5月の晴れ間に 日常+αを記録する ③

開業40周年の三陸鉄道へ

5月の最終、もう一件だけ「日常+α」載せます。先週になりますが、三陸鉄道に乗って来ました。いままで三陸鉄道では、佐竹保雄さん主宰の「トレランス号」に、佐竹さんの東北復興への願いを思いながら、2回に渡って乗りました。今回は、私にとっての思い出の地である大槌を中心に瞥見してきました。過去、デジ青誌上でも、三陸鉄道の前身である、国鉄山田線の大槌駅のこと、そこで何気に撮った写真が、意外な展開を見せて、「トレランス号」が走る端緒にもなったことも書きました。 「TOLERANCE 10」 大槌を行く! | DRFC-OB デジタル青信号

「トレランス」に乗車してから5年が経過し、この間にも、地域の復興はさらに促進されて、三陸鉄道を取り巻く状況も変化していると聞きます。現地でその空気に触れるべく、家族とともに大槌入りとなりました。釜石から三陸鉄道で3つ目の駅が大槌、震災で街も鉄道も壊滅したが、もとJR山田線は三陸鉄道に移管されて、大槌駅も旧駅とほぼ同じ場所に設けられた。その三陸鉄道は、ことし開業40周年を迎え、そのヘッドマークも掲げられている。車両も開業時の36-100形が、三鉄のオリジナル塗装のままで走っているのが嬉しい。

三陸鉄道は関西から行きにくいところだ。朝5時に起きて、空路、高速バス、BRT、鉄路を乗り継いで、17時前にようやく大槌に到着した。大槌から二つ目の浪板海岸駅近くで泊まり、翌日、朝食後に、快晴の空のもとで列車を撮影、昨日と同じ36-R1で、もともとイベント用の車両が日常的に使われている。浪板海岸8:55発の2206Dに乗って、再び大槌へ向かった。36-101+36-209の2連、都会ならラッシュ時間帯に当たるが、車内は、ご覧のとおり、2両も連結しているのに乗客は2、3人だった。ほかの地域以上にクルマと道路が発達した三陸では、もはや通勤に鉄道を使う客など皆無だった。近くの“ひょっこりひょうたん島”を模した大槌駅、駅の業務は観光協会に委託されている。売店や土産コーナーはあるが、前に来たときにあった喫茶コーナーは閉まったままだった。写真コンクールで入選した、クローバー会3人の写真は、2019年訪問の時は中央公民館のロビーに飾ってあった。まだ残っているなら、山手にある同館へ見に行こうかと思い、駅から電話してみたところ、「段ボール箱にしまい込んだ」と連れない返事に、訪問を諦めて街歩きに出発。震災で悲惨な現場となった大槌町役場跡へ。「トレランス」で行った時と同じく、付近は緑地帯となり、地蔵堂が設けられている。新しく説明板が建てられていた。役場跡の隣に新しく出来たのが、文化交流センターの“おしゃっち”で、震災伝承資料室もあり見学した。みごとだったのは、震災前の街を復元したジオラマで、町民の記憶を頼りに、「〇さんの家」とか「〇〇商店」とか、すべてに名札が付けられていること。駅(中央付近)の周囲に、びっしり街が続いていたことに驚いた。駅に戻って2階のテラスから、発車して行く回送の36-R2を撮影した。本来なら見えるはずの海岸も高い防潮堤で見ることができない。上掲のジオラマのように、びっしり家が建ち並んでいたが、いまは茫々とした草地が広がるだけ。大槌駅のホームと、停車する36-712+36-706 これにも客はなく回送だった。いまから52年前の国鉄山田線の大槌駅の時代に、ほぼ同じ場所から何気に撮った交換列車の写真が、その後、震災を経て、賑わいのある大槌を偲ぶ縁となるとは、当時は想像すらしないことだった。大槌11:02発の2010Dで、つぎの目的地へ向かった。

