1954年高校生修学旅行 その8


大分駅前

豊肥本線で内牧だったかで下車、どこかの温泉に泊まったが、勿論500人収容できる旅館はなく、分宿だった。翌日は天気が悪く、それでも阿蘇に上ったが、視野は悪く、ヨナ(火山灰)が小雨にとけ、漱石の「二百十日」の圭さん、碌さん程ではなかったが、散々だった。当時ロープウエイなどある訳ないから当然徒歩登山で、宿が作った弁当が飯とするめの佃煮だけという、戦時中の「日の丸弁当」(米飯の真中に梅干1個)並み=究極の質実剛健ぶりだったのを、何故か55年後でも覚えている。

小雨とヨナにまみれた落武者さながらの姿を大分までの列車内で乾かし、これも別府郊外(俗世界から猛烈に離れた)の旅館に泊まったはずだが、全く記憶がない。翌日はバスでの地獄めぐりと高崎山の猿見物(だったと思う)は、例によって観光をご辞退申し上げ、日豊本線杵築(大分交通国東線)か幸崎(日本鉱業佐賀関鉄道)に行きたかった。しかしどう時刻表を繰っても所定時間内の往復は不可能で、やむなく大分交通別大線の電車で辛抱することに。



日立製の201+204 総括制御可能の優秀車 大分駅前

1 100 200しか形式がないのに 名古屋から買ったからナゴヤ=758なるインフレ形式

これでも花電車というのかしら 新川車庫

とまれ大分駅前に行き、密連装着の200型2連を見、程近い新川車庫へ。かなりのクラシックな7580型なる、インフレ番号も極まった2軸電車が何両か。聞けば名古屋から購入したからゴロ合わせで「ナゴヤ」なる形式にしたそうな。そういえばどこか忘れたが、仙台の注文流れ?かで、1000という形式にしたところもあったはず。


この6は車体幅がせまいままである 婦人の外出は和服の時代 新川

大分駅前

高崎山のサル現在150匹 電話連絡で数字札を差し替えていた 北浜-別府駅前の支線は1956年10月19日廃止

北浜-別府駅前の支線の2軸電車の胴体には、高崎山の宣伝だけでなく、現在見られる猿の概数が表示されている。全く関係ない話だが、左奥に「総天然色 立体映画」のプラカード看板を持ったモンペ、地下足袋?姿のおばはんがいる。この映画「雨に濡れた欲情」は、リタ・ヘイワース、ホセ・ファーラー主演のコロンビア映画、専用眼鏡をかけてみる立体映画だった。東京の封切(なんて言葉があった)が1954年2月17日というから、ここ別府でもそれに近い日に封切られたのであろう。


北浜の大分交通支社 「たばこ」が右書きである

関西汽船の乗り場

別府からは関西汽船の夜行便に乗船し、神戸中突堤に上陸し、元町まで歩いて国電に乗って京都に帰着した(筈)。汽船内で当時初体験のソフトクリーム(50円=当時国鉄が26km乗れたから、現在なら480円に相当)を、残った小遣いと相談しながら恐る恐る口にし、こんなうまいものがあるのかと心底思った。(その6年後、若かりし乙訓老人と生まれて初めて生ビールに接し、この時も世の中にこんなうまいものがあるのかと思ったが)

「ローマの休日」でオードリィ・ヘップバーンがスペイン階段でソフトクリーム食べるシーンが周知だが、この映画の封切はこの年4月27日である。

1954年高校生修学旅行 その8」への1件のフィードバック

  1. 昨年「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田に作った男はなぜ忘れ去られたか」という長いタイトルの本を読みました。
    1950年代に実際に酒田にあった映画館主のことを取り上げた本で、この時代の映画は娯楽の王様で最新封切り映画のフィルムを手に入れるのがどれだけ困難か、その背景には館主の実力と地方文化人の高いプライドがあったということを知りました。

    今回湯口氏が取り上げたエピソードにこの時代の別府がおそらく九州一新しい情報の届く元気な街であったことを確認しました。
    社会人野球で「日本一強い」といわれた荒巻淳や西本幸雄がいた別府星野組が活躍したことも頷けます。

    別大(べつだい)電車の話題に戻ります。
    この時期はちょうどポールからパンタに集電方法が変わる過渡期のようですね。
    私は1970年に大分市の住人になりました。九州のなかでは72年と比較的早く姿を消した路面電車は分相応以上に立派なパンタを載せた電車だなというのが当時の印象です。最後までポールであってもおかしくないのですが別府の「新しいもの好き」が伝播していたのかもしれません。

    別府〜阿蘇〜熊本横断道路、通称「やまなみハイウェイ」が全通したのが1964年。九州の中ではハイカラなドライブというレジャーをいち早く享受した大分はこの時代、モータリゼーションが活発でした。国東や耶馬渓の私鉄線、そして九州一早く開通した都市間連絡のインターバンであった路面電車が次々と消えた頃に反対運動は殆どありませんでした。
    この時代の地方都市は良くも悪くもまだ元気で、新しいものに突き進んでちょっとでも古い物はすぐに切り捨てることが可能であったな、と改めて思います。
    戦前の近代建築が大分・別府の両市には殆ど残っていないことも実感します。

    いまゲートもなく無料の完全一般道路になった旧「やまなみハイウェイ」を走ると昭和のあの時代の感興がこみ上げてきます。
    修学旅行や教科書にも載り知られた日本の一億レジャー時代の象徴は、静かに時を重ね余生を送っているような、そんな気がしました。
    別府の路面電車遥かなり、九州でも旧炭坑地帯以外で苦しい町のひとつである別府の輝ける時代を垣間みた気がいたしました。

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