江若近江今津/鹿児島市電

なぜかしばらく鳴りを鎮めていた総本家青信号特派員氏が、憑き物でも落ちたか、心機一転されたか、俄然連続投稿。江若となると拙老も負けてなるものかと奮起したいところだが、その実あれだけ江若に通いつめたのに、終点近江今津まで行ったのはたったの1回、それも就職してからで、要は運賃がすこぶる高い鉄道だったから、に尽きる。

近江今津の本屋は屋根が尖って著しく高く、一見山小屋風?だったと記憶する。画面右側に半分写っているだけだが、ご推量願いたい。構内は広かった。撮影は1969年7月27日。

電車と、それも路面電車なんぞとは無縁と思われがちの拙老だが、少しは撮っている。これは1955年3月20日の撮影で、ドイツ製バルジーナという35mmスプリングカメラだったが、なまじファインダーにパララックス矯正装置がついているのが仇になり、例えば製造銘板や台車など、接写の際修正して、その後ほぼ間違いなく戻し忘れる。と、これも間違いなくその後の撮影はパンタやポールが切れる、という始末となる。

1955年時点での鹿児島市電は2軸単車の方が多かったように記憶する。解説は本来なら乙訓老人のお役目であろうが、このところ沈黙を続けて御座らっしゃるので、どなたか、代稽古(といっては大変失礼だが)を努めて下され。

なおフイルムは純正品を買う金がなく、写真屋で得体の知れぬ代物を使った。現像するまで種類や感度が分からない、というのは、太秦あたりの映画カメラマン助手の助手あたりが、残尺と称する、撮影時中途半端に残ったネガフイルムをくすね、小遣い稼ぎに写真屋に売り、写真屋はそれを何回使ったか分からん古パトロ-ネに詰めて売り、カネのない我々が買う、という仕組みである。

それでもその後の「純正ネオパンSS」と違い、53年経過してもビクともしていないのが何とも皮肉である。

おじん2人ヨーロパ軽便 その23-12

THE GREAT LITTLE TRAINS of WALES その5

小生にしては珍しく約1か月の間隔があいてしまった。やれ嬉しや、この「どこまで続くぬかるみぞ」シリーズもやっと消え失せたか、とはかない喜びを感じた手合いがもし居れば、そ奴に呪いあれッ!

次に訪ねた VALE OF RHEIDOL RAILWAY は旧スレート運搬の産業鉄道ではなく、純粋の観光鉄道で、1902年12月22日開業。軌間1フィート11 1/2インチ(597mm)で、ウエールズ西岸 Cardigan Bay に面するリゾートタウン Aberystwyth の英国鉄道駅から Devils Bridge (滝があるそうな)まで、11 3/4マイル(約19km)の間に600フィート(約180m)程を、Afon Rheidol なる川に沿って上る。180mなんて丘もいいとこだが、そこはそれ、ほとんど山らしい山がない英国・ウエールズのことだから、山といってもいいのか。かつての「ウェールズの山」なる、心温まる映画をご記憶だろうか。

この鉄道はその後 Great Western 鉄道に属したが、その後国鉄に統合され、ご多分に洩れず1988年11月5日一旦停止した運行を、新組織で続けている。いきなり見た機関車はPRINS of WALES なる銘板を付けた3号機で、当線オリジナルの2号、GWR時代は1213号、国鉄時代に9に改番。1902年 Daves & Metcalfe 製1C1タンク。ため色というのか、海老茶色というべきか、実に美しく、かつ軌間からは信じられないほどでっかいアウトサイドフレーム機関車で、サイドタンクが大きく煙室の前まで伸び、さらにその前にエアコンプレッサーがどかんと立っている。連結器はドロップフック。キャブの少し前から幅が広がっているのは何でか。

機関車はこのように素晴らしいのだが、客車はいささか、機関車にマッチしているとは云いかねる。運行は1999年の場合4月2日から10月28日まで、月、金曜日には運休する日があり、大方は Aberystwyth 11時、14時30分発、Devils Bridge 発13時、16時30分の2往復だが、6~9月には4往復する日が計32日ある。運賃は往復で大人10.5ポンドと高いが、小人は大人1人につき2人まで各1ポンド、これを超えると1人5.25ポンド、犬1匹1ポンドとある。一等車は片道1ポンドプラス。他に交通機関はないと見え、運賃は往復のみの設定であった。

上ってくる列車を撮るべく場所を探したが、何分線路両側とも森が深く、おまけに著しく狭く、カーブもきつく、見通しは全くきかない。パンフレットにもあまり展望の開けた写真は無いようで、土地不案内者にはどうしょうもない。走行中の機関車は8号で、これはGWR時代の1923年増備、やはり1C1でGRW Swindon 工場製。名前は「LLYWELYN」 だが、例によってウエールズ語だから何と発音するのか。スリヴェリン?