先ごろ発表された2023年の三陸鉄道の決算では定期客は減少傾向は続くものの、コロナ禍後の観光客の入り込みもあり、定期外は増加し、総数として乗客数は増加に転じているとのこと。ただコロナ禍以前に戻っただけの話で、三鉄を取り巻く状況はきびしい。

現地へ行って分かったことは、高規格の復興道路が縦横に伸びていることだった。他の地域なら有料道路になるべきところ、すべて無料供用となれば、クルマが増えるのは当たり前だ。少子化に加えて、地域の人口流失は震災以降ずっと続き、三鉄の定期輸送の中心である高校生は震災前と比べて激減した。高校の統廃合もあり、今まで百人単位で高校生の利用があった駅が一挙に乗降ゼロになってしまった例もあると言う。三鉄が不通の間に親のマイカー送迎も定着してしまった。もうひとつ、病院の移転も大きいそうだ。駅前にあった病院が、駐車場の確保も含めて郊外の高台に移転する例も多く、通院客、見舞客、病院勤務者の鉄道利用が急減している。さらに役場などの公共施設も、順次、駅から離れた高台に移転していて、利用者、勤務者の鉄道利用も困難になってきている。このように、三鉄特有の事情として、駅から離れた高台に、住宅や公共施設が移転していることも、三鉄にとっては大きな打撃だ。線路跡を走るBRT(バス高速輸送システム)は、今回、内湾入口(写真、気仙沼のひとつ先)から盛までを利用した。BRTは線路跡のバス専用路と、市街地の一般道路を適宜使い分けて運転されているが、復興道路の整備が進み、高規格道路へ乗り入れるバスがあった。従来なら停車すべき乗降の少ない停留所には寄らずに、山手に造られた高規格道路を一気に走り抜けるもので、所要時分もやや短縮された「快速」となっている。

 5月の晴れ間に 日常+αを記録する ③」への4件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    ご家族で浪板海岸駅近くに泊まられたとのこと、もしかして『三陸花ホテルはまぎく』でしょうか。私もこのホテルに思い出がありますので投稿いたします。東日本大震災前は、名称を『浪板観光ホテル』といいましたが、会社時代、仕事の関係から前社長の山崎社長と会議等で何度か同席し懇親を深めました。この社長が大震災当日、宿泊客を全員避難させた後、ロビーで最後まで残存者がいないことを確認して、ご自身が津波の被害者となり亡くなりました。現在は社長の弟さんが『三陸花ホテルはまぎく』として再建され営業を継続されていますが、このエピソードはテレビ等で紹介されました。この経緯が女性セブン誌2018年(平成30年)11月29日・12月6日号に掲載されましたので転載いたします。

     2011年の東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県大槌町。22mもの津波が襲い、豊かな三陸海岸を眺望できる『浪板観光ホテル』も営業停止に。
     当時ロビーにいた社長の山崎龍太郎さんは波にのまれた。山崎さんの弟で同ホテル常務の千代川茂さんが再建を決めたのは、陛下との思い出だった。
     遡ること14年前の1997年に、『第17回全国豊かな海づくり大会』で大槌漁港を訪れた両陛下は、当時『浪板観光ホテル』の名だった同ホテルに宿泊。
     近くを散策された際、崖側に咲く可憐な白い花に目をとめられた。「あの花は何ですか?」と尋ねられ、「ハマナスですね」と答えてしまった千代川さんに、陛下は優しく「ハマギクじゃないかな?」とお声がけされたという。
     実は、ハマギクは陛下が好まれる花だった。そこで後日、兄の山崎さんは、ハマギクの苗を皇居に献上する。
    震災から半年後の2011年秋、千代川さんは皇后陛下の誕生日に宮内庁が公開した写真を見て息を呑んだ。そこには兄が贈ったハマギクの花が真っ白に咲いていた。
    「ハマギクの花言葉は“逆境に立ち向かう”。兄が贈ったハマギクが、皇居で美しく咲いていました。その姿に勇気づけられ、ホテルの再建を決めたんです」(千代川さん)
     2013年8月、『三陸花ホテルはまぎく』と、名前を新たにホテルを再開。2016年9月には両陛下が訪れ、千代川さんの出迎えに「頑張りましたね」と、優しく声をかけられた。(コメント注:陛下は、現上皇陛下です)

