2016年12月に「[79165]下津井は生きていた」を投稿しました。この訪問の際には フェンスの外から車両達を撮影したのですが、今回は予め「下津井みなと電車保存会」に見学依頼をして、車内も含め丹念に見学させて頂きました。今回はT氏、I氏と一緒に水島経由の訪問です。
下津井駅跡に並ぶ車両達の配置はこのようになっています。
2016年12月に「[79165]下津井は生きていた」を投稿しました。この訪問の際には フェンスの外から車両達を撮影したのですが、今回は予め「下津井みなと電車保存会」に見学依頼をして、車内も含め丹念に見学させて頂きました。今回はT氏、I氏と一緒に水島経由の訪問です。
下津井駅跡に並ぶ車両達の配置はこのようになっています。
水島臨海鉄道は旅客列車、コンテナ貨物列車が数多く運転されており、工業地帯なので 風光明媚な撮影地はありませんが、元気な非電化私鉄です。クローバー会の木次線ツアーに先立って T氏、I氏をお誘いしてレンタカーで水島臨海鉄道を訪ねることにしました。この日は平日でしたので、朝夕の通勤通学時間帯にディーゼルカーの2連が走るので 御両名に合流する前に 朝の2連を狙うところから撮影開始です。
倉敷市駅に列車が到着するとホームは人であふれ 岡山方面に向かう乗換え客も多いようでした。MRT306の行先表示は「三菱自工前」となっていますが倉敷市駅到着前に早々と表示変更したようです。昼間の列車の大半は水島止まりで、ひと駅先の三菱自工前まで行く列車は朝夕が中心です。
さて朝の塩狩での一仕事を終え、塩狩駅で交換してきた332Dを仕留めてユースに戻り、仕度をしたのです。7号車はここから始まります。
■長駆登別。途中美唄下車
本日は、長駆登別までの行程で、しかも途中で道草(ではないが)するのである。昨日と違い、幹線の威力を実感することになる。
朝食を済ませて9:15の337Dに乗るのである。何しろエキチカなので大丈夫。9:00を過ぎていても3人とも気が付いていない。すれ違うことになっている急行「宗谷」が走り去って行くのが見えた。337Dは既に停車していたのであります。諦めつつも走れ走れでどうにか乗ることが出来ましたが、乗車後にキャラバンシューズの紐を結ぶ始末。教訓:何でも最後まで諦めたらあかん。小林氏はこの場でもハヒハヒ言いながら編成を調べました。
←幌延キハ22102旭アサ+キハ22321旭アサ(音威子府止り)
この日は急行で美唄経由で登別に行くことになっていたのに、何故宗谷本線の下りに乗ったか、お分かりかな?この337Dで一旦、士別まで下って、士別から急行「宗谷」で戻るためであります。当時の急行網とそれを利用できるダイヤに利用者への配慮が見えますね。鉄道の復権にはこういう木目細かい施策が不可欠と思います。
「宗谷」は、
←函館③キハ5625+④キハ56107+④(増)キハ2742+⑤キハ27103+キロ26101+⑦キハ56214 全て函ハコ。
「宗谷」は満員であったけど、座席を無事確保した3人を乗せて旭川を過ぎ、電化の進む函館本線に入っていきます。
旭川を過ぎ、車内販売の弁当うなぎめしを買う。包みには写真のように岩見沢名物などと書いてある。ん?岩見沢も鰻の産地か?まあ、美味ければ良いのである。かぶって見ると皮が厚いではないか!これが本当の皮さかな(革さかなが相応しい?)と納得し食した。
さっそく大津の86さんがレポートして頂きましたので、私は補足説明的に2日間の印象に残ったシーンをご紹介します。まずは8日 新見から乗車した443D(キハ120単行)の混雑ぶりです。
岡山で伯備線に乗る前にお弁当を買い、新見からの芸備線車内で沿線風景を楽しみながら食べようと思っていましたが、伯備線新見行き849M(2連)の混み具合から考えると、かなりの人が芸備線443Dに乗り換える雰囲気で とても443Dでは座れそうになく、伯備線内で急いで弁当を食べました。正解でした。青春18の期間は避けねばなりませんね。
先に投稿しました「227系の功罪」に対する1900生さんのコメントで「シティ電車」の話が出ました。当地でも「シティ電車」と書かれた看板を見た覚えがあった河内駅に行ってみましたら、今もありました。