我々は滝には興味がなく、途中山をやや外れたあたりでの「走り」を撮ろうと、不案内の猛烈に狭い道を山勘で走っていたらタイヤがパンクした。万一に備え軍手まで持ってきてはいたが、弱ったのは道が狭く、もし対向車なり追い越し車がきたらどうにもならない。仕方なく農家の矢張り狭い駐車場を無断で一時占有させて貰い、タイヤを替えた。レンタカーでかなり各地を走ったが、パンクは唯一の経験だった。このお陰で「走り」は諦めざるを得なかった。

Aberystwyth まで下りて来て、British Rail の駅でディーゼルカーを撮ったが、駅近辺に何と何と、単気筒の内燃機関車が半分朽ち、赤錆姿で鎮座しているではないか。ラストン1915年製で、製番50823、煙突まわりは新しい同社DLも同じ雰囲気である。通りかかった鉄道従業員と思しきオッサンは、親切に「こいつはペトロル(ガソリン)で始動、温まったらパラフィン(灯油=米語ならケロシン)い切り替えた」と教えてくれた。そんならフォードソンと同じである。

しかし1915(大正4)年で単気筒とは。我国では実に1904(明治37)年、大阪難波で福岡駒吉が焼玉ではあるが5馬力の単気筒石油発動機関車を生み出し、翌年以降北九州の軌道に約80台を馬車軌道の馬に替わる「日本版アイアンホース」として供給しているから、これは世界的にも誇ってよい。

その隣には1930年製のディーゼル機関車がいた。また現役の10なる短く小さい入換用DLがいた。

おじん2人ヨーロッパ軽便 その23-11

THE GREAT LITTLE TRAINS of WALES その4 TALYLLYN RAILWAY その2


タリスリン鉄道始発駅 いかにもこじんまりとし、実に綺麗である ポストはやっぱり赤い

17号客車 日本にも明治時代あったメトロポリタン製で、コリス鉄道から到来


3コンパートの2軸車

終点駅で

先述のように、この鉄道は本来終点→基点(港)間のスレート搬出を目的とする産業鉄道だったから、途中駅は大した側線もない単なる停留場ないし離合施設だが、沿線には羊の放牧場が展開している。道路や隣接放牧場とは背高の生垣で仕切られ、戦車なら別だろうが、突き抜けたり、上を越すなど物理的に不可能で、考えすらも及ばない程厳重で深くびっしり詰まった茂みである。


僅かだが羊が点在している

マン島でも記したが、これはまさしく高校の西洋史で習った「囲い込み運動」Enclosuer Moovement の表徴なのである。すなわち土地所有者は、それ以外の者の自己土地立入を極めて厳しく拒絶していることに外ならず、我々農耕―中でも水耕―民族には理解の及ばない、それはそれは厳重な拒否表現である。土地立入や通り抜けが銃撃を伴う争いになる西部劇のテーマが多いが、牧畜民族の(広大な)土地に対する執念は、土地本位制とまでいわれる日本人の土地に対する価値観念とは、別次元のものがある。

それでいて面白いのは、恐らくは英国特有の事象であろうが、非土地所有者は「通行権」なるものを裁判で土地所有者から勝取っている。厳重に囲い込まれた放牧場の中に小道が、縦横とまではいわないが走っていて、これが「通行権」によって設定された道= Foot Path なのである。シャーロック・ホームズシリーズに4つある長編のひとつ「バスカーヴィル家の犬」に、村の裁判マニヤの爺さんが、誰それの土地に「通行権を設定してやった」と威張る一幕がある。

そこで問題です。上記のように放牧地は厳重極まる生垣に囲まれているのに、フット・パスはどうしてそれ越えるのか。この鉄道のとある途中駅に近づき、車をおいて小路を歩いたが、駅目前に到り厳重な扉があって近づけない。鍵はないから開けて入るのは容易だが、これが私有地だったら侵入すなわち犯罪になる。標識の類は何もなく、結局我々は入るのをあきらめた。帰路行き違った人に聞くと、あの柵を開け、そのあと閉めておけばよいとのことであった。これが「通行権」かと、身をもって体験した事であった。


鉄道に募金を呼びかける看板

なおマン島 Grodle Glen Railway (555=10月9日)、ウエールズの Welshpool & Llanfair Railway (1035=11月10日)で、BANK HOLIDAY とは?との疑問を呈した。澤村達也氏から、これは英国の休日のことだとご教示があり、辞書をひくとちゃんと出ているではないか。すなわち拙老の「もの知らず」以外の何者でもなく、その上分からん事は辞書を引くという、最低限の努力さえ怠っていた事がはからずも露呈した。お詫びして以下の通り加筆しておく。

BANK HOLIDAYS とは、英国の(法定)公休日で、▽New Year’s Day (1月1日)▽Good Friday(聖金曜日=復活祭の前の金曜日) ▽Easter Monday (復活祭明けの日曜日) ▽May Day (5月第一月曜日) ▽Spring Bank Holiday (5月最終月曜日) ▽August Bank Holiday (8月最終月曜日) ▽Christmas Day (12月25日)▽Boxing Day (クリスマスの翌日) 、の8日を示す。

因みに米国では Leagal Holidays と称し、リンカン誕生日、ワシントン誕生日、独立記念日、コロンブス祭などを含む13日の由。


終点駅で 

おじん2人ヨーロッパ軽便 その23-10

THE GREAT LITTLE TRAINS of WALES その3 TALYLLYN RAILWAY その1

TALYLLYN はウエールズ語だから、L が二つ重なった場合に限り先のL はスと発音するので、タリスリンと読む。軌間は2フィート3インチ(685.8mm)という半端な、実に可愛い軽便鉄道で、ウエールズ編最初に入れた The Great Little Trains of Wales パンフからの地図では⑤である。

後日紹介する幾つかの鉄道と同じく、これはウエールズ特産のスレートを港まで搬出するための産業鉄道であった。1866年12月に開業し、1950年10月廃止されたが、翌年保存鉄道として再開し、かような分野では最古参になる。延長は約12.5km、起点の Tywyn (どう発音するか分からない)Wharf をゼロとすると、ほぼ上り勾配が続くが、終点の Nant Gwernol は269フィート(82m) だから大したことはない。

