1954年3月高校修学旅行 その1

先回までの「高校生東京へ」からほぼ1年後=2年が終了する3月に、修学旅行があった。1954年3月12日、京都から急行「筑紫」で西へ向かったのだが、1954年の時刻表を繰ると、39レは東京を前日21時30分発、京都7時35分着、50分発。大阪、三ノ宮、神戸、明石、姫路、岡山、倉敷、福山、尾道、糸崎、広島、宮島口、岩国、柳井、下松、徳山、三田尻、小郡、下関、門司、小倉、折尾と停車し、博多着22時23分。再び夜行列車となって翌朝5時48分鹿児島終着である。

この時はカメラを二台もって行った。いずれも戦時中防空壕で過し、レンズが名古屋市大曽根の湿気にやられてカビが生えていたが、ローライコードUとバルジーナなる、バルダックス社製35mmスプリングカメラである。せっせと同級生を撮り、あとでプリントしてひと稼ぎ=自分の車輌写真分のフイルム代プラスアルファを浮かそうという魂胆である。まだカメラは高価で誰もが持てるわけではなく、修学旅行イコール6,800円(プレミアムがついて8,000円かそれ以上出さないと買えなかった程人気があったのは、ただただ安く、よく写ったから)のリコーレフというのは、我々のひと世代後の話になる。またしばらくカビの生えた古写真にお付き合い願いたい。


進行中の「筑紫」デッキから撮った兵庫駐在のD50 右側は旧ナロハのナハ10064で、確か旧2等室は転換クロスシートが残っていたと記憶する

B50は神戸港線と共にいっぱいいた

最初に撮ったのは兵庫のヤードである。今では和田岬線も電車になり、高架と地平の中間辺に乗降場があるが、以前は勿論地平で、かなり広いヤードと機関車駐泊所があり、川崎車輌、三菱造船所、鐘紡、神戸市中央市場等の貨物を扱っていた。高架線へ貨車を押し上げるため、D50が1両常駐していたほかは、B50ばかりだった。

D50の後ろはサイドに扉を設けた通勤客車 冷蔵車は勿論中央市場用

和田岬線は現在では三菱の通勤客のみになり、かつての超混雑振りは見られず、またヤードは新興高層住宅が建ち並んでしまい、かつての面影はない。ここの木製客車はどてっ腹に引戸2か所を設けた、戦時中からの通勤客車が大方だったが、それでいて同じ木製でも転換クロスシートが残った旧2等車、播丹鉄道買収で制式中型車に編入された丸屋根車(ナハフ14070)=共に側扉はない=もいた。

国道の南(左)側はすぐ海である のち線路の右山側に列車線が新設され複々線に 今走っている線は緩行・快速電車専用になった 中央のトラックはパンクでタイヤ交換中だが いやに低くへべちゃい荷台は 米軍放出のダッジ4輪トラックか 詳しい方のご教示を待つ 右(明石側)からやってくるトラックはニッサン

左手に淡路島を望む進行中の写真は塩屋西方で、分離帯も何もない国道2号線の南側はすぐ瀬戸内海である。今では西神戸地区の下水処理場のためすっかり埋め立てられ、人工の丘や林で視野が遮られてしまった。ただ新快速は一段高い斜面に張り付いて走るから、景観は良い。


このモニ53ならぬモニ13はどこで撮ったか記憶がないが、地平ホームだから明石しか考えられない。この駅は手荷物扱いホームから容易に(ほぼ人目を気にせず)外に出られるとあって、小生は事の外愛用?したものであった。それを聞きつけた故羽村兄も何度か「活用」した由。今では高架になり、そんなことはあり得ない。


姫路に到着した39レ急行「筑紫」

姫路は機関車交換のため12分停車するので、その間走り回った。飾磨線のホームではC1178が20メートル大型木製客車1両だけを牽引し、煙を吐いていた。その木製車は何とスハニ28907で、座席は一方方向クロスシート。すなわちスハニ35の二世代前の特急つばめ用客車である。

