C5756急行『大和』を曳く(続)

C5756の画像は1枚きりと書きましたが、他にもありました。しかも同じ『大和』牽引です。
▼1964年12月6日(曇り)、急行203レ、機C5756【奈】、加太-中在家信号所間。
先の2月28日より2ヶ月前、こちらの方が夜明けが遅く、しかも曇りでした。車両後部がはっきりしません。
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097051964年12月6日、「加太会」発祥の記念日でもありました。


▼東京から東海道線などの列車編成表、交通公社時刻表1964年10月号より。
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▼関西本線の時刻表です。出典は上に同じ時刻表です。
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▼和歌山線
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C5756急行『大和』を曳く(続)」への1件のフィードバック

  1. 「大和」写真ありがとうございます。9両編成の「大和」は、1964年10月改正で終わり、同時に亀山よりのC57補機付き加太越えも終わったようです。同改正より寝台車6両編成になり、C57単機牽引になったようです。それも1965年10月改正よりDF50牽引に変わったようです。
    「大和」の列車名も1968年10月改正で「紀伊」になり「大和」の歴史も終わったようです。
     中学・高校時代、亀山駅で、4分間の名古屋から牽引の奈良機関区C57の水の補給と乗務員交代<名古屋機関区乗務員が奈良機関区の乗務員へ引継ぎ>で四日市からのだらだら続く登り勾配で蒸気を使い、これから加太越えをしなければならない奈良機関区の乗務員の苦労は大変だったようです。今でも厳しい表情が思い出されます。名古屋機関区乗務員も四日市から蒸気圧には、気をつかっていたようです。後補機の亀山機関区のC57は、側線待機でしっかり蒸気も上がっているので余裕がありました。その分加太越えでは、力を発揮しなくてはなりませんが。
     高校時代は、通学の列車が関駅で「大和」と交換に変わりましたが、60キロ制限のポイントをものすごいブラスト音で2台の機関車が制限いっぱいの速度で通過していったのを今でもしっかり覚えています。当時関西線の通過時のタブレットは、手でとるなんて危なくて・・・。因みに関駅の上り線は、直線80キロ制限なので、「大和」や「姫路快速」などの重連牽引の蒸気が高速で通過するのが面白くて小学校時代から駅までわざわざ見に行きました。
     それにしても、なぜ当時の加太越えの「大和」の写真をしっかり撮影しなかったのか、いまだに悔やまれます。
     不確かな記憶での記述。まちがいもあるかもしれません。みなさんご教授お願いします。 

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