日本の建築用材料でスレートというとセメントやガラスウールで作った人造素材だろう(乙訓老人よ、解説を)が、本来は天然素材で、結晶板を薄く削ぎ、石造や木造建築物の屋根、壁面などに貼り付ける。南部の石炭(ジョン・フォードが都合4回アカデミー監督賞を得たそのひとつ「我が谷は緑なりき」を思い出す人もいるだろう)と共に、ウエールズ北部はこのスレートが特産物で、採石場がいっぱいあった。当初の橇や馬車から、軽便鉄道を敷設して港まで本格的に搬出されだしたのだが、本来大規模な綿織物業者だったこの鉄道の創始者は、南北戦争のため米国から原綿の輸入が止まって商売が出来ず、スレートに転進した由である。

ヨーロッパの軽便鉄道といってもいろいろある。日本でなら例えば伊予鉄道がドイツ系、小坂鉄道が米国系の車両・流儀で建設され、英国系は青梅鉄道が代表であった。諸兄頸城鉄道自動車に廃止まで健在(実はその後何十年も六甲山中で生き残っていたのに、先年他車両搬出時壊れてしまった)だったニフ1という2軸客車をご記憶か。これは本来青梅鉄道の客車が魚沼鉄道を経たもので、これがいわば英国軽便鉄道系というべき小型客車である。

機関車も写真で見ると可愛いが、軌間に比し9~12トンと、そうは小さくなく、メーカーはフレチャー・ジェニングス、カー・スユアート、アンドリュー・バークレイなど。番号だけでなく、各タリスリン、サー・ハイドゥン、エドワード・トーマス、ペーター・サムなどの固有名詞を持つ。中にはお子様向けに煙室扉に「機関車トーマス」のお面?を付けたものもいた。


客車は4輪車とボギー車だが、その4輪車の可愛い事。特に1等車は2コンパートメントで、我々は共通乗車券に加え1ポンドの「お直り券」を奮発し、道後温泉に行く「坊ちゃん」気分を味わった。車内は当然狭いが、隣のコンパートメントとは高い背もたれと鏡で完全に仕切られ、窓は皮ベルトの穴に車体側のポッチをはめ、適当な位置に止められる。これは完全に馬車の名残で後自動車にも用いられたが、ずっと以前ドイツはキームゼー・バーンの客車で説明した時は写真がなかった。今回写りこんでいる不要な人物は無視して、「窓を途中好きなところに止められるシステム」のみご覧を。なお拙老の記憶に誤りなければ、関西国電に初登場した湘南=クハ86の運転席小窓がこれだった。パンタグラフ式バランサーが普及して姿を消した。



お直り券表裏 1ポンドとるにしてはお粗末

おじん2人ヨーロパ軽便 その23-9

ウエルシュプールで

THE GREAT LITTLE TRAINS of WALES その2  Welshpool & Llanfair Railway 2

この鉄道は1903年開業、1923年にはGWR(Great Western Railway)のグループになり、1931年旅客取扱を停止、1948年には British Railways の傘下になったものの1956年1956年11月2日最終に廃止。その後有志の手で1963年再開されたものである。運行は8月がフル、6月に7日、7月に5日の非運行日があり、4月は14日、5月12日、10月9日、11月5日のみ運行=1999年現在。現時点の運行日はインターネットのサイトで確認頂きたいが、大体同じようなもの。

現在ではボランティアによるレストアの結果可動車両も増加し、さらに客車を含め仲間入りした車両も増えている。我々が覗いた時点列車は3往復だが、ここでも Special Timetable will operate on BANK HOLIDAYS として、年間6回6往復の日がある。この Bank Holiday はマン島の Groudle Glen Railway でもお目にかかった表現だが、銀行休日というのがいまいち理解できない。ボランティア・スタッフに銀行員がいるから、というのでもなさそうで、どなたかご存知の方、解説してくだされ。

さて列車撮影にかかる。ここも沿線に羊の放牧地が多く、例により厳重な生垣で線路両側が閉ざされて撮影場所選定は厄介である。それでも車を走らせているうちに好適地を何か所か発見。列車速度が遅いので、ある程度追っかけも可能であった。また踏切は無人停留場に隣接するよう設定されており、駅に接近した列車から機関助手が降りて線路を塞いでいた柵を90度回転させ道路を閉鎖。


なお車両基地には8号(Dougal)なる、キャブ屋根・前後妻板のないチッポケな機関車がいる。1946年バークレイ製、グラスゴーの瓦斯会社で1958年まで働いていたが、滅多やたらと背が低いのは、元来極めて狭苦しい環境で就役するための特注車両だったからだが、時には動くこともある。


おじん2人ヨーロッパ軽便 その23-8

THE GREAT LITTLE TRAINS of WALES その1 Welshpool&Llanfair Railway 1 

1999年7月20日、我々は早朝リバプールのタウンウオッチングを兼ね、昨夜「素面」の内に確かめた河底トンネルでの町脱出ルートを再度確認。レンタカーを借り出し、先ずは銀行を探したが見付からず。走り回っている内に方角を失うなどし、約1時間遅れて出発。昨夜、今朝と確認を重ねたややこしくやたら狭いインターチェンジで見事間違ってやり直すなどややパニック気味で30分をロス。河底トンネル通行料は1ポンドだった。

これから4日間はウエールズの軽便鉄道を巡るのだが、英国の中の異国と称せられるウエールズは、未だにウエールズ語が健在で、道路標識も先ずウエールズ語、その下に英語での地名が表示されている。文字はアルファベットでも、発音が独特で、まず読めない。例えば最初に訪ねた鉄道はWelshpool&Llanfair Light Railway だが、頭はウェルシュプールで文字通りでも、次がいけない。常識的?にはランフェアと読みたくなるだろうが、これをスランベイルと読まねばならない。