飾磨線のC1178+スハニ28907 この列車は姫路10時20分着で 次の飾磨行は15時45分までない

かつて東海道を我物顔に走った特急つばめ専用客車の成れの果て 妻面のレタリングDは木製客車の状態をAからEまで5段階評価したもの 台枠はその後オハ61系に生かされた

その室内 背ずりモケットはなく ベニヤ板だが、京阪1000型もそうだった それでも一方クロスシートがのこっていたのである

1953年高校生東京へ その9(最終)


東京を終えて、夜行(当然各停)で豊橋へ。天気が悪く、駅前で豊橋交通の2軸単車を2枚だけ撮る。

次いで飯田線の電車を。この時点戦時中の買収電車は社番のままだったから、モハ36とは豊川鉄道30型で日車製。同系の電車=川崎製=は多く、関西なら奈良電気鉄道の1000型、阪急600型もそうだ。

モハ36+クハ38099+モハ32004 豊橋

クハニ56004+モハ32040+サハ77017+モハ32 
実は飯田線を全線乗車し、辰野、塩尻経由中央本線で名古屋に戻ったのだが、天気が極度に悪く写真は何も撮っていない。それと空腹(路銀欠乏)でファイトが萎えていたようだ。

名古屋鉄道3658特急

名古屋で初体験―といっても遊郭や赤線に行ったわけではないからお間違いのないように。ステーション・ホテリング(略してステホ)の第一回を挙行したのである。浮浪者(ホームレスなんて言葉は数十年後のものだ)が多数おり、本来の旅行者も多く座席確保だけでも大変で、便所にも行けない。深夜一斉に滞在者を追い出し、清掃後乗車券所持者のみ入室が許された。


関西本線準急C5780 亀山

翌日は関西線、片町線を経由して帰宅。この日はいい天気だった。関西本線の準急が気動車に置き換わるのにはまだ時日を要する。この時点亀山-柘植間は各停10往復、準急3往復、急行「大和」1往復だった。現在は19往復だが、昼間5往復は第2土曜日運休で、10~15時の間列車がない。

片町線貨物列車C11159 木津

片町線キハ41561 木津 片町線は長尾までが電化され、長尾-木津間はキハ41500が10往復だった。その後なぜかまっさらのキハ42601=鹿カコ(西鹿児島区)が一時ここで働いていた。

1953年高校生東京へ その8


ロクサン→ナナサン東武版

東京の最後は東武鉄道。荒川鉄橋での撮影である。皆様慰めては下さるが、こんな写真を撮るぐらいなら、杉戸か浅草橋に行き、当時山ほどいた蒸機を撮った方がどれだけよかったことか。


準急

5700系特急

俗称「ネコヒゲ」特急。湘南クハ86の2枚窓妻模倣は私鉄でも早い例だが、ひょっとすると西大寺鉄道キハ8、キハ10に若干遅れをとっているかもしれない

やはりはこうした列車を撮るべきだった
ED451 足元が切れているのは、6×6 15枚撮り手製改造で、次のコマが重なったためである

1953年高校生東京へ その7


小田急1301経堂  

小田急経堂車庫にも行った。特に情報や信念?があった訳ではない。単に電車の車庫だというだけの、全くの無自覚無個性無気力ええかげん撮影である。なぜか経堂にDT17台車をはいた国鉄モハ40044がおり、小田急線でテスト走行をしていたようだが、写真は撮っていない。

小田急1457経堂

小田急1602+1656経堂

小田急1703+1752+1704経堂

小田急特急「あしがら」経堂

小田急1801+1851経堂 云わずと知れた私鉄版モハ63だが窓は2段式になっている。関西では南海と、標準軌間の山陽にいた。

小田急1906+1953+1905経堂

小田急急行 経堂

小田急1402藤沢

箱根登山114+102小田原

箱根登山103小田原

1953年高校生東京へ その6


さて今回以降は私鉄電車の写真をご高覧に供するが、後輩諸氏がヨイショしてはくださるものの、珍しい写真などあるはずもない。予備知識も、確たる信念もなく、ただ聞きかじった車庫へ出かけた、というだけである。翌年からはそれなりに、撮影対象には個性が出てくる(と自分では思っている)のだが。

