最近は世間から厳しい目で見られている我ら「鉄道趣味人」であるが、今日の新聞におもしろい記事が出ていたので転載してご覧いただく。
著者は作家の赤瀬川原平氏。小生は作家としての氏は知らないが、テレビなどで「路上観察者」としてたびたび出演されているのを見ている。なんでも路上にある普通すぎて誰も気にもしないものに注意してその存在意義を議論するのを趣味にしておられる様子である。大阪特派員氏と共通しているようでもあり、我々とも目の付け所が似ているようでもあり同好の臭いを感じていた方である。
この掲示板でも最近の「テッちゃん」と言われる連中の態度に厳しい見方が書き込まれることが多くなってきたが、鉄道趣味は持たない世間の方から見た意見としてお読み願いたい。
同じ朝刊に昨日も関西線の線路内に三脚を立てていた尼崎の50才のテッちゃんが通報され(近所の人に!)怒られたとか。
趣味を持つことは人生にとってすばらしいことである。しかし趣味とは他人に迷惑を掛けないことが最低条件であろう。でも自分のことには寛容で、他人には厳しいのが凡人の常である。小生は以下のように考えているが諸先輩のご意見はいかがであろうか。
たとえば暴走族とツーリングの違い。車で走っているとき大型バイクに迫られると「ドキッ」とすることがある。しかし近づいてよく見ると凝った装飾は似ているがこだわりを感じるデコレーションと、手入れの行き届いたバイク、ゆったりとした走り具合、なによりライダーにゆとりと品格が漂っているのに安心する。一方の暴走族は騒音が趣味なのかバイクが趣味なのか分からない。人相風体を見ても教養やゆとりは感じられない。どちらも聞けばバイクを愛していると言うだろう。では違いはなにか、小生なりの結論は「好き」だけでは趣味とは言えないと考える。知識を基礎にした教養と廻りに対する感謝と遠慮、なにより鉄道を生活の糧にしている鉄道員に対する配慮がなければ暴走族と同じであると自制している。
いまや鉄道沿線の住民にまで通報されるようになった趣味活動は今後世間をも敵として戦いながら続けて行かなければならないのだろうか。
言いだしっぺの一人として、以前、米っ子時代にC57がが走る山口線の津和野付近に行きました。その時、待ち時間に、撮影していた鉄ちゃん達と話していた話題にも上がりました。彼らは、よく、山口線には来るそうで、ある沿線住民の対応は、うるさい、農地に入り込む、離合不可の場所に駐車する、ゴミを捨てる等々の悪評もあって、絶好の撮影地ながら、締め出されたり、それでも出ない場合は、列車の来る頃に、前に立ったりして、嫌がらせをする場所がある。一方、協力的な住民もいて、一緒に築堤の邪魔な雑草刈りをしたりして、人がたくさん来るのを歓迎してくれると、聞きました。上手く住民と共存できる対応も必要となってきていると、みんなで話しました。
あふれる鉄ちゃん対応には、絶好の撮影地には、有料お立ち台を設置する。その他の場所には、撮影マナー委員等のボランティア組織をつくって指導をしていかないと、益々トラブルは、増え続ける一方で、その内「この地区は、撮影禁止」の札でも立ったり、山崎のように金網や、撮影できないような格子が設置されたりして、終焉を迎えるのではと思います。
お元気ですか?しばらく会っていませんので一度来て下さい。
おっしゃるように一般のファンに自制心を期待するのは無理なようですね。そのうち世間から敵視されるようになり締め出されるのは必至でしょう。かつては犬走りまではOKの暗黙の了解がありました。それもファンが大人であった時代の話、今や日本全国子供ばかり。あまり現場に近づきたくない心境です。
こちらでは、GW中にとんでもない事故が発生しています。
上越線の津久田~岩本間の有名撮影地、第二利根川橋梁付近でD51を撮影に来た47歳の会社員の男性が撮影地を探している間に誤って崖から転落して死亡したというものです。5月6日に近所に人から4、5日前から不審な車が停まっているという110番通報があり、警察が付近を調べたところ崖下30mのところで遺体が発見されました。