ウエールズに展開し、互いに競いかつ協力し合っている小鉄道は The Great Little Trains of Wales というグループをつくり、パンフレットの置き合いや、共通乗車券の発行をしている。我々が買ったのは有効期間8日、中4日どの鉄道でも使用可能の Great Little Breaks Ticket で、大人32ポンドと一見高いが、個別に買うともっと高いし、その手間も省ける。現在では10鉄道が加盟しているが、1999年時点では8社(バラ・レイク、ブリーコン登山、フェスティーニオグ、スランベリス・レイク、タリスリン、ヴェイル・オブ・ライドル、ウエルシュ・ハイランド、それにウェルシュプール・スランベイルの各鉄道)であった。購入時は年号のみ記入してくれ、あとは自分で日付を書き込む。

最初に入れたパンフでは8番がウエルシュプール&スランベイル鉄道である。英国では珍しい762mm軌間で、古くは馬車鉄道だったものを蒸気鉄道に改めたもの。元来が農産物や羊の運搬を主目的とする鉄道だったが、1960年、保存鉄道として再発足した由。訪ねた時点では本来の車両は散逸あるいは廃棄されていて、各地―といっても世界的規模?で掻き集めている。それもその日走行していた機関車14号は英国ハンスレット1954年製1C1だが、何とシエラ・レオーネ(アフリカ)から購入したのだからいささか驚く。



同様客車もオーストリーのチラッタール鉄道はじめ、アフリカなど各地から買い集めた由。新旧取り混ぜである。


現在では随分車両も揃い、整備が行き届いている様子だが、1999年でも機関車などは結構どっさり集めていて、一応外見は綺麗だが整備が追いついていないようだった。

先頭はハンスレット製DL

No.10 Sir Drefaldwyn号 これはフランス製

No.12 Joan 西インド諸島で砂糖黍を運んでいた機関車でカー・スチュアート1927年製

No.2 The Countess バイヤー・ピーコック1902年製で、Great Western鉄道823号

何度もお断りするように、このときは原因不明のレンズ不具合?で、発色もピントもヌケも著しく悪い。見苦しいがお許し下さい。なお当鉄道のサイトhttp://www.wllr.org.uk/もご覧あれ。 

先回の[860]マン島の最後で、4コマ目マンクス電気鉄道のオープン客車を連結している電車を1号と記した。実は老眼鏡をかけるのを怠っていたのだが、その報いは歴然で、クリック拡大したら7号でありました、というお粗末。歳に免じてこれもお許しあれ。

旧満鉄のジテ

[880] 早川昭文氏投稿の3コマ目写真を要望書込をしたところ、田野城氏からお尋ねが出た。これは拙老に花を持たせようとの温かいお気遣いに違いないが、当方は待ってましたとすぐさま反応し、お誘いにのることにして以下の講釈を。

清朝の廃帝溥儀を傀儡皇帝として強引に満州国の建国宣言をしたのが1932年3月1日。南満州鉄道(以下「満鉄」とする)は1930年以来ガソリンカーを導入していたが、1935年に到り、一挙6編成1~6のディーゼル電気列車を登場させた。一端に500馬力ディーゼル機関と発電機、暖房ボイラーを搭載、手荷物室も備えた流線型ジテ、次いでロハフ、ハフ、他端にやはり流線型の端面を持つハフセの4両が固定編成で、ジテ、ハフセの端面側台車に計4個の150馬力電動機。ジテを除く客車部分は3車体4台車の連接式である。ハフセの「セ」とは制御室の意味である。

右からジテ+ロハフ+ハフ+ハフセ

6両中4両のジテにスルザー(スイス)製6LDT25、2両が新潟鐵工所製KD6を搭載し、同じ馬力(標準460、最大550)でも前者が4.2t、後者5.88tの中速(現在なら低速)機関である。定員は2等28、3等260、計286人、製造は6編成とも日車で、電気関係は1~4が芝浦、5、6は日立。

勿論これは我国及び満州国の国威発揚を目的とした猛烈な「背伸び」での大デモンストレーションで、鳴り物入りの華々しい登場ではあったが、運転整備132t、電動機が150馬力×4とあっては、そんなに速度が出るはずがない。定員乗車時の重量1t当り機関出力(馬力)で比較すると、登場時点の特急「はつかり」5.78、キハ43000系が3.88、キハ42000が4.69、キハ41000が3.86という数字になり、これに比しこのジテは3.42だった。江若キニ9~13ですら3.45、出足が悪くラッシュに使えなかった東京横浜電鉄キハ1~8が5.00だったのである。キハ42000はご存知東海道線の試験走行で空車だが108kmの記録(1935年7月16日)があり、キハ41000でも100kmに達した記録がある。

多大の期待を背負いながら、現実にジテが投入されたのは特急ではなく、大連-大石橋間の各停仕業=表定速度47.1kmの運行である。その後日本で出現したキハ43000系も機関の未熟と出力不足(上記数値は3.88)が主因でものの役に立たず、国鉄工作局エリート技術者はすべてを燃料事情に帰してウヤムヤに誤魔化してしまった。

なお満鉄と国鉄工作局技術者とは犬猿の仲で、国鉄側はキハ43000に期待をかけたはずだが、結局派手な試験をすると馬脚が表れると知った工作局は、ロクな走行テストもせずに、2両のキハ43000は戦災後浜松工場通勤客車代用に落ちぶれていた。中間のキサハ43500だけは電車の仲間入りし、飯田線で予備、最終キサハ43800→キサハ04301として関西線で生涯を終えている。