この電車は是非見たかった。はるか後年高松琴平にも流れたが。京浜234=品川

このシリーズも「供出」で高松琴平で見た。車体は木骨鋼板張りのニセスチール 京浜156=金沢文庫

京浜314=金沢文庫

京浜316+307+311=金沢文庫

横浜市電1520=横浜駅前

京王帝都1204=永福町

京王帝都1713+1701+1201=永福町

京王帝都1712=永福町

この時のカメラは、親父が日中戦争(日華事変と称し、日本は戦争ではないと言い張っていた)に技術軍属で従軍した際、上海で購入してきたローライコードU型。テッサーではなく3枚玉のトリオター、シャッターはコンパーだが1/100の次は1/300しかない。フイルム装填はまず赤窓(が分かる人手を挙げて)で1を出し、あとは自動巻き止めになる。シャッターは単一レバー(勿論手動)で、これは中々便利だった。但し戦時中約半年名古屋は大曽根の防空壕で過したため、レンズにはカビが生え、ただでさえ軟らか気味のレンズが、軟焦点とまでは行かないが、シャキッとは参らなかった。しかし自宅にカメラがあるというだけで、どれだけのハンディであったかは想像もつくまい。

6×6の2眼レフだから、当然12枚撮りである。しかし1枚でも余計に撮りたいから、フィルムのリーダーペーパーで何度もテストし、フイルムカウンターに白点を書き込み、各コマ間に隙間のないように、かつ前後の余白もフルに使って計15枚撮れるように自分で改造した。

大体うまく行ったが、時折前後のコマが重なる。我々の場合ほとんどが横構図だから、若干重なっても支障はないのだが、偶に縦構図だと、ガックリという事態も起る。意地悪い事に、そんなケースは大事な写真の場合に起りやすいのである。今回でも、1コマわざと(水平直し以外)修正せず、ご覧に入れている。

京王帝都1257=永福町 天部に隣のコマとの部分ダブリが

玉村卓也氏はセミ版スプリングカメラの裏ブタにドリルで圧板もろとも穴を開け、赤いセルロイドを張った赤窓を増設。焦点面はセミ版を更に半分にした「セミ・セミ版」に改造し、「車輌判」と称していた。すなわち60×45mmがセミ判だが、60×22.5mmという細長判で、車輌を横勝ちに撮るのに好適とうそぶいていた。要するに高いフイルムから如何に多数の写真が撮れるか=1コマいくらになるか、が勝負?である。

ニコンには24×36mmのライカ判(パーフォレーション8個)だけでなく、ゴールデンカット判と称したパーフォレーション7個で1コマ、という代物すらあった。1コマでパーフォレーション1個分節約すれば、1本の正規フイルムで5~6コマ余計に撮れるのである。カラーフイルムの場合マウントしてくれず、長巻で返却されるとあって、大得意の米兵からクレームがつき、長続きはしなかったが、今時こんな希少カメラをコレクションしていたら相当な「お宝」ではあろう。

1953年高校生東京へ その5

 

 


80系附属編成66011+80021+87027+80022+86012 1953年3月31日小田原

せっかく東京までやってきて、こんな詰まらんものしか撮っていないのかといわれるのが必定だろう。我ながら恥ずかしいが、恐らくこの時点若干ながら、皆と同じようなものを撮るのは気が進まなくなっていた―16歳にして、早くも臍が曲がりかけていたのかもしれない。それでも関西の高校生には17メートルのクハ65や、東京駅での、貫通幌に蓋をしたモハ72(附属編成の切り離し)も珍しかった。湘南電車の5両附属編成はその後の関西の急電と同じだが、3枚窓妻面は関西にはない。


