鉄道、つれづれ草ー土佐電鉄編ー

現在の土佐電路線図乙訓の老人の思い出話、今回は高校生の頃に初めて訪ねた「土佐電鉄」です。

※この稿は「乙訓の老人」こと沖中忠順先輩が記憶だけを頼りに書き綴った思い出話です。なので、記憶違いや間違いがあると思います。特に年月日時間に関しては自信が無いようですので、ご覧の方でそれらの誤りを気付かれたら教えてください。

最初に土佐電気鉄道の概要を説明しておく。
1903年(明治36年)(旧)土佐電気鉄道設立
1904年 本町線(堀詰ー乗出)潮江線(梅ノ辻ー桟橋)開業
1906年 電灯事業開始
1907年 乗合自動車、桟橋業、電力事業開始
1908年 伊野線全通
1920年 後免に高知鉄道設立
1922年 (旧)土佐電気鉄道解散 土佐電気に統合
1924年 高知鉄道(後免ー手結)開業
1925年 土佐電気 後免線全通
1930年 高知鉄道 後免ー安芸全通
1941年 高知鉄道が土佐電気の軌道部門と土佐バスを合併 土佐交通に商号変更
1948年 南海鍛圧(株)が土佐交通と合併、土佐電気鉄道になる
1949年 安芸線全線電化完成
1954年 高知市内(蛍橋)ー安芸線(手結)直通運転開始
1974年 安芸線廃止
2002年 土佐くろしお鉄道ごめんなはり線開業
2014年 とさでん交通設立
2018年 土佐電気鉄道解散
更に詳しくは各自お調べください。

▼老人が土佐へ行くきっかけは、姉上が結婚して善通寺へ住むことになったため、訪問の後、土佐まで足を伸ばすこととなったのだ。

土佐のことを高知とも言う。土佐の方が旧名のようなので、本稿ではそのまま“土佐”で話を進める。
老人の土佐への旅は、高校一年生の時から始まった。その時はC58の重連で峠を越えている。また、大学進学の頃には高松駅でテスト中のディーゼル機関車を見ている。これが土讃線無煙化の発端である。


▼この写真は原版がすでに無く、同人誌に掲載したものをスキャンした。貴重な写真なのであえて掲載した

高知駅前の7型28号車。最初に土佐へ足を踏み入れた、昭和29年8月に記念すべき一枚である。


▼三菱重工写真集より

明治38年、三菱重工で製造中の38号車

▼153号
昭和24年~25年にかけて自社で改造した140、150型。丹羽、加藤、三菱合資、梅鉢の4社が担当した。

▼304号

先の改造車に引き続き、電動機を新製し昭和28年~30年に自社工場で26両竣工させた。

▼103号

昭和22年8月 呉市交通局から購入された。廃車後は浜辺で海水浴の人たちが着替えに使っていた。

▼とさでんも、地元では“とでん”と呼ばれているのでデザインも似ているのかも

土佐でボギー車が採用されたのは地方都市としては早い部類で、昭和25年に都電6000型をモデルとして5両が製造された。昭和30年の215号以降は自社工場で製作され、昭和32年までに総数21両が製造された。

▼211号他ボギー車2連

ボギー車の連結運転用改造が始まり、蛍橋ー安芸線の直通運転開始となった。連結運転はすべてボギー車となり、211号~221号が振り向けられた。217号は若松工場製である。

▼220号によるワンマン運転

昭和45年4月1日 初のワンマンカーを2両、高知駅ー桟橋で運行開始

▼1002号

昭和56年12月から新車1000型が走った。

▼若松町工場 自社改造や製造はこの工場で行われた

若松町車庫 修理工場他車両課事務所など
土佐電の車庫としては、最大31両のボギー車をお守りした。現存しない。

▼1号貨車

貨車は最大22両あったらしいが、すべて単車で、一両見ただけであった。レール運搬の時は台車を牽引した。

▼1004号 京阪から来た車輌

鉄道線となっていた安芸線(後免~安芸)は腰の高い鉄道車両であり、昭和24年12月からは電車による運転となっている。

▼京阪時代の200型(参考資料)

 

 

 

 

 

車輌は阪急から供給されることになったが、京阪の200型が充当された。

 

 

 

 

 

 

 

多客時には、元客車であったガソリンカーが増結された。

▼軌道・鉄道直行運用の600型

 

 

 

 

 

 

元京阪の車輌も老朽化が進んでおり、程なく600型に取り替えられた。

600型は三両総括制御で走ったそうだ

 

 

 

 

 

 

 

乗り心地のよかった600型は短命に終わった。
代わって入ってきたのは阪神電鉄のお古であったが、最盛期390万人あった利用者が164万人まで減少し、昭和49年に安芸線は廃止された。(のちに「土佐くろしお鉄道ごめんなはり線」としてなはりまで延長されて現在に至る)

▼保存電車「維新号」

 

 

 

 

 

 

 

 

土佐電では、日本最古の歴史を誇る電鉄として、平成元年の開業83周年を迎えた記念に、世界の電車を高知に集めて走らせようと企画した。

▼参考写真 シュツッツガルトにて

 

 

 

 

 

 

 

その第一号がドイツ・シュツットガルトの市内電車であった。

 

 

 