なお満鉄では1943年になって、2編成のジテ列車からハフセを外して背中合わせにし、かつ両端のジテの両台車を動台車として試験走行した。すなわち機関出力1000馬力、電動機1200馬力で、ジテは当然スルザー機関搭載車を選んだ筈である。この際は時速100kmを保てたのだが、あくまで試験に止まったのは、到底経済的に成り立つものではなかったからである。

そのジテ列車だが、中華人民共和国になって、ジテを捨て、両端を旧ハフセに、各車3扉と多客化改造し、撫順炭坑の通勤電車に化けていたのであった。ベンチレーターもグローブ式に替えられている。誕生以来実に73年が経過しているから、その長命ぶりというか、保ちの良さ、いや保たせの良さにはホトホト関心嘆息するほかはない。写真で見る限りそう荒れ果ててもおらず、面影は充分に残している。

おじん2人ヨーロッパ軽便その23-7

マン島鉄道その7 ダグラス馬車軌道とマンクス電気鉄道~リバプール

場所が前後して申し訳ないが、ダグラスの町の蒸気列車が発する高台から急坂を下ると海岸に出、そこから町の北端、ダービー・キャッスルまで、超高級・高級・一般ホテルや貸別荘が切れ目なく連なる海岸線沿いに1.6マイル(約2.6km)、軌間3フィート・複線のダグラス馬車軌道 Douglas Horse Tramway が伸びている。創業は1876(明治19)年というから古い。客車には屋根もない完全オープン車、2階のみオープン車など何種類かが車庫に収まっているようだ。


これは晴天用オープン客車

目隠しをされたたくましい馬が、それも結構な速さ―ギャロップで客車を引く。それも天候や気温で客車を使い分けているようで、オープンカーだったのが、天候急変で何時の間にか密閉式の客車に交換されている。その雨天用車だが、御者の部分は手綱を持つから妻面の風防はなく、向かって右方のみ、3枚窓が1/4円弧を描くようにして客室に雨が入らないようにしてある。



これが雨用車両で御者は雨衣を着ている。バックは高そうな、やたら古そうなホテル

その終点では、同じ3フィート軌間のマンクス電気鉄道と路上で接続する。開業は1893年9月7日で、1、2号電車はその創業以来の車両というから驚きである。勿論木製車体は部分的に木材を交換するから、現実に100年以上経過しているのは台枠、台車、主要電気器具などであろう。直接制御だがエアブレーキは備えている。

これは創業以来100年経過の1号電車。留置してあったオープン付随車を連結し、これから車掌がポールを回す

バックは貸別荘らしい

車体はスネイフェル登山鉄道も同様だが、赤・白に塗られた部分以外ニス仕上げ、乗降は妻面向かって左側から行う。随分長い車体だが、ポールは1本で、終点では車掌が回す。


スネイフェル登山鉄道との接続停留所

古風な石積陸橋

終点ラムゼイ駅

先回のスネイフェル登山鉄道のサードレール方式手用ブレーキの構造・動作が説明不足でさっぱり分からんとお叱りが。写真を撮っていないので、また 「The Railways and Tramways of the Isle of Man 」から借用してお目にかける。運転席で小さな丸いハンドルを回すと、ネジが菱型状の枠の頂点角度を狭め、下方のブレーキシューがサードレールを締め付けるという、到って単純(野蛮)な仕掛けである。

我々は2泊3日のマン島滞在最終日、猛烈な霧で撮影をあきらめ島を1周。こんな狭い島の、しかも通常道路でマン島自動車レースは行われているのである。空港でレンタカーを返却し、4発プロペラ機でリバプールへ。この飛行機では食事は出なかった。

リバプールは小規模でボロッちい田舎空港で、通常の路線バスが30分毎に空港にまで足を伸ばし、住宅地をぐねぐね曲がって45分かかって市内中心部へ着くのは、伊丹市バスと同じである。相棒=先達のツアコンが予約していたのは国鉄リバプール駅隣接のホテルで、窓から列車がバッチリ見える。これが気に入って、数日後再泊の際も同じ部屋番号を指定し予約。

夕食の外出時、河底トンネルを抜け東岸に渡る、狭く複雑でややこしく迷いそうな自動車専用道路を外周から視察し、一生懸命この標識で右に曲がって次を左に、と記憶し明日に備えた後とてつもなくでっかいビヤホールへ。ビールの銘柄が10種以上、夫々値段が違い、各銘柄専用の(当然だが)サーバーを備えたカウンターが何箇所もあり、皆の衆男女共大方は丸テーブルで立って飲んでいるが、こっちはやはり椅子がいい。エビフライナゲットがややこげ気味だったが意外に旨く、ビールを3パイントお代り。

おじん2人ヨーロッパ軽便 その23-6

マン島鉄道その5 SNAEFELL MOUNTAIN RAILWAY


マン電気鉄道がダグラスの東端(馬車鉄道と接続)を発し、ラムゼイに到るほぼ中間にラグゼイという町が川口から1.5kmほど引っ込んだところに展開しており、道路も電車も川の両岸を深い馬蹄形というか、U字型に迂回している。そのラグゼイからスネイフェル登山鉄道が分岐しているが、マン電気鉄道が軌間3フィートなのに、なぜか3フィート6インチである。どうせなら同じにすればと思うが、別段貨車がある訳でもなく、電車が直通もしないから、強いて同じにする必要もないのは確かではある。尤も建設時はマンクス・ノーザン鉄道の蒸気機関車の軌間を6インチ拡げて借り入れたそうだが。

