米手作市様のリクエストにお応えして いいかげんな電車が活躍していた時代の写真をご紹介します。訪問したのは昭和48年7月25日の1回だけで わずかな写真しか残っていません。まずは主役のデ7050型から。
現在の万葉線という名称はどうもなじまず、高岡軌道線の方がしっくりくるのは私だけでしょうか。万葉集を編纂した大伴家持が越中国守として伏木に赴任していたことにちなんで、万葉線という愛称が生まれたのは良いとしても、その後万葉線株式会社と 愛称が会社名になったのは違和感があります。まあ地元の皆さんになじんだ名前なら、また高岡万葉まつりなどで万葉を地域おこしのネタにされていることに対して県外者がどうこう言うことではありませんが、大伴家持さんはどう思われているか聞いてみたい気がします。
話が脱線してしまいましたが、高岡駅前を出発した電車はアーケードが続くメインストリートを単線で走り、複線になる広小路までに交換できる停留所も2つありました。
車庫は米島口にあります。かつてこの米島口から伏木港まで伏木線が分岐していましたが(と言うか伏木港までが本線)、昭和46年9月1日に伏木線は廃止されています。
変な窓配置のデ7050型に続いて 昭和40年12月にデ7060型が2両増備されます。この7060型も変則窓配置を引き継ぎます。その後増備されたデ7070型でようやくすっきりした窓配置となりました。
豪雪地帯ですから除雪用車両は不可欠です。訪問したときには2両の除雪用車両がいました。かつての主力車両デ5010型5022号とデキ6501です。
デ5022は除籍されてはいるものの現在も保存されているようです。ボンネットが左右に分かれて中央に通路がある珍しいかたちの電機デキ6501は大正14年 川崎造船製の25Ton機で、日本電力庄川水力発電所建設用の専用鉄道で使われた4両のうちの1両です。専用線は加越能鉄道加越線(非電化)の終点 庄川町(以前は青島町)から4.8Km先の小牧ダムまで伸びていましたが、工事完成後はしばらくは観光用として残ったようですが、昭和14年10月8日に廃止されています。この4両の電機は富山地鉄と京福電鉄に移ったのですが、5022が地鉄から高岡にやってきました。米島口車庫で写した写真の中に5010型と思われる廃車体とガソリンカー用と思われる台車の写真がありました。特にこの台車についてと、昭和14年に廃止された旧専用線についてどなたか是非解説をお願い致します。
米手作市殿のリクエストが変な方向にそれてしまったようですが40年前の記憶をたどる良いきっかけとなりました。40年前には米島口までしか行かなかったので、果たせなかった米島口-越ノ潟間の乗車をなるべく早く実現したいと思います。越ノ潟から対岸に渡り、射水線で新富山まで行きたかったなア。
西村様、
ありがとうございます!
イラストの方がスマートですね。実車は屋根が低く、塗装のせいか田舎くさく見えます。
でも、窓の処理など、もう少し考えても良かったのにねぇ。
1961年4月3日、富山の勤務先に赴任した。最初の日曜日には高岡に電車を見に行っている。今回紹介された7050型は、この年7月に伏木線用として新聞で紹介され走り出した。当時の利用者にはそれまでの5010型より軽快で、富山を走る7000型と同じ感覚で迎えられた。外部塗色も同じ上半淡肌色下半明緑で(現在の富山地鉄市内線標準色)、窓配列等についてとやかく話の種にならなかった。それより出足の良さが評判になった。
伏木線は米島口から左折、県道沿いに単線独立橋で渡り、国鉄線沿いで伏木駅前に至った。県道架け替え工事に際し道路中央に軌道線敷設の計画であったが、その費用負担で県と加悦能鉄道で紛糾、バスなら費用負担なしで渡れるとなり、あっさり1971(昭和46)年だったと記憶しているが廃線となった。この話を耳にしてきょとんとしたものだ。現在残っている同系車、新湊線用の7070型5両は窓形状配置はまともになり、越ノ潟分断に合わせて登場したが、外部塗色下半が濃オレンジとなり区別されている。1両増備あり、1両廃車で現在5両健在である。
7073との交換風景は「片原町」である。この地で最盛期は3両団子列車と交換した。そのうち1両は伏木線の7050型、残るは新湊線の2両連結であった。
乙訓のご老人様
コメントありがとうございます。半世紀も前のことが昨日のことのように出てくるのは きっと日記や詳しい記録を残されているのでしょうね。感服です。高岡から先の倶利伽羅峠越えにE10がいた時代でしょうか。伏木線の架橋や費用負担の話は初耳です。交換風景が片原町であることも教えて頂き ありがとうございました。
恥ずかしながら当時の記録、日記、フィルム共々38豪雪収束時、3月20日夕方工場丸焼けで全て灰燼となりました。雪解けに伴い工場フル体制となり、老人は若年ながら班長として3月は夜勤を引き受けており、工務の間に京都鉄道趣味同好会誌「急電」の別刊「私鉄レポート」集の原稿作りを夜勤の合間にしており、罰が当たったのであります。