木次の“おろち”様より

昨年の木次旅行でお世話になった、“おろち”こと「C56105保存会」副会長様から会報が贈られてきました。文中に昨年の我々の訪問や、協力したフォトブック「想い出の木次線」が紹介されていますが、やはり心配なのが三江線亡き後の木次線の行方です。今後ともご協力は惜しみませんとお礼状にしたためておきました。

木次の“おろち”様より」への2件のフィードバック

  1. いやまさかの7両編成とは俄かには信じられず驚きました。最初は団体か何かの臨時増結かと思いましたが、地元の方がそうおっしゃられて写真も撮っておられるのですから、昭和52年には本当にあったのでしょう。小生が10年後のJR化後ほどない頃に見た時は4両編成でした。
    ただちょっと引っ掛るのは駅の有効長が果たして7両分あったのか微妙なところだったような気がします。当時は出雲大東と加茂中が交換可能駅でしたが、いずれも短い有効長だったような記憶があります。しかしいくら木次線とはいえ150m位はあったでしょうから、ホームにかかるかからないは別として、これは小生の杞憂かもしれません。尤もそれらの駅で交換しなければ(事実交換していない時期もあった)、木次~宍道間を一閉塞扱いにして、有効長をはみ出して運転していた可能性はありますね。
    それより三江線なきあと、芸備線の一部区間と共に、次のターゲットとしてヒタヒタと廃止の危機が迫って来ているように思われてなりません。

  2. お問い合わせ頂きありがとうございます。列車番号(当時)444Dで八川を3輌で発車して木次で後よりに4輌を増結して7輌で松江まで行っていました。木次~宍道間には南大東・出雲大東・幡屋・加茂中・南宍道の5駅ありますがこの間交換はありませんでした。しかし、ホーム長は当然7輌には対応していませんので、出雲大東では前3輌、加茂中では3~6輌目と停車位置を変えて停車して発車後に車内で所定の号車に移動していました。また、南宍道は駅のL部分が3輌分しかありませんので停車出来ず通過していました。当時(S52頃)の車両は米ヨナ持ちでしたので新製配置されたキハ53・23・45が木次線に集中配備されていました。今、思い出せば良き時代でした。

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