例えばスイスのインターラーケン・オストからユングラウ・ヨッホへは、まず1000mm1500Vリンゲンバッハ方式ラックのベルナー・オーバーラント鉄道(BOB)、次いで800mm1500Vリンゲンバッハのヴェンゲルン・アルプ鉄道(WAB)、もう一度1000mm1125Vシュトルプ方式のユングラウ鉄道(JB)を乗り継がねばならないのに比べれば、何ということはない。

右はマンクス電気鉄道(軌間914mm)、左がスネイフェル登山鉄道(1067mm)

最初は蒸気動力で計画された由だが、1895年1月建設開始し、4マイル53チェーン(7.5km)の完工が8月というから驚きである。1/9(111.11‰)の急勾配だが、電車は粘着力だけで上れることが判明し、軌間中央に敷設されたサードレールは本来ロッヒェル式(水平両側ピニオン)の粘着版だったのを、下りのブレーキ用のみに使うように変更されたそうな。軌間に3フィート6インチを選んだのは、元来このサードレールの為なのであろう。同年12月鉄道全線は建設費を超える額で Isle of Mann Tramways & Electric Power Co. に、のち更に Manks Electric Railway Co.に売却された。

電車の窓上端は一見イスラミックで、しかも窓は左右引き違いと、木曾森林鉄道等、地元大工が作った客車並。集電器の形態が独特である。これでもビューゲルというんだろうか。外国電車屋さんの解説が欲しい。乗降口は妻面向かって左角で、ステップが2段ある。

外側は綺麗に塗装され、有名なマヨルカ島の電車のようにニス仕上げだが、車内は外ほどでなく、ダブルルーフの下屋根、間柱部分に相当の補強がされている。座席は木製=古い教会の椅子のようで、背摺りは古い米国の客車のような「一応の」転換式である。

上りだすとすぐ濃い霧の中に突っ込んで、速度は遅いがともかく上り続け。地図で分かるように、等高線を斜めに横切り、かなり思い切った路線選定だが、一度主要道路を横切る踏切以外景色は何も見えず。最終地点では621mの頂上をぐるりとほぼ一周して終点である。登山道は等高線と直角で、一気に上る。

頂上は天気さえよければ眺望絶佳の由だが、ご覧のように濃霧の中。折り返す間建物に入ると、嬉や、ビールのポスターが貼ってあるではないか。ところが飲み物はジュースの類だけとは、馬鹿にするにも程がある。責任者出て来い!といいたかったが、語学力の乏しさでそれも叶わず。ただただ辛抱して発車を待つのみ。

このクラシックな電車はエアブレーキが無く、ハンドブレーキのみ。それも急勾配区間は車輪の踏面ではなく、サードレールの左右を運転手の人力で締める。その構造は写真を撮り洩らしたが、到って素朴単純。濃い霧で車輪がスリップし、砂が無くなって運転手が顔色を変え、運転席を離れて客室内の予備砂を取りにいったのにはいささか驚いた。以前ご覧頂いたオーストリーはリンツのペストリングベルクバーン(105‰)電車のように、普通ならカーボンランダムブレーキやマグネットブレーキを備えるところだろうが、ユニークなブレーキ専用サードレール方式が、この電車のウリなのである。

ともかく無事下界に到着。ラグゼイの接続地点はマンクス電気鉄道と隣接だが、レール配置を控えるのを怠り、どうなっているのかよく分からん。サブロクと3フィートがあたかも接続されているように見えるが、当然そんなことはない。おじん2人+1人の1人氏は、万難を排し寸暇を惜しんで線路配置を克明にメモする特技と熱意の持ち主だが、このときはいなかった。


右スネイフェル登山鉄道、左マンクス電気鉄道

乙訓老人の誘いに乗って



乙訓老人の[668]「仙台市電あれこれ」で拙老にチョッカイが出た。すぐ反応するのは沽券にかかわるから、しばらく待とうかとは思ったが、そこがこらえ性なのなさ、軽佻浮薄、おっちょこちょい、ヒマなどで、すぐ古いアルバムを探すため押入を引っ掻き回し、後始末もしないまま、いそいそとスキャンに取り掛かったのであった。

秋保電気鉄道(1959年7月1日以降仙南交通自動車と合併し仙南交通は1914年12月23日軌間762mm、秋保石材軌道として、動力馬力で開業。名の通り石材搬出が目的だが、終点湯元(後秋保温泉)は素朴な秋保温泉と川を隔てただけで、湯治入湯客も運んだ。1922年秋保石材電気軌道と改称、1067mm改軌及び600V電化し、1925年8月21日秋保電気軌道と改称して電車に。貨物は可愛い凸型電機EB101が牽引。

1944年7月20日運輸通信省鉄道総局業務局長、内務省国土局長連名の依命通牒「軌道ヲ地方鉄道ニ変更スルコトニ関スル件」=要は当局の事務簡素化のため、多くの軌道が地方鉄道に変更指導(強制)されたが、ここもそれにより1945年1月1日軌道から地方鉄道に変更した。


但し実態は何等変わらず、のんびりした1本ポールの田舎電車で最後まで終始した。言葉を変えれば、主力の電動車が車体をそのまま、2軸からボギーに改良された以外エアブレーキもなく、「近代化投資」は一切なされじ、2軸電動車は410、411以外予備役。すべて専用(新設)軌道で、道路併用区間はない。






