さて三井野原でのステホは暑からず寒からず、気持ちよく寝させていただいたが、何やら周囲がおかしく、むっくり起き上がって一驚。このさして広からぬ三井野原無人駅のプラットホームが、何と夏休みラジオ体操会場と化し、開拓部落の子供たちと、世話役の大人が20人ばかり、体操をしていた。その真ん中の待合室で若者が一人、炊事道具をおっ拡げて安眠をむさぼっていたのだから、皆の衆気が散って体操に身が入らない。これには恐縮し、世話役さんに会釈して早々に荷物と、我ながら美味ならざる夕食(の食い残し)を片付け、リュックを担いで撮影に。先ずは上り初発の備後落合6時42分発416D出雲横田行き、キハ025で、乗客はそれでも数人あった。
追いかけてC56牽引の421レが登ってくる。三井野原は島根県(出雲国)で、その少し南が広島県(備後国)との県(国)境であり、このサミットを越えると北に向かってほぼ一方的な下り勾配が続く。ただでさえ煙が目立たない真夏だから、蒸機列車は何としても上り勾配で撮らねばならず、早朝とはいえすぐ温度は上がり、キスリングを担いでの移動はしんどいことこの上ない。
そういえば確かカラーポジで撮っていたはずと、すっかり失念していたスライドを探したら、上の写真が出てきた。流石はコダクローム(但しⅡではなくRだった)=東洋現像所で、48年経過しているが退色も変色もなく、ビクともしていない。フジカラーとの差異はあまりにも大きい。
これからが大変で、大急ぎで出雲坂根まで歩かにゃならない。挿入したのは出雲坂根駅にあった案内板で、周囲を要領よくまとめてある(クリック拡大してご覧あれ)。木次線は東城街道(現国道314号線)に沿っているのだが、この当時全く改良などとは縁のない荒れた県道で、当然未舗装。車同士が行違うことも稀で、バス(先ず通ることはない)やトラックもギヤは落とさねばならないが、何とか登れる道ではあった。で、三井野原から見た木次線は、隧道7本を経てぐるりと南に迂回して三段スイッチバックに至り、県道もグネグネ、ちまちまと迂回する。よく見ると県道から直接出雲坂根駅に抜けられる「近道」があるではないか。恐らくはこれが旧の街道そのもので、迂回路が大正期軍隊移動(兵士は自分で歩くが、兵站は馬車のため)を主目的に新設された「更生県道」なのであろう。看板には「近道」なら20分節約できるとある。
小生はためらうことなくこの「近道」に踏み込んだが、凄まじい下り勾配で、オフロードのバイクですら、上りはともかく、下りは二の足を踏むだろうし、野戦ジープでもどうか。睡眠だけは足りていたが、暑い中気は急く、腹ごしらえは未済(生煮え晩飯が祟った)、ふらふら、で、まっしぐらに急坂を下る途で蹴躓いた。キスリングの重みで加速度がついていたから、何ぞ堪るべき。タンクタンクロー(これが分かる人は手をあげて。相当の年配である)もかくやとばかり、人荷一体となって数メートル、ゴロゴロと転げ落ちる悲劇が上演された。見る人などいるはずのない僻地が不幸中の幸いか。
ともかく全身擦り傷、汗と土埃とで悲惨な恰好ではあったが、とにもかくにも出雲坂根駅に到着はでき、駅名物「延命の水」をたらふく飲用。当時ビールの自販機なぞ有るわけない。しかしゾンビ状態からやや人間に戻った。このスイッチバックの途中で、何と竹の電柱を初めて見た。
これは誰でも撮るおなじみアングルだが、現在駅舎が全く建替えられている。
蛇足だが三井野原の標高は731.413m、出雲坂根は504.583mで、166.83mの高低差があり、これを6.4kmで処理しているのである。
この後出雲横田で下車し撮影。C56牽引列車はここで客車1輌を切り離し、以南はオハユニ71が1輌のみになり、この線のオハユニとは文字通りの「オール・イン・ワン」である。
なお木次線の宍道-木次間21.1kmは簸上(ひのかみ)鉄道が1916年10月11日開業した区間(1934年8月1日買収)で、木次以南が鉄道省による延長であり、1932年12月18日出雲三成、1937年12月12日備後落合に達している。
