昭和56年は、3月に福塩線で70系電車が完全引退し、宇部・小野田線から戦前型三扉車の40系、51系が引退し、それぞれ105系に置き換わった。また、夏には大糸線、身延線から戦前型国電が引退し、大規模な中長距離線区で運用される旧型国電は、飯田線のみとなった。
その年の7月、大糸線と身延線で戦前型旧型国電を撮影することができたので紹介させていただく。旧型国電については、デジタル青信号でも先輩諸氏が、詳細かつ充実した内容の記録を過去に発表されているので、ここでは、私自身が実際に見たもの、或いは撮り逃したもの等を中心に言及させていただくことにした。
大糸線の電化区間である松本-南小谷の間は、新性能車に置き換えられる前まで、36両の戦前型車両がいた。スカイブルーの青22号の軽快な塗装が印象的であったが、車両の興味でいうと身延線から転籍した低屋根改造車のクモハ43810の他、元クロハ59やサロハ56の改造車、サロ45格下げのサハ45に興味が引かれた。中でもサハ45は座席も2等車時代のままだったという。「という」と書いたのは、訪問時、既に後継の115系が入り始めており、サハ45は運用から落ちて乗れずじまいだったのである。なので向かい合わせ固定座席の旧2等車は、客車も含め、ついぞ乗れずじまいで残念この上ない。他には中間付随車のサハ57もこの時点では、飯田線や身延線にもなく大糸線だけしかなかった。クハ55もトイレ付400番台が多く、中でもサハ57改造車が目立った。クモユニ81もいたが、見ることは叶わなかった。この後、7月26日のさよなら運転を最後に115系に置き換えられた。現在、その115系も置き換えられ、211系とE127系100番台が運用についている。
身延線は、新性能車に置き換えられる前まで74両の戦前型車両がいた。身延線の特徴として、まず低いトンネル断面に対応し、パンタグラフ位置を下げるため低屋根改造した800番台の電動車があげられる。中でも、クモハユニ44は、70系電車登場後、横須賀線から身延線、大糸線に転属したが、低屋根化改造を受け身延線に集結し、4両全車(新製5両のうち1両は戦災で廃車)が昭和56年に引退するまで活躍した。
クハ47は20両近くいたが、17メートル車の電動車クモハ14(登場時モハ32)と同時期に登場した0番台、サハ48改造のグループ、元クハ58の100番台があり、一部にロングシート改造の車もいるなど多彩であった。ここにも大糸線同様二等車サロ45格下げのサハ45がおり、横須賀線二等車を想起させるスカ色なので是非見たかったのだが、訪問した時には乗る機会がなかった。身延線だけの形式として、モハ72、クハ79を113系の車体に載せ換えたモハ62、クハ66も6両ずついたが、正直これが入線してくるとがっかりした。
身延線の戦前型は昭和56年8月31日に引退し、モハ62、クハ66は昭和59年まで現役であった。旧型国電を駆逐した115系も平成19年には引退し、現在ではJR東海の313系(一部に211系も入線)が使用されているという。私自身、身延線訪問は、旧型国電を撮影した昭和56年夏の一度きりである。
ブギウギ様
大糸線、身延線の記録を見せていただき、ありがとうございます。
大の旧形国電ファンの小生にとっては、此の時期都市部から都落ちした電車の活躍する姿を見るのは憧れでした。
しかし、1967(昭和42)年に社会に出た小生にとっては、この時期仕事も多忙を極めた上、日本とヨーロッパやアメリカとの間を行ったり来たりで(キザだが本当ッ!笑)落ち着かず、電車どころではありませんでした。
このため、飯田線も含めて小生にとっては痛恨の空白期間となっております。
貴殿の写真と記事で、その穴を埋めようと食い入りました。
ただ、ロートルの旧国ファンにとってはスカ色でさえ『?。厚化粧?』ですので、このブルーはなお尚更頂けません。(『軽快な塗装』と仰っているのに、水を差して申し訳ありません。ジジイの戯言とお許し下さい。笑)
大糸線では、43や55、60は関東勢で、唯一68011が我が関西勢でトイレ手術をされて無いのが救われます。
一方の身延線は、厚化粧もさる事ながら屋根を削り取られた姿は見るに忍べず、涙目になるところでしたが、キャブ側を見てホットしたのも束の間、『アレッ』何かが足りない!。・・・でガックリ。
河 昭一郎様
河様から引き続きコメントをいただけたことは望外の喜びで、恐縮しております。旧型国電のウインドシルヘッダー、リベット車体はぶどう色2号など濃い塗装のほうが引き立つように思います。後年、原型を損ねるような改造や塗装を施されましたが、それら長命化、近代化等の施策により、全国の直流ローカル区間で足跡を残し、その活躍は多くの人の記憶に留められたものと理解しています。また、エピソード等ご教示いただければ幸いです。よろしくお願い申しあげます。