拙老幼少のみぎり、親父が転勤族のため2年半仙台で暮らし、東二番町国民学校初等科に入学。この電車にも乗った覚えがあるが、長ずるに及び1955年再見。こんな超ちっちゃな電車だったことを確認した。幼少の記憶ではもっと大きい電車だったから、正直かなりのショックで、裁判での幼少者の記憶証言が本当に信頼できるものかどうか、本気で考えたこともある。


軌間は確かにサブロクだが、車両定規は狭く、軽便と大差ないのは、例えば静岡鉄道秋葉線等と同じで、カーブもきつく、そのためボギー化したのである。終点でのポール回しは、我々が見た時点では他に和歌山電気軌道市内線ぐらいであろう。ただ路面乗降はなく、すべてプラットホームがあった。1956年4月1日改正ダイヤでは15往復、16.0kmに53分程度を要し、昼間でも大体中間で離合する。長町-月ヶ丘間には30~60分毎でローカル列車が運行され、もっぱら半鋼製の410、411が当たっていた。

乙訓老人が黙ったいる筈もなかろうから、余計な写真説明講釈は省く。はるか後年、「おじん2人」の先達=相棒が仙台に単身赴任していた折、彼の車で何十年ぶりかで早朝秋保を訪ね、地元民用の質実剛健な共同浴場で朝風呂に。その折いいものを見せてやると、酒屋の車庫に案内された。これ何と、かつての超素朴な秋保温泉駅の上屋=1407の車掌がポールを回している背後の小屋そのもの=で、よく数十年も残っていたものだ。
写真で分かるように、左側に狭いプラットホーム、電車の線路は1本突っ込み。小屋の間口は4メートル程しかないから、自動車車庫と化しても2台並んでは入れられない。奥の壁にシルエット様の電車の断面を描いてあったから、酒屋の親父も洒落ている。

廃止は1961年4月13日許可、5月8日実施であった。

おじん2人ヨーロッパ軽便 その23-5

 

マン島鉄道 その5 グラウドルグレン鉄道

蒸気鉄道のダグラス駅がある高台からかなりの急坂を下るとダグラスの町が展開する。高級ホテルが並ぶ海岸通の南端 Clock Tower から軌間3フィートの Dougglas Horse Tramway が約2.6km北東の Derby Castle まで、観光客を乗せ営業している。その終点路面では、同じ3フィート軌間の Manx Electric Railway の電車が待っているが、馬車鉄道共々次回以降にご覧頂く。

そのマンクス・電気鉄道の木製電車(乗降は妻面から行う)に乗車して3km程、道路とその傍らを行く電車が川を少し遡り、馬蹄形に曲がって川を渡るのだが、その手前に Groudle 駅(無人)があり、そこで下車。ここがグラウドルグレン鉄道入口だが、看板には Operating Sundays & Bank Holidays(in season )と書いてあった。なぜ銀行休業日に運行するのかは?だが、銀行員がボランティアをしているのだろうか。
狭い川を渡り、何やらハイキングコースの如き小徑を結構歩いて起点 Lhen Coan である。狭いところにオモチャのような駅舎(叡山電鉄鞍馬駅のミニチュアみたいな)があり、軌間2フィートの線路、ちっちゃい汽車一式が待っている。海岸の Sea Lion Rocks  まで2kmに満たないちっちゃなちっちゃな鉄道で、終点以外別段景勝地もない。


何やら叡山電鉄鞍馬駅のミニチュアのような
右側の店はスーベニールショップ

1896年に開通し、戦時中を除き営業したが1962年廃止に。それをボランティアが1962年から復旧に取り組み、1986年運転を再開。訪ねた1999年では4月4日のイースターとその翌日、5月2日~9月26日までの日曜日11時~16時30分。それに8月3、10、17日(各火曜日)と7~18日の水曜日に限り、なぜか夜間19時~21時のみ運行する。

我々の訪問も、企画・実施・運営すべてを取り仕切る先達=相棒(通称ウメムラツーリスト)が段取りして運行日に合わせていたのである。

天気は最悪で、これ以上暗くはなり得まいというぐらい暗かった(写真の上がりもピントもそれ以上に悪く、理由はすべて天候に帰しておく。相棒のは忌々しいがちゃんと写っていた)が、折角来たのだから1.8ポンド払って往復乗車券を買う。遊園地のお伽列車並みの客車が2両、それでも牽引は暦とした蒸機 SEA LION 号で、英国小形蒸機メーカーで有名な W.G.バグナル1896年製、僅か4トン。


もう1両は庫内におり、やはりバグナル1905年製 POLAR BEAR 号5トン、ウエスト・サセックス州で保存されていた機関車とか。他に Hunslet 1952年製5トンのディーゼル機関車が2両。Dolpin 、Walrus というプレートを付けている。

列車は30分毎に発車。森を抜けると真中に離合設備があり、シーズンには2個列車が走るのだろう。起点以外すべて無人で、途中停留場には Passengers wishing to bord train must give a clear signal to driver との表示があった。DRIVER とは正に英語で、米語なら ENGINEER と書くのだろう。

終点の Sea Lion Rocks も、この日の天候を割り引いても、わざわざ見に来るほどの景勝地とも思えないが、列車は機回りして付替え、しばしの停車後引き返す。


途中のリクエスト・ストップ停留場標識
この右先が終点 SEA LION ROCKS

ところでこのミニ鉄道、先に記したように、乗客は徒歩以外アプローチの方法がなく、以前は石炭すら人力で運んだのであろう。しかし現在では秘密の?管理用道路があるらしい。夢を壊すようだが、船でないと行けないのがウリの大牧温泉も、その実秘密の管理・物資補給用道路があり、熊が出るゾの標識で立寄りを防いでいる。船(関西電力経営=発電ダム建設→道路水没→永久補償)には食料等を全く積んでいない。