クハ65109+モハ72015 1953年3月30日東京 丸ビルも国鉄ビルも今はない
クハ65031+モハ72142 1953年3月30日東京

モハ72142 1953年3月30日東京

モニ53005 1953年3月30日久里浜

これだけは珍しいというか、拙老なら?というのが1枚だけある。久里浜で撮ったワ50003で、一目で分かる木製省電←院電の名残り。経歴はデハ6331→サハ6443→サハ6024→ワ50003となる。なんでお前さんが電車、それも国電の経歴を知っている?とは聞きっこなしに願いたい。

(社)日本鉄道車輌工業会・貨車技術発達史編纂委員会共著の大冊(875頁で厚さ実に43.5ミリ)『日本の貨車―技術発達史』の458頁の解説を全文無断引用すれば次の如し。

「ワ50000形式10トン積有蓋車 昭和8年、ワキ1形式とともに宅扱い急行貨物列車に使用するため鋼製電車の登場で余剰になった木製電車サハ6形式・サハ19形式17両を改造した有蓋車である。同時に有蓋緩急車ワフ20000形式にも7両を改造した。車内の座席を撤去し荷摺木を設け、側には引戸を設置したが、外観は電車時代とほとんど変わっていない。戦中から戦後にかけ救援車(客車)の6630形式(記号ナヤ)に11両が改造され、残存車も昭和26年度までに廃車になった。」


ワ50003 1953年3月30日久里浜

実はこの本にこの写真を1枚だけご採用頂いたおかげで、当初は大冊かつ非売品ゆえ?、掲載部分の抜き刷り?だけを恭しくご送付賜り、まあドライな事と感心もしたが、その後電気車研究会が有料頒布(確か13,000円で、大阪なら旭屋にある)のため増刷し、この余得(これぞ拙老の日頃の善行を心から愛でた新島襄の加護ならん)で1冊ご恵送賜った。しかし拙老が国鉄車輌の写真をご提供申し上げるとは、余程写真が無かったんだろう。


常磐線荒川鉄橋でのモハ41系 1953年4月1日
常磐線上り列車C6247 1953年4月1日 荒川鉄橋

1953年高校生東京へ その4


先回からジャスト1か月経過してしまい、完全に気が抜けた発泡酒みたいだが4回目を。同行者は上野に着いたとたん、上野駅の後架(WC)で用心金ン千円を落としてしまい、意気阻喪してそのまま京都に帰ったので、撮影行は芳紀16歳半の小生1人である。


ED101 横須賀

このとき今少し知識や先達があって、電気機関車や電車なんぞ見向きもせず、小湊、九十九里、日本ニッケル、常総筑波、鹿島参宮鉄道などに行っていたら、と今になって悔しい次第である。このときの写真は従前殆どプリントさえしておらず、今回デジタルで自分自身が初めて見た!というものが少なくない。自分で言うのも恥ずかしいぐらい、本当に詰まらないものばかりで、要は早い時点で、それは自覚反省していたのだろう(そんなものをわざわざ他人に見せるな、という手合いが必ず居るだろうが)。

だが、そこが老人の厚顔無恥なところで、だれがどうい無理やり「ご高覧」に供する。行動範囲は情報不足でせいぜい横須賀、久里浜程度である。


ED1727 新宿

EF108 横須賀

EF506 東京

EF567 東京
EF5830 東京 先台車が鋳鋼製 後ろに暖房車を従えている

US ARMY 8585 (米軍貸与) 品川

このGE製電気式ディーゼル機関車は、米軍が占領各地に持ち込んだ規格機で、以前「おじん2人」シリーズのギリシャ編でご覧頂いた1D1マッカーサー蒸機(メーターゲージ)などと同様で、同系メーターゲージ機はフランス等欧州にも持ち込まれた。鉄道へのディーゼル燃料の割当がない時期(要するに敗戦―占領初期)から国鉄に貸与され、米軍関連物資や石油関連入換等に従事していた。関西では鷹取にも居り、海岸の石油基地までの貨物線(市電と平面クロスがあり、鷹取から南に分岐する区間は道路で残り、カーブが名残である)に働いていた。のちDD12になったのは周知で、確か廃車後名古屋鉄道が何両か購入したと記憶するが。優秀な機関車だったようだ。