小生はその日のうちに倉吉線にまで足を延ばし、関金温泉に投宿。ここで余りの汗と埃まみれを見かねた、お盆の旅館ヘルプ=親切なおばさんが、身ぐるみ洗濯してくれたのは以前に記したが、乾くまで猿股と浴衣で過ごした。
最後にひとつ。かつてイザヤ・ベンダサンは「日本人は水と安全はタダだと思っている」と喝破した。三井野原に限らず、100回には達しなかったと思うが、北海道から九州まで、ステホを続けてきた小生は、ついぞ治安の心配などしたことがない。夜中お巡りさんの職質を受けたことはあっても、乗車券を持った学生(受験生を含め)であり、それ以上のことは一度もなかった。
しかし欧米などホームレスがあふれ、公衆電話ボックスに用便がしてあり、駅の便所は釘づけなどを体験するにつけ、空港内ならともかく、普通の人間が駅で寝るなどということは考えられまい。その日本とて、今では特別の事情下以外、駅で寝させてくれるところなどあるまいし、無人駅ならいつ、だれに襲われるか、知れたものではない。かつての日本は、本当に平和な国だったと痛感する。
出雲坂根から三井野原への旧道は今回登りましたが離合不可能な幅のところも多く、幾度も折れ曲がっている坂道でした。この道の近道となると地図からも直線で上り下りする獣道だったろうと思います。そこを転がり落ちられたとはさぞかし大変だったろうと思います。捻挫・骨折などせずにご無事で駅まで着かれたのは何よりです。途中で動けなくなったらイノシシの餌にでもなっていたかと思われます。
貴重な当時の写真をたくさんお見せいただきましてありがとうございました。三井野原駅のラジオ体操の写真が欲しかったです。この辺りは結構、駅前広場が朝の体操の場になっていたのですね。
湯口様
引き続きの貴重な写真をありがとうございます。それにしてもコダクロームのC56やキハ02は 昨日撮って来られたような発色に驚きです。また犬走も含めて雑草なども見えず、非常に手入れの行き届いた線路であり 今の草ぼうぼうの地方線区を見慣れた目には 治安の良さと同様にそれぞれの持ち場立場で丁寧な職人気質の鉄道マンの存在を感じます。機会があればそれぞれの撮影地点を探して対比写真を撮ってみたい気持ちにさせられます。それにしてもキハ02に乗ったことがない私にはうらやましい限りの木次線風景です。
湯口先輩様、
いつも貴重な写真を惜しげも無く公開して頂き、狂喜乱舞して見ております。
最近の蒸機列車のカラー写真を見ると、何とはなしに違和感を覚えます。何が違うのか、今分かりました。西村君が言うように保線状態が全く違います。最近の線路は本線といえども枕木の間にペンペン草が生えていたり、土が浮き上がっていたりしており、国鉄時代の保線が再評価されます。
もう一つ、電信柱が木製で、碍子や電線も昔は「ハエたたき」と呼ばれていましたが、山野に溶け込み機関車の黒や客車の茶色ともマッチしていて違和感なく見ることが出来ました。
ついでながら、以前にも書きましたが、この線の機関車はよく手入れされていていつもピカピカでした。機関区長が伝統だと言っておられたのを覚えています。
湯口先輩に一つ質問があります。
この列車に使われている客車がオハユニ71なのでしょうか?写真で見る限りはオハユニ61だと思いますが。71は戦災復旧の電車を使っていたので窓が二段窓です。別の日のお話でしたらそんなことがあるのかもしれませんのでお許し下さい。
米手作市さま
文字通り一言もありませぬ。オハユニ61を71と間違えるだけならまだしも、間違ったことに全く気付かず、教えて頂いてやっと、とは、相当にボケが進んでいる証左に間違いなし。後期高齢老人は痛く心を痛め、かつ恐縮致し居ります。お恥ずかしいが加齢現象は如何ともしがたく、諸賢拙稿中の「オハユニ71」は「オハユニ61」と読み替えて下され。
湯口先輩様
失礼をいたしました。
加齢現象とはトンデモございません。私も乗っていたから知っていたようなもので、決して大先輩様に恥をかかせるつもりなどございません。こんなことは取るに足りないことです。それより秘蔵写真の方がよっぽど大切ですからこれからもご開陳ください。