昭和の電車 改訂版(219)ー琵琶湖鉄道汽船100型ー 投稿日時: 2021年10月13日 投稿者: 米手作市 京阪の800型ということで、湯口さんからの投稿があります。 京阪800型 この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: 昭和の電車 改訂版(213)ー近鉄サ2600号ー 昭和の電車 改訂版(205)ー旭川電軌モハ1000型ー 昭和の電車 改訂版(194)ー名鉄3780系ー 昭和の電車 改訂版(183)ー近鉄“幻の「しまかぜ」ー 昭和の電車 改訂版(160)ー阪和電鉄モタ3000ー 昭和の電車 改訂版(51)ー神戸電鉄300型ー 昭和の電車 改訂版(33)ー京王帝都デハ2110型ー 昭和の電車 改訂版(20)ー阪和電鉄モタ303号ー
私が通学で利用していた頃(昭和35年4月~41年3月)、800形は、主に朝夕3両編成、昼間2両編成で、交野線で使用されていましたが、たまに宇治線、本線でも見かけることがありました。 画像は、昭和39年12月26日、中書島駅5番線に停車中の宇治発近鉄京都行です。 返信 ↓
こちらは本線での使用時です。 昭和38年11月29日、帰宅時香里園で待っていたら、800形の2両編成が各駅停車で来ました。これは超珍しいと思い乗車し、たまたまカメラを持っていたので、枚方市で急行退避で停車中に撮影しました。引続き乗っていたのですが、深草で車両交換のため降ろされ、500形2連に乗り換えました。 返信 ↓
自前のカメラを買ってもらったのが高1(昭和38年)で、カメラ持参で学校に行ったことは、10回もありません。 最も印象に残っているのは、昭和39年6月25日、何の用事か忘れましたが、京都駅から乗った市電伏見線が高倉陸橋を下っている時、広島行の「つばめ」が入線して来ました。先頭車は、何と「クロ150-3」でした。翌日の上りを絶対撮影したいと思い、カメラ持参で登校しまし た。授業の終了と同時に丹波橋経由で京都駅に駆け付け、何とか間に合い撮影できました。 参考までにその時の写真です。 返信 ↓
藤本様 晩年は交野線に集結していた800型の、それ以外の場での貴重な姿ですが、この「枚方市駅」での806号のショットについては、プレス・アイゼンバーン社の「京阪ロマンスカー史(下)」上で拝見して以来、ひとつの疑問を抱いておりました。それは「京都三条」の行先板で、当時の本線ではこの行先板は淀屋橋~三条間直通、あるいは宇治~三条の各停に使われていたからです。(「京都三条」の裏側が「大阪淀屋橋」または「宇治」でした。)撮影された日はすでに淀屋橋延長線が開業していますが、まさか非貫通の木造車が地下へ入線するとは考えられず、早朝の出庫運用(寝屋川市あるいは守口市あたりからの三条行?)かと思っておりましたが、806号の正面右上に陽が当たっていますし、撮影された時刻も午後とのこと。深草で車両交換になったということは、この800型自体が、他形式車で編成された淀屋橋始発の列車の、途中からのピンチランナーだったのでしょうか? それはともかく、登場時のオーバースペックにより故郷の坂本線から京阪本線へ「出世」し、戦後の車体更新で平凡な姿になったとはいえ、時には特急車やスーパーカーに伍して複々線の内側線を走る運用にも就き、約40年間木造のまま働き続け、その後は新造車体に乗せ換えられて故郷に戻り、事故廃車の1両を除き車齢を全うしたこの800型は、名車とは言えぬまでも、電車としては幸せな生涯を送ったと言えるでしょう。 返信 ↓
800形は、昭和41年から42年にかけて廃車されましたが、台車、電装品は、石坂線の新車350形に流用され、生まれ故郷に帰りました。 画像はその時のポスターです。「どこが新車ねん、ニセ新車やないか」と思わずツッコミを入れたくなりますが、当時の石坂線の輸送力の逼迫状況が伺えます。 350形も平成9年の1500V昇圧時に廃車になりましたが、358~361の車体が701~704に流用されました。その意味では、琵琶湖汽船100形は、姿、形を変え、脈々と生き続けていることになります。 返信 ↓
皆様の思い出話を読みながら、個人的に歴史の中で好きだった、昭和生まれのの木造車800型のことに憶いを馳せていました。 東京オリンピック、新幹線開業の頃まで、関西の大手私鉄に木造車が残っていたことは、私は高橋弘さんが「鉄道ファン」1974年3月号に載せられた「追憶の木造電車」で詳細を知り、届かぬ昔のことを追慕しました。 私が大学に入ったのは79年でしたが、京津線も石坂線も、木造車を鋼体化したグループが、大活躍していた時代であったことを思い出し、80年春の新学期前の合宿の帰りに浜大津付近で撮った350型の写真を探してみました。 たしかに台車回りに弓形ボールドウイン型の特徴をよく残しています。 返信 ↓