    2019年3月23日にJR東日本の山田線 釜石駅-宮古駅間が三陸鉄道へ移管されリアス線として全線復旧されましたが、その3か月後の2019年6月29日の宮古駅の山田線普通列車と新お座敷車両36-Z1愛称「さんりくはまかぜ」です。それにしても釜石線の快速「はまゆり」を始め三陸地方は『はま』という名称がよく似合います。

    • 快速つくばね様
      コメント頂戴し、ありがとうございます。はい、泊まったのは「はまぎく」でした。大震災のこと、その後の両陛下が宿泊された時のエピソードも知っていましたが、つくばねさんが、震災前から「はまぎく」の前社長と交誼があったこと、いまの経営者は亡くなった社長の弟さんだったことなど知りました。いい旅館でした。建物は3階まで津波が押し寄せたものの改修されて使われていて、ちょっと古めでしたが、接遇や食事も満足で、何よりオーシャンビューの眺めは最高でした。写真は、ちょうど満月で、ブルーモーメントに撮ったものです。
      お書きの快速「はまゆり」も、釜石→遠野、遠野→盛岡で乗りました。珍しい指定席車も連結したDC快速です。さすがに指定席は閑古鳥が鳴いていましたが、自由席車の2両は、最混雑区間では7割程度の乗車で、乗降の少ない中間駅は通過して、地方の中核都市と、その周辺の市を最速で結ぶ快速列車は、ほかの線区でも可能性があるのではと思いました。

      • いい話をお聞かせいただき有難うございます。総本家さんおっしゃるとおり三陸鉄道は関西から遠くて行くのには一大決心がいるところです。私もC58時代の記憶はなく震災後一度だけ乗り鉄したことを覚えているくらいです。快速つくばねさんもいろいろなことを経験され記憶が鮮明ですね。コメントしていただきいつものことながらありがとうございます。

    • 総本家青信号特派員様
      準特急様
      確かに関西から三陸地方は遠いですね。首都圏から山陰本線の「浜田-東萩」間に行く感覚があり、いずれも鉄道より新幹線下車駅から直行する元国鉄バスが運行していた路線バスの方が早いという皮肉な地域です。三陸鉄道は、東京から日帰りが可能なので、乗り鉄が目的で「大人の休日倶楽部パス」で日程が余った時によく訪れました。
      三陸鉄道の置かれている現状がよく理解できました。BRTに何度も乗車して考えていたのですが、国の復興事業で高規格道路の国道45号を整備する経費のせめて2割でも鉄道整備費用に回し、海岸から離れて国道と並走する形で線路の移設工事ができなかったものかと考えてしまいます。
      「はまゆり号」も好きな列車のひとつです。車両は急行「陸中号」用に使用するために製造されたリクライングシートのキハ110系0番台とセミクロスで一般形の100番台が使用されています。通常は3両編成で盛岡寄りの指定席3号車と自由席の2号車が0番台車、1号車が100番台車の編成で、花巻駅でスイッチバックするので釜石線内は下りの先頭車が3号車となり、いつも準特急様の言われるお得な2号車に乗車しています。(2014.6.25 盛岡駅で発車待ちの「はまゆり3号」)
      いま「ジャパン・レール・パス」を使用した訪日客で新幹線を中心とする背骨路線が活況を呈していますが、肋骨路線にもイベント列車でなく通常に指定席が購入できる「はまゆり号」のような列車を充実させることができれば、日本列島均衡にインバンド客を迎え入れられるのではないでしょうか。

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