併結、逆編成で『那智・伊勢』として東京へ向かっていました。 返信 ↓
恐れ入りますが、お知らせいたします。 tsurukameさんは、交通公社の時刻表1964年10月号p.121の上り「大和」の名古屋駅の注記(「名古屋で連結される寝台車は22時30分から使用できます。」)をご覧になってコメントをお書きになったようですが、この注記は誤植なのです。ダイヤ改正で、名古屋駅で上り「大和」に増結するのは、p.553「主な列車の編成表」のとおり「ハザ」2両(①+②)になりました(ハザ①の外側の荷物車がどこで連結されるのかは不明)。本文と編成表を両方ご覧になっていれば矛盾に気が付かれたと思いますが...。9月号までの注記が、ミスで残ってしまったのでしょう。また、10月号p.付録7,8の「ご注意 訂正表 ご注意」でも漏れています。11月号以降ではこの注記はなくなりました。誤植が多いのは困りものですね。 返信 ↓
tsurukame様 5両編成のこと、上り下りで編成が違うことなどよく判りました。ありがとうございます。南紀観光号とはなつかしいですね。そう言えば京都駅で九州観光号を撮ったことを思い出しました。客車列車が元気な時代でした。 返信 ↓
王子から和歌山まで、和歌山線でのハネ1両ですが、機関車C58の次位に連結されていたようです。1964,1965年では519列車として、1966年和歌山線撮影時には529列車として。この529列車の撮影フィルムを取り出しましたが、列車正面から撮影のピンぼけ画像で投稿するのは恥ずかしく、遠慮しますが、C58の次位にかろうじてそれと判断できます。また、5両編成の最後尾は普通の客車でした。 返信 ↓
tsurukame様 わざわざ写真を探して頂いたようで恐縮です。和歌山線は気動車で通っただけで撮影に降りたことはなく 北宇智のスイッチバックぐらいしか記憶にありません。何度も和歌山線へ撮影行されているのには敬服です。さて 各停の寝台車には「ながさき」「山陰」根室線の「からまつ」に何度かお世話になりましたが、朝の各駅でホームの乗客が珍しそうに寝台車をのぞかれるのは気恥ずかしいものがありました。和歌山線の客レにも乗ってみたかったですネ。 返信 ↓
東京・和歌山間(運転当時の駅名は東和歌山)は急行大和の和歌山行き寝台車(一両)が王寺から和歌山線普通列車に併結されて運転されていたので実質東京からの直通列車がなかった県庁所在地は山口だけになる。 返信 ↓
tsurukame様
私の方こそ待っておりました。この写真です。当時の蒸機急行は遠く北海道か九州がその主な活躍場所でしたが、関西圏にもこのような素晴らしいシーンがあったのですね。203列車急行「大和」は加太駅を7時10分過ぎに通過して峠に向かったので、多分、前夜に加太会指定旅館「村田屋」に宿泊し、暁の決闘に挑まれたことと思います。有難うございました。
tsurukame様
加太越えのすばらしい写真ありがとうございます。当時の優等列車は旧国名が数多く使われ 旅愁をさそったものです。「やまと」・・・いい響きです。ところでこの写真を拝見し、客車が6両なのでC57単機で大丈夫だったのでしょうがいつも6両だったのかが気になり 手元に唯一残っている古い時刻表を見てみました。撮影された1965年より更に古い1961年6月号です。201レ大和は東京駅14番線を22:45分に出発します。5分前に向かい側の15番線を25レ出雲 浜田・大社行きが出発し 大和が最後に出発する長距離急行です。編成表を見ると 先頭からニ、ネB、ハネ、ハネ、指ロ、ハとなっておりここまでの6両は名古屋までで このうしろに湊町まで行く9両が続きます。即ち東京駅を出発するときは15両です。多分EF58が牽いたのでしょうが 重量級の客車15両は楽ではなかったことでしょう。さて早朝5:31分に名古屋に到着します。前6両を切り離し、最後尾にC57が連結され9両が逆向きで5:43に関西線に出発します。時刻表には「名古屋駅で切り離される寝台車は6:30まで使用できます」と注記があります。約1時間はホームに留めおかれたようです。