おじん2人ヨーロッパ軽便 その23-4


マン島鉄道その4


翌日は天候芳しからず、しかも雨衣を着ても寒いが、ともかくダグラス駅へ。日曜日だがさして多くない客を乗せ列車は発車。一度乗ってみたかった側戸式(完全コンパートメント)客車を選んだ。そのうち半端でない吹降りに。

左側の客車は側戸式ではない

吹降りの中での側戸式客車となると、忘れがたいシーンがある。日本では1952年公開されたフランス映画「肉体の悪魔」(Le Diable au Corps)で、原作は14歳で人妻と不倫し、17歳でその体験を長編小説に、20歳で死んだ早熟の天才作家レイモンド・ラディゲの文芸作品だからお間違いなく。

25歳のジェラール・フィリップが17歳の高校生を演じ、人妻と列車で逢引。吹降りの中、カッパで身を固めた車掌が検札に来るのだが、側戸式だから車体裾のステップを、窓下の手すりを伝って、なのである。車掌の業務とは命がけだな、と心底感心した記憶が鮮明である。
美しいキャッスルタウン駅

天気はやや回復してキャッスルタウンで離合。機関車、客車駅舎を含めた鉄道全体が溜息が出るほど綺麗で、すべてグレードが統一されている。ここでもジョン・フォードが4回目のアカデミー監督賞を得た「静かなる男」(The Quiet Man)での列車シーン(舞台はアイルランドだが)を思い出す。
我国での「あそBOY」の86が何ともけったいな煙突キャップに似非ダブルルーフ軽量客車を牽引していたりするのと、根本的な差異はどこから来るのだろうか。消防法=万一事故があった際のマスコミの非難なのか。

駅舎の右壁、二つ並んだ海老茶色の扉は便所。隣接した建物内では、ボランティアが黙々と客車の鎧戸を修復していた。建具か指物の大工らしい。線路両側は先回も書いたように必要以上厳重な生垣で、駅構内以外横がちに写真を撮ろうとすると、この程度で我慢しなければならない。

無人自動の踏切もご覧頂いておく。列車が近づくと線路を遮断していた柵が90度回転して道路を閉鎖、列車が行ってしまうと元に戻る。

木製の古いコンテナがフラットカーに積んで保管されていた。これが本土やアイルランドなどと行き来していたのであろうが、懐かしかったのが車側ブレーキ。突放入換時、側面にぶら下がった連結手がこのレバーを踏みながら制動距離を調節し、最後にピンを差し込んでロックする。日本での末年はラチェット式に改良されていたが、2軸貨車そのものを見なくなって何年になるのだろう。


最後に初回入れたマン島イラスト地図が見にくいとのことで、ENCYCROPADIA OF NARROW GUAGE RAILWAY of Great Britain and Ireland から借用した鉄道地図を入れ直しておく。ダグラスから北西へピールへ、その手前セント・ジョンズで分岐しフォックスデイル、東海岸のラムゼイに至る線は同じく軌間3フィートだったが現存しない。
また先回木骨芸術品のところで、グレートウエスタン鉄道R.E.C.ディーゼルカーと書いたのは、A.E.C.の間違いでした。謹んで訂正します。

おじん2人ヨーロッパ軽便 その23-3

マン島鉄道 その3

翌日はかなりの雨で、気温も低い。雨衣を着てダグラス駅で1日乗車券を買う。10.7ポンドでマンクス電気鉄道と蒸気鉄道には全線自由に乗れ、スナェフェル登山鉄道が終点まで1往復OK。前二者は同じマン政庁が経営しているのであろう。

マン島共通1日乗車券

ダグラス駅構内の庫を覗くと、はるばるこの島までやってくるインパクトであった単端式レイルカーが2両共、徹底的なレストア中であったのが残念無念。アイルランドの有名な軽便鉄道である County Donegal Railway は勿論蒸機以外、実にバラエティに富んだ単端式レイルカーを延べ20両以上保有していた。その中で最も新しい19、20が同鉄道廃止で1961年この島にやってきたのである。

メーカーはWalker、1949年及び1950年の製造で、前頭キャブオーバー部分にエンジンが納まり、客室部分をピギーバック方式で牽引している。それにしても、この骨組み(機関部)はまさしく芸術品であろうが、1950年にもなって木骨鉄皮車を生み出すとは、いかにも英国やアイルランドである。ついでながら戦前有名だったグレート・ウエスタン鉄道のR.E.C流線型ディーゼルカーも木骨車体で、これらはすべて、馬車の車体を作る技術だったのである。


これは芸術品だ


この車体も機関部同様木骨である。手前が機関側

仕方がないから、本場文献(The Railways and Tramways of the Isle of Man)から活躍中の写真を借用しておく。本来1両で就役するものだが、このマン島蒸気鉄道には転車台もデルタ線もないから方向転換が出来ず、このため2両を背中合わせにし、前頭車両のみの動力で進行するわけである。あぁ、やっぱりこの車両の活躍中を見たかった。

これが本来の姿

ダグラス駅には架線がないのに、構内を赤いマンクス電気鉄道の側面開放式電車が動いていた。白鼠色の有蓋貨車を連結しており、実はこの貨車がディーゼル機関と発電機を搭載したパワーユニットで、キャップタイアケーブルで電車にエレキを送っているのであった。サイドのシャッターは全部下ろしているのは、雨がハンパでなかったから。

マンクス電気鉄道電車と電源車
マンクス電気鉄道側開放電車と電源車