河内(こうち)駅といってもご存知ないでしょう。山陽本線三原駅から広島方面に向かい、2番目、本郷駅の次が河内駅です。歴史は古く明治27年に山陽鉄道によって開業しています。現在は東広島市の東端にあたります。古レールを組んで作られた跨線橋があり、そこに「シティ電車」と書かれた看板が取り付けられています。そもそも「シティ電車」とは国鉄時代の昭和57年のダイヤ改正で広島・岩国間の電車が15分間隔で設定された際に「シティ電車」という愛称が使われたようです。その後昭和59年に広島・西条間と広島・呉間が30分間隔になり、61年には広島・岩国間が10分ヘッドへと増発されてゆきます。昭和62年にJR化されます。
一方 現在は東広島市ですが平成17年まではここは賀茂郡河内町でした(余談ながらこの賀茂郡と言う地名は 中世に京都の賀茂神社の荘園であったことに由来しています。賀茂川もあります)。従ってこの看板はJR発足後で、かつ平成17年以前に掲げられたことになります。現在広島から上り方面に西条止りは殆どなく 更に東の白市折り返しとなっています。白市駅が広島空港に最も近いJRの駅のためです。現在の広島空港の開港は平成5年10月ですから、シティ電車が西条折り返しから白市折り返しに延長されるのも平成5年以降です。看板に「延長を!」とあるのは 白市駅まで延びてきたシティ電車があと2駅延びれば河内駅だからです。しかしこの願いは実現していません。そんなことより、ひと昔も前の看板が今も掲げられていて 10年ほど時計が止まっているような感じがします。
広島地区に久方ぶりの新型車227系が投入されて、すっかり定着してきた感があります。中国新聞読者投稿欄にこんな一文がありました。
私は広島市域から離れた場所に住んでいますので、ときどき広島に出かけるのに227系に当たるとラッキーと思い、115系が来るとガッカリという思いしかありませんでした。227系はMC+M+MCの3両編成かMC+M+M+MCの4両編成が基本だったと思います。一方115系はTC+M+M+TCの4両が基本ですから、改造車のクモハMC+M+TCの異端編成でない限り殆ど4両でした。なので227系投入でサービス低下を招いているのかもしれません。通勤時間帯の広島市域の実態を体験していませんが、この投稿者の言われる通りだろうと思います。
KAWANAKA氏が「寒中北海道見聞録」の復刻版を連載されています。その4号車で予告がありましたように 私がこの旅で出会った夕張鉄道の車両とは その後も各地で再会することになりました。そんな後日談を紹介したいと思います。
夕張鉄道を訪ね、写真を撮り、気動車に乗ったのは昭和44年2月27日のそれも半日程度でした。夕鉄は昭和46年11月には栗山・野幌間に短縮され、昭和50年3月末に廃止の運命をたどります。ところが 永く鉄道趣味を続けている者の特権かもしれませんが、その後 各地で元夕鉄君に出会うことになるのです。それを具体的にご説明しましょう。夕鉄にいた湘南タイプの気動車6両は 夕張を離れて津軽海峡を渡り、第二、第三の職場を得てゆきます。そんな彼らに各地で出会う機会に恵まれました。
まず簡単に6両とのご縁を整理してみました。下線は再会を示します。
3月5日の中国新聞朝刊には可部線延伸を中心にダイヤ改正関連の記事があふれていました。
一番列車730Mはあき亀山駅発5:08と夜明け前にもかかわらず、地元の人たちや報道陣でにぎやかだったようです。
明日3月4日にJRのダイヤ改正が行われますが、広島では可部線の延伸と山陽本線寺家(じけ)駅の開業が話題になっています。特に可部線延伸については、一旦廃止された路線の復活と言う話題性もあってマスコミの注目度も高いようです。明日開業で5日の紙面はにぎやかなものになると思われますが、すでに数日前から関連記事が載っていますのでご紹介します。
総本家青信号特派員氏が筑豊のすばらしい写真を次々と紹介されています。その中にC5546が登場し、大分で保存されていると書かれていました。そう言えば 番号は覚えていないけれども、大分市内でC55の保存機を写したことを思い出し、写真を探しました。すると46号機ではなく53号機なのです。
3月4日のJRのダイヤ改正まで10日余りとなりました。さっそく時刻表3月号を買って眺めているところです。昨日の中国新聞朝刊には 可部線延伸開通を心待ちにする地元の記事がありました。
