市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線①

京都駅前

先のイベント案内でも触れましたが、京都市電の伏見・稲荷線が廃止されたのが昭和45(1970)年3月31日で、ことしは廃止から数えて50年に当たります。その前後の出来事で言うと、前年の昭和44年11月の江若鉄道に続く地元の鉄道の廃止で、当時、私は現役の2回生、いちばん脂が乗っていた時期だけに、廃止直前は、連日写しまくったものでした。

その発信については、昨年にも地元の大学のワークショップで講演したり、先般も伏見区役所で展示したりしましたが、本欄では、ほとんど掲載することなく経過していました。しかし、廃止50年と聞くと、回顧の念が沸々と湧いてきて、先日も伏見・稲荷線の全区間を歩いて回って、50年後の様子を確認してきました。先の伏見区役所でも、熱心に展示をご覧になる方がおられました。記録をした人間としては、これを機に、皆さんに見ていただくのも、意義のあることと思い、先の「トロバス編」に続いて「市電が走った街 京都を歩く」を掲載します。また、今回は、私の写真だけでなく、叡電沿いに庵を結んでおられる先輩のMさんにも写真の協力をいただくことになりました。では、停留場ごとに、京都駅前から伏見線の今昔を見て行きます。50年前の3月、春休みに入った日曜日午後、伏見・稲荷線のりばは賑わっていた。背後の市電のりばにも多くの市電が待機している。当時、京都駅前の市電のりばは、東西に5面あり、日本最大級の路面電車ターミナルとして、活気にあふれていた(以下、特記以外昭和45年3月)。

【京都駅前今昔  1】

市電の東のりばには、伏見・稲荷 線と河原町線の2面があった。背後はステーションホテル(Mさん撮影)。▲▲現在の同地点、背後には同じ三角形の敷地にセレマビルが建っている。

 

【京都駅前今昔 2】

DRFCヘッドマークを付けた501と、河原町線の1600が並ぶ。

▲▲現在の同地点は、駅前の塩小路通の中央に当たる。

 

 

 

 

 

昭和30年代の京都駅前

以前にも掲載の羽村さんの撮影で、昭和37年の正月、「いなり行 市電のりば」の前に乗客が集まり、切符の特設売り場ができている。この頃、初詣などの多客時には、市内中心部から直通の稲荷行きの臨時系統があり、このあと、右のように、市電は東西のりばを結ぶ連絡線を通り、西乗り場から折り返して烏丸線に入って行った。行き先は四条大宮(みぶ)行きだけと思っていたが、上記の写真には「白梅町」とあり、さらに足を伸ばしていたことが分かった。

京阪バスの定観観光パンフからの複写、京都駅前が絶頂期の頃、多くの市電が見える。手前が西のりばで、向こう⑤の数字があるところが東のりば。手前の塩小路通にあった北野線ののりばがないところから、昭和37年ごろの撮影と思われる。

 

 

 

 

 

 

MEMO 開業時の京都駅前

ことしは伏見・稲荷線の前身に当たる京都電鉄の開業から125年に当たる。その明治28年当時の様子を地図に重ねてみた。始発が「京都駅前」と言っても、いまの駅前広場に当たるところにあった(旧)京都駅の南側、東洞院踏切を越えたところだった。そのすぐあとに出来た木屋町線など市内中心部へ向かう路線は、同踏切の北側にのりばを設けた。官設鉄道の東海道線とは踏切を挟んで徒歩連絡を強いられたが、これは、京電から東海道線との平面交差願いを再三出すものの、府から却下されたと言う。高倉通に陸橋を新設して、伏見線が京都駅の北側へ行けるようになったのは明治34年だった。

京電開業直後の京都駅前

京電が開業したのは現在の東洞院通塩小路下ル、現在ホテルのザ・サウザントキョウト付近である。すぐ近くに電車発祥の碑があるものの、当時の痕跡はもちろん無い。ただ当時は藍染川が通りに沿って流れていて、今は暗渠になっているが、川を行き来した船を係留したと思われる石柱が奇跡的に残っている。右は昭和50年ごろの同地点、今とは全く様子が違うが、われわれ世代から見れば、むしろ京都駅前に相応しい風景だった。

2 thoughts on “ 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線①

  1. 伏見・稲荷線が廃止された頃は鉄道趣味に目覚める前で、一枚の写真もありません。当時の住まいから遠く、乗る機会もありませんでした。しかし、廃止が近づいたころ、例によって母に連れられ記念乗車に出かけました。我が家にカメラはありましたが、電車を写すという考えは浮かびませんでした。しかし記録が無ければ記憶もなく、沿線の風景は全く覚えておりません。京都駅前の市電乗り場で売られていた記念乗車券だけが、伏見・稲荷線の思い出となりました。
    学生時代は伏見・稲荷線の歴史に興味が無く、乗り場がどこにあったのか考えたこともありませんでした。ステーションホテルの前に記念碑があったので、この辺にあったのだろうと思っておりました。しかし、実際は裏手の東洞院通を少し下がった辺り、駅弁の「萩の家」付近と知るのは最近になってからでした。現在の地図に開業当時の路線を書き込んでくださったおかげで、位置関係が分かり易くなりました。書籍では「官設鉄道の線路との平面交差が認められず、乗客は徒歩での連絡を強いられた云々」とありますが、どれほど離れていたのか、また、位置関係の把握が困難でした。ところが図を見れば一目瞭然で、まさに百聞は一見に如かずです。
    総本家青信号特派員様の”市電が走った街”シリーズで、どのような風景を見せていただけるのか、楽しみにしております。

    • 紫の1863さま
      いつもコメントを頂戴し、ありがとうございます。京都市電の廃止は、今では一括して語られることが多いですが、実際は、北野線を別にしても、伏見・稲荷線が昭和45年、全線廃止が昭和53年で、8年の開きがあります。その間の心情の変化は、人さまざまで、記憶・記録に濃淡があるのは、当然だと思います。私も、熱を入れて撮ったのは、廃止前の数日間だけでしたが、今回は先輩の写真も借りて、シリーズを続けようと思います。
      開業時の様子は、詳細な資料はなく、推測の域を出ませんが、京電研究の大西友三郎さんの地図を、本日載せておきましたので、ご覧になってください。キーになるのは、もともと伏見線と市内線は一体となって計画・着工されたことであり、東海道線とは平面交差を目論んでいたことから、踏切の直前まで、両線が伸びてきていたのではと思われます。

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