冬場なら暖房も必要ですから機関車も一緒だったのでしょう。何かと問題をかかえた国鉄だったとは言え、乗客のことを考えた留置サービスもあったことを知りました。さて関西線に入った9両ですが 先頭からハ、ハ、ハ、ハ、ハネ、自ロ、指ロ、ネB、ハです。写真を撮られたのは2月ですから 閑散期で5両なのか、61年当時は9両だったが利用客が減って65年当時は5両になっていたのかは判りません。5両の客車の形式が白煙に包まれてよく判りませんが、ナハのようにも見えます。ちなみに大和に使われたB寝台はマロネ41とオロネ10となっています。多分マロネが名古屋まで、加太越えはオロネだと推察します。東海道を下る客車急行の中では食堂車のない田舎急行だったのでしょうが、線路のつながっていた本州、九州のなかで東京から直通列車の無い県庁所在地は山口と和歌山だけでした。奈良は「大和」がありました。いろんなことを思い出させて頂けた1枚の写真でした。
急行「大和」となるとすぐ反応してしまいます。高校生の時、クラブの合宿で信州方面に行く為に上野から高崎線、信越線で行くことになりました。上野駅で乗る列車の時間に間に合うようにいろいろ考えた結果、天王寺から急行「大和」となりました。顧問の先生に天王寺から乗ることになったことを連絡すると、変わったルートで行くんやなと言われたのを覚えています。この時の切符は普通の周遊券で近ツリの淀屋橋営業所で購入したもので、今もその指定券が残っています。「大和」の文字は手書きでなくゴム印で押されたものです。ゴム印があるのであれば利用者が結構あったのではと思います。そう言えば一人だけ顧問の先生が寝台を利用することになったのですが、天王寺からの寝台は満席で和歌山から来る王寺駅で併結する寝台車を予約しました。私の持っている指定券には14号車となっていました。この時はC57でなくDF50でした。1968年8月5日の乗車でした。そして急行「大和」は1968年10月のダイヤ改正でなくなったのでした。西村さんのおしゃるように急行「大和」は言葉の響きが私もいいと思います。だから、いつまでも覚えているのだと思います。tsurukameさんの写真も朝の空気感が感じられ、いい写真を見せていただきありがとうございます。ちょっと逆光ぎみなのでしょうか。左側のうしろから朝の太陽の光があたって、列車が輝いているようです。ネットで調べてみると1965年10月からDF50になったようです。メジャーな急行列車ではありませんが、私にとっては存在感のある列車でした。
遙か昔の現役時代、8㎜が貴重品だった時代に大阪在住のバッタ先輩から「秘密の映画をみせたろか?」と声をかけられておずおずとついて行ったところ、天王寺駅を出発する急行「大和」の勇姿を見せられたことを思い出しました。この牽引機がC57でした。暗くて、露出不足の画面でしたが貴重な映画でした。もう一度見てみたいものです。
どですかでん様
実は私のコメントの中で 確か1両だけが和歌山へ行っていたかすかな記憶がありつつ 確証がないので県庁直通がないのは山口と和歌山と書きました。和歌山行きがあったことを紹介して頂きありがとうございます。すっきりしました。天王寺からの寝台が満席というのも意外です。東海道線の夜行がとれないとき、大阪の玄人さんは大和を利用したのかも。いいお話をありがとうございました。
西村様 寝台車が混んでいたのは夏休みの為かもしれません。この大和号は名古屋で列車編成が長くなりますが、名古屋での増結ではないようです。たぶん、名古屋は夜中のはずですので。私も知らなかったのですが、ネットで調べているとどうも金沢からの急行「能登」号を併結していたようです。能登号が米原経由東海道で東京行だとは知りませんでした。この急行「大和」は変遷が面白いようです。しかし、和歌山-王寺間は普通列車で、正確に言えば和歌山-東京間の直通寝台客車で、直通列車としてはなかったということになるのでしょうか。とにかくこの時の急行「大和」は東京駅に朝の6時に着くのですから、早くなく、遅くなくちょうど良い時間に東京に着く列車だったと思います。実はこのことが私が急行「大和」を選んだ理由のひとつでした。