新しい時刻表を見て驚いたのは 可部線の下り最終871Mが広島発0:05、安芸亀山着0:43、翌朝の始発730Mが安芸亀山発5:08というダイヤです。以前レポートしたように、安芸亀山駅には電留線もあり、電車が駐泊するのは驚くことではありません。しかし安芸亀山駅は無人駅です。最終871Mの乗務員は電車を留置したあと、始発での仕業開始まで どこでどうするのだろうと余計な心配が先に立ちました。
総本家青信号特派員氏が投稿された記事を読んで全く同感で こうして投稿しました。私は彼ほどの枚数は無いものの 50枚以上の地図を捨てられずに持っています。私は高校時代「地学部」でハンマー片手に化石採集をしていて、近江鉄道多賀線の奥、西濃鉄道沿線、北恵那鉄道沿線、有田鉄道沿線などの山の中を歩いていたこともあって その時に買った地図もあります。DRFC時代には特派員氏と同様に旅行前には小林地図専門店を訪ねるのが常でした。ガラガラとガラス戸を開けて入る古い町屋造りのお店だったように思います。
この一覧図で予め欲しい地図に当たりをつけておいてお店に行くのですが、出してもらうと線路は端の方に少しだけかかっているだけで わざわざ買うほどのものでは無かったりで 何度も出したり入れたりしてもらいながら選んだものでした。1色刷りが1枚80円でしたが、長い旅になると1枚では済まないので 財布との相談で どうしても必要なものに絞り込んで買ったものでした。
キハニ5000の話題に対して戦後撮影の貴重なお宝画像をご披露頂き、感謝に堪えません。もうひとつだけ糸崎関連の話題を凝りもせずにご紹介させてください。昭和14年8月26日の中国新聞備後版の記事です。
私の1日は朝食後にデジ青を見ることから始まります。今朝は驚きました。準特急氏が「少し前の三原、糸崎駅界隈」と題して6枚の写真を投稿されているではありませんか! 撮影が1964年、65年ですから もう半世紀以上が経過しています。でも感覚的には 私も「少し前」と感じます。ここのところ雪が舞う寒い日が続いている当地ですが、今日は快晴の穏やかな日和なのを幸いに 準特急氏が撮影された6ヶ所の今を巡ってこようと 早速出かけることにしました。準特急殿の記事の順に「あれから半世紀後の三原、糸崎駅界隈」をご紹介し、準特急殿への御礼に代えさせて頂きます。
まずは三原駅に到着の急行安芸 C59161のカットからです。1975年(昭和50年)に山陽新幹線三原駅が開業します。その時点では新幹線は山側に高架、在来線は地上のままでした。1989年(平成元年)9月になって 在来線上り線が高架となり、翌1990年に下り線も高架となって 現在の姿になりました。従ってC59を撮影されたと同じ位置での撮影はもうできません。C59の背景にパチンコ屋と「みつわ」という看板が見えます。下の写真で 屋上に赤い看板が載っているのがパチンコ屋の位置です。昔の写真ではパチンコ屋と仕出し屋「みつわ」は接していますが現在は駐車場をはさんで白い5階建ての細いビルが「みつわ」さんです。急行安芸の3両目 オロネ10の位置に踏切がありますが 当時は「東1番踏切」と呼ばれていた開かずの踏切で 丁度「みつわ」さんの前でした。踏切跡の道路は今もあります。また 高架が邪魔していますが、バックの山の形は変わっていません。
糸崎や尾道がらみの投稿連発で恐縮です。鉄道とは関係のない郷土史のことを調べるために図書館で古い新聞記事を丹念に見ていると、自ずと鉄道関連の記事にも目がとまります。昭和8年8月8日の中国新聞備後版にこんな記事を見つけました。
先に「尾道の話題」として「ラ・マル しまなみ」をご紹介し、私のボヤキに米手作市様より「ハゲドウ」して頂いてから1週間が経ちました。今日はその「ラ・マル しまなみ」が走る日なので、尾道・糸崎間の回送電車を撮りに出かけました。例年センター試験の日にはよく雪が降りますが、温暖な当地でも珍しく薄っすらと雪化粧の朝でした。回送電車は正午ごろですから、かなり気温は上がってはいるものの風が強く時おり横なぐりの雪も降って 海岸で待つのも大変でした。丁度海岸近くをタグボートが2隻の台船を曳いて西へ向かっているのですが、向かい風で全く進まず難儀していました。