私が通学で利用していた頃(昭和35年4月~41年3月)、800形は、主に朝夕3両編成、昼間2両編成で、交野線で使用されていましたが、たまに宇治線、本線でも見かけることがありました。
画像は、昭和39年12月26日、中書島駅5番線に停車中の宇治発近鉄京都行です。
こちらは本線での使用時です。
昭和38年11月29日、帰宅時香里園で待っていたら、800形の2両編成が各駅停車で来ました。これは超珍しいと思い乗車し、たまたまカメラを持っていたので、枚方市で急行退避で停車中に撮影しました。引続き乗っていたのですが、深草で車両交換のため降ろされ、500形2連に乗り換えました。
藤本さまが乗り換えられたのは、こんな列車ですね。本題から脱線しては不味いかと思ったが、乗換と云うことなので?! Gordon Davis氏の撮影です。
「たまたまカメラを持っていた」のではなく、「撮影の合間に学校に行っていた」のが正しい表現であると思われます。
自前のカメラを買ってもらったのが高1(昭和38年)で、カメラ持参で学校に行ったことは、10回もありません。
最も印象に残っているのは、昭和39年6月25日、何の用事か忘れましたが、京都駅から乗った市電伏見線が高倉陸橋を下っている時、広島行の「つばめ」が入線して来ました。先頭車は、何と「クロ150-3」でした。翌日の上りを絶対撮影したいと思い、カメラ持参で登校しまし
た。授業の終了と同時に丹波橋経由で京都駅に駆け付け、何とか間に合い撮影できました。
参考までにその時の写真です。
藤本様
晩年は交野線に集結していた800型の、それ以外の場での貴重な姿ですが、この「枚方市駅」での806号のショットについては、プレス・アイゼンバーン社の「京阪ロマンスカー史(下)」上で拝見して以来、ひとつの疑問を抱いておりました。それは「京都三条」の行先板で、当時の本線ではこの行先板は淀屋橋~三条間直通、あるいは宇治~三条の各停に使われていたからです。(「京都三条」の裏側が「大阪淀屋橋」または「宇治」でした。)撮影された日はすでに淀屋橋延長線が開業していますが、まさか非貫通の木造車が地下へ入線するとは考えられず、早朝の出庫運用(寝屋川市あるいは守口市あたりからの三条行?)かと思っておりましたが、806号の正面右上に陽が当たっていますし、撮影された時刻も午後とのこと。深草で車両交換になったということは、この800型自体が、他形式車で編成された淀屋橋始発の列車の、途中からのピンチランナーだったのでしょうか?
それはともかく、登場時のオーバースペックにより故郷の坂本線から京阪本線へ「出世」し、戦後の車体更新で平凡な姿になったとはいえ、時には特急車やスーパーカーに伍して複々線の内側線を走る運用にも就き、約40年間木造のまま働き続け、その後は新造車体に乗せ換えられて故郷に戻り、事故廃車の1両を除き車齢を全うしたこの800型は、名車とは言えぬまでも、電車としては幸せな生涯を送ったと言えるでしょう。
800形は、昭和41年から42年にかけて廃車されましたが、台車、電装品は、石坂線の新車350形に流用され、生まれ故郷に帰りました。
画像はその時のポスターです。「どこが新車ねん、ニセ新車やないか」と思わずツッコミを入れたくなりますが、当時の石坂線の輸送力の逼迫状況が伺えます。
350形も平成9年の1500V昇圧時に廃車になりましたが、358~361の車体が701~704に流用されました。その意味では、琵琶湖汽船100形は、姿、形を変え、脈々と生き続けていることになります。
皆様の思い出話を読みながら、個人的に歴史の中で好きだった、昭和生まれのの木造車800型のことに憶いを馳せていました。
東京オリンピック、新幹線開業の頃まで、関西の大手私鉄に木造車が残っていたことは、私は高橋弘さんが「鉄道ファン」1974年3月号に載せられた「追憶の木造電車」で詳細を知り、届かぬ昔のことを追慕しました。
私が大学に入ったのは79年でしたが、京津線も石坂線も、木造車を鋼体化したグループが、大活躍していた時代であったことを思い出し、80年春の新学期前の合宿の帰りに浜大津付近で撮った350型の写真を探してみました。
たしかに台車回りに弓形ボールドウイン型の特徴をよく残しています。