準特急様、西村様、どですかでん様、皆様へ
楽しいコメントをありがとうございます。C5756の画像が1枚きりと書きましたが、記録帳を見ると他にもあり、フィルムを取り出しました。しかも同じ『大和』で、1964年12月6日加太会発祥の日の撮影です。ただ、12月ですから夜明けが遅く、同位置でも暗くて今回のように客車が見えません。拙著HPにも使っていない画像ですが、改めて投稿します、ご覧ください。
ところで、西村さんが1961年の『大和』を詳しく説明して下さいました。私の手元には1964年10月の時刻表があります。新幹線開業時並びに『大和』撮影当時のモノです。『大和、伊勢、那智』は上り、下りで編成が異なり複雑ですね。
【下り】東京を『大和・伊勢』14両(荷物車1両は別)で出発。名古屋で荷物車と2両を切り離し、12分後12両逆編成で亀山へ。亀山で鳥羽行き『伊勢』6両と湊町・和歌山市駅行き『大和』6両に分かれる。さらに王寺で湊町行き5両と和歌山線経由和歌山市行き519レ1両に分かれて夫々の地へ。このように65年加太の撮影時は、61年当時より短く、前からハネ3両、ロネ(B寝台)1両、ハネ1両(以上湊町行き)、ハネ1両(和歌山市行き)でした。
【上り】もっと複雑です。和歌山市発528レのハネ1両が、王寺で湊町発『大和』5両を後部に併結、さらに奈良で後部にオール・ハの『南紀観光号』を併結します。亀山では併結しません。名古屋では、発車80分前から使用できるハネ・ロネ各1両と荷物車を前部に併結、逆編成で『大和』として東京へ。下りで併結されていた『伊勢』は、上りでは多気で『那智』と併結、名古屋でハネ・ロネ各1両と荷物車を前部に併結、逆編成で『那智・伊勢』として東京へ向かっていました。
恐れ入りますが、お知らせいたします。
tsurukameさんは、交通公社の時刻表1964年10月号p.121の上り「大和」の名古屋駅の注記(「名古屋で連結される寝台車は22時30分から使用できます。」)をご覧になってコメントをお書きになったようですが、この注記は誤植なのです。ダイヤ改正で、名古屋駅で上り「大和」に増結するのは、p.553「主な列車の編成表」のとおり「ハザ」2両(①+②)になりました(ハザ①の外側の荷物車がどこで連結されるのかは不明)。本文と編成表を両方ご覧になっていれば矛盾に気が付かれたと思いますが...。9月号までの注記が、ミスで残ってしまったのでしょう。また、10月号p.付録7,8の「ご注意 訂正表 ご注意」でも漏れています。11月号以降ではこの注記はなくなりました。誤植が多いのは困りものですね。
tsurukame様
5両編成のこと、上り下りで編成が違うことなどよく判りました。ありがとうございます。南紀観光号とはなつかしいですね。そう言えば京都駅で九州観光号を撮ったことを思い出しました。客車列車が元気な時代でした。
王子から和歌山まで、和歌山線でのハネ1両ですが、機関車C58の次位に連結されていたようです。1964,1965年では519列車として、1966年和歌山線撮影時には529列車として。この529列車の撮影フィルムを取り出しましたが、列車正面から撮影のピンぼけ画像で投稿するのは恥ずかしく、遠慮しますが、C58の次位にかろうじてそれと判断できます。また、5両編成の最後尾は普通の客車でした。
tsurukame様
わざわざ写真を探して頂いたようで恐縮です。和歌山線は気動車で通っただけで撮影に降りたことはなく 北宇智のスイッチバックぐらいしか記憶にありません。何度も和歌山線へ撮影行されているのには敬服です。さて 各停の寝台車には「ながさき」「山陰」根室線の「からまつ」に何度かお世話になりましたが、朝の各駅でホームの乗客が珍しそうに寝台車をのぞかれるのは気恥ずかしいものがありました。和歌山線の客レにも乗ってみたかったですネ。
東京・和歌山間(運転当時の駅名は東和歌山)は急行大和の和歌山行き寝台車(一両)が王寺から和歌山線普通列車に併結されて運転されていたので実質東京からの直通列車がなかった県庁所在地は山口だけになる。