驚くべきことに、目撃者は複数いたにもかかわらず、誰も警察、消防等に通報せず、撮影後さっさと立ち去ってしまったということです。もしだれかが通報しておれば命は助かっていたかも知れません。人の命よりD51の撮影(多分車での追いかけ)が大事と言わんばかりの行動です。撮影後でも何故一報を入れなかったのか、本当に残念に思います。
来年からはC6120も走り出す予定ですが、私個人的には上越線にはSLは似合わないと思っています。高崎~水上間は終戦直後の昭和22年4月1日に電化が完成し、以降は電機の活躍の場となっています。D51、C61よりもEF15、EF58が似合うと思うのですが皆さん如何でしょうか。
皆さんも撮影の際は、くれぐれもご無理をなさらないよう「安全第一」でお願いします。
基本的な行動形態も我らの時代とは違って、単独行動が多いことによる事故ではないでしょうか。関東支部の回覧板を見ても分かるようにどうしても我々の世代は声掛け合っていっしょに行こう的団体行動を主流にしています。
これは基本的な趣味に対する価値観の相違でしょう。他人よりいい写真を撮って優越的地位を確保しようというのと、同好の友人達と行動を共にして楽しい一日を過ごそうと言う人との違いと見ることは出来せんか?
以前から繰り返し考えているのは我々は何なのか?ということです。
世間では「鉄道マニア」とか「鉄道ファン」とかいわれていますが最近は「テッちゃん」とひとくくりにされて以前とは違った意味で世間から白い目で見られているようです。「ファン」と「マニア」の違いはよく分かりませんが「テッちゃん」とは全く違うと自負していますが皆さんはいかがでしょうか?
この辺で脱ルール、不道徳の「テッちゃん」と違う「鉄道趣味人」の存在をアピールする必要があるのかも知れませんね。
痛々しい話題ですね。亡くなられた鉄道好き氏の冥福を祈ります。
これは藤本さんの話題でした。
赤瀬川氏は、俗人の域を超えた超人的な反骨、反体制、嫌がることは絶対したくないの作家です。
出発が前衛芸術家ですから、面白さの素について、絶えず考えられておられます。
面白さっていうのは、他人とは少し違う、自分だけの小宇宙をどこに見出すかだと。
鉄道好きのジョイというのは、いろいろあると思います。
僕だけの模型が作れる。誰も知らなかったアングルで写真を上手く撮ってくる。
電車の音だけで形式が判る。1分以内で、名古屋まで行くのに4通り以上のコースが立てられる。などなど。
群がる撮影ファンというのは、情報に振り回されているレベル(段階)であり、そこから自分の心象に、どう投影して行けるか、に進めるかで分かれると思います。
私もSLを追いかけた今見ると、短い数年がありました。
あの高揚感、充実感はすごかったと思います。
例えれば、ロックコンサート、祭りなどが終わった後、この瞬間から人は何を学ぶのか。それが趣味の哲学だと思います。
私は少年期に佐々木桔梗さんの文章に、強く影響を受けました。
臼井茂信さんの古典ロコ研究と、駄洒落の混じったP説(写真エトキ)にも、感化されました。
鉄道模型趣味の山崎喜陽さんの「ミキスト」を新聞社説のように読みました。
その後、一人で活動した高校+浪人の4年後に同大に入り同好会に入り、現在まで至っています。
それには幸運な出会いもあったと思いますが、絶えず物を見る眼をどう持ち続けるか。大人になって、ブームには距離を置くようになりましたが、踊る人、踊らせる側があるのは仕方がないのかもしれません。
裾野の広がりと、見識のある鉄道ファンも増えています。それだけでは片付けられない問題かもしれませんが、どこまでのどんな人までをファンとして受け入れるか。これは現実に現役会員だったころからの、問題でしたね。