 

 

 

 

続いてポルトガルのデッキ電車

▼元オスロ市電198号 ▼▼元リスボン市電

 

 

 

 

 

 

 

その中で老人が唸ったのはノルウェーのオスロ市電であった。
その後、オーストリアのグラーツ市電、ポルトガルのリスボン市電と続いた。

▼オーストリアのウィーンから来た親子電車のうちの541号です。二軸単車で、M+Tの親子電車で走らせる計画のようでしたが、なんらかの不具合があったのか、営業に就くことなく、解体されたとのことです。(青信号特派員氏より)

 

 

 

 

 

 

 

 

ある日、車庫の一隅に悲しい姿の電車が目に入った。海を越えて日本で働くはずの電車であった。

老人の土佐詣では事情によってしばらくストップとなったが、平成5年に再燃する。

 

▼202号 ▼▼221号

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その頃、老人が目を向けたのが廃線になった車輌たちの行方である。
それは、旧型車の現況と、その保守の限界を探る事であった。

▼2001号 ▼▼1002号

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新型車は2種類4両となり、減車された。

ハートラム101号

 

 

 

 

 

 

 

 

ハートラムは1編成のみ?

591号 車番文字は岐阜時代そのまま!

 

 

 

 

 

 

 

 

名鉄岐阜市内線のお下がりも入ってきた。

▼301号

 

 

 

 

 

 

 

301号は昭和55年に西鉄北方線からやってきた。カラオケ・ビヤホール号として賑わった。

新高知駅 高架となって移転した

 

 

 

 

 

 

 

 

新高知駅竣工に伴い、高知駅は大幅な移転となる。JR線の乗降は二階となった。

▼土佐電は、なんとも艶やかな広告電車がウリとなっている。見ているだけでも楽しい。一端をご覧頂く。

▼開業80周年を記念して、明治38年日本車輌で製造した7号車を復元させた。台車は廃車になった321号のものを再利用した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

土佐電は、今年から「とさでん交通」となって再出発した。
時節柄、鉄道の経営が順調なはずは無い。しかし、旧土佐電はそれ以外に経営者の素行に関する問題という前代未聞の原因で破綻した。
今回多くの方々や会社に助けられて発足した「とさでん交通」が順調に発展することを祈っている。

 

 

 

鉄道、つれづれ草ー土佐電鉄編ー」への6件のフィードバック

  1. 「▼とさでんも、地元では“とでん”と呼ばれているのでデザインも似ているのかも」の写真解説と写真を見て、子供の頃の路面電車の木製模型キットを思い出しました。サイズは当然Oゲージサイズです。叔父に作ってもらって塗装は水彩絵の具。車体の塗分けは写真と同じようなもので色は黄色と緑色だったと思います。今はなぜかこのような色の塗分けの電車は「カボチャ電車」と言っているようですが、やはりこれは湘南電車です。神戸ー大阪ー京都ー米原辺りを走ってもこの色の80系は湘南電車でした。京都へ行くにも快速電車と言わずに湘南電車に乗って行こかと言っていたような記憶があります。そんなことを思い出す写真です。

    • そうですね、最近は勝手なネーミングをするので、昔からのファンには勘違いすることが多いです。「湘南色」を「カボチャ」とは失礼千万!

  2. 米手さま
    ある時老人から電話があり「土佐電の写真を探してくれぇ」となりましたが、後日また電話があり「もう、ええ」となりました。その蔭で、米手さんの必死の介護があったのですね。いつも、ありがとうございます。
    老人の土佐電との付き合いは、高校生の時からとあり、もう65年以上になるのでしょうか。その厚みがよく伝わる写真構成です。
    途中の「正体不明の外国製電車」とされた赤い車両ですが、調べますと、オーストリアのウィーンから来た親子電車のうちの541号です。二軸単車で、M+Tの親子電車で走らせる計画のようでしたが、なんらかの不具合があったのか、営業に就くことなく、解体されたとのことです。

    • 特派員様、
      情報をありがとうございます。
      老人の記憶は最近の天候のようで、出るときは豪雨のごとく、出ないときは夏枯れの如しですから忍耐が肝心です。でも“誰でも通る道”と勉強させていただいております。親子電車は、さっそく付け加えておきます。

  3. 乙訓の老人様、米手作市様
    乙訓の老人さんの記録はいつ見ても凄いですね。私が土佐に行った頃には阪神電車が居た安芸線は廃止されており遂に見ることができませんでした。安芸線の写真を見ると海辺の景色のいいところを走っていたことがわかります。昔、同志社から大相撲で関脇まで昇進した土佐ノ海という力士がいましたが、多分このあたりの生まれなのでしょうね。岩崎弥太郎もこのあたりだということは大河ドラマ「竜馬伝」で知りました。ところで桟橋線で元名鉄の車両の譲渡後の姿を女性運転士で撮ったことがありますが、外国から来た路面電車は広島も含めて全く撮ったことがなく一度はお目にかかりたいと思っています。車庫以外に確実に撮れる方法があればどなたか教えてください。

    • 老人は、毎日、目を皿のようにしてコメント欄を見ておられます!貴兄のコメントは老人には良薬となります。
      その証拠に「次回は京福鞍馬線や!」と連絡が来ております。

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