B206 横須賀 多分米軍関連輸送用であろう


旧海軍5号機 久里浜

旧海軍2号機 久里浜

旧海軍施設部の建設用蒸機だが、敗戦後米軍の命令で旧軍、軍需工場等の施設が賠償物件に指定され、大蔵省管理となった。これらの解除は概ね1954年頃で、各地にかような放棄同然の車輌が存在した。2号は早い時点の本江機械=立山重工業製であることが、米国風サンドボックスで分かるが、5号のメーカーは不詳。一見日立風だが、どこか零細メーカーかもしれない。

老人の妄言

5月12日読売新聞夕刊に、佐藤優(同志社神学部出身・元外務省主任分析官)が「裏切りマナー」と題した一文を草している。冒頭に『旧ソ連崩壊前後の政争で裏切りを何度も目撃した。共産党に忠誠を誓っていた忠実な官僚が、崩壊後は、反共路線を掲げたエリツィン大統領の側近となった。こういう裏切りをした官僚が過激なほど反共的になった』こと。彼自身拘置所に512日収容されている間、旧同僚や親しくしていた学者などが検察庁に迎合したことも記している。

これは別段今に始まった事ではない。拙老幼少のみぎりの悲しい体験だが、戦時中「軍国おじさん」と称された人たち、教員が、学校だけでなく、町内にも必ず複数いた。当然職場にもいたのであろう。彼らは実に元気に「鬼畜米英」「撃ちてし止まむ」「神風が吹く」と唱えまわっていた。

それはそれでまあいい。新聞という新聞も全部が「軍国新聞」(朝日新聞は旗頭だった)だったのだから。問題は敗戦後で、彼ら、かの新聞は、ことごとくが手のひらを返し、生まれながらの平和主義者であったかのように、実に見事に「親米・平和主義者」に変身したのであった。ある数学の教師は、「英語はすばらしい。名詞に単数・複数の区別がある」といい、中学生だった拙老は、複数といっても、sがつくだけで2でも10万でも同じじゃないか、と感じた記憶が鮮明である。

鉄道趣味(というか、模型)界にもいた。戦時中の「科学と模型」誌に勇ましい「軍国模型観」めいたものを書き続けていたYなる御仁も、たちまち華麗に変身し、「自分は戦時中反戦主義者であった」「空威張りの軍部は着々と敗戦を招く」などと書きだした。流石にTMS誌で山崎主筆にボロクソに非難され、確かその後はピク誌に浜松工場のC53のことなどの短信ぐらいで姿というか、名前を見せなくなったが。

なんでこの欄にこんな事を、といぶかしく思われるだろう。こうした手合いは、別に軍国主義や平和、親米などとは、実は何の関係もない、とあるとき(勿論長じてからだが)気付いた。つまりは、常にその時代、最も有利で余人との差別化がなしえるものを、いち早く(他の人たちより)察知し、人より早く、かつ声高に、あたかもそれが自分の変わらぬ、昔からの信念であるかのように唱えているのである。

しかしそれとて、誰でも出来るというわけではないから、一種の能力、あるいは処世術には違いない。要は鉄面皮であり、恥知らずなのだが、こうした手合いに共通するのは、恐らく自分自身、その不合理性や非道徳性などに「全く」気付いていないことであろう。

で、この話は起承転結とは参らぬが、例えばかつての北海道C62騒ぎを思い出されたい。あの時、どれだけの人間が、集団ヒステリー状態で北海道へ行ったか。行った人間をこき下ろしているのではないから誤解の無いように願いたいが、この一連の蒸気機関車ブームで、俄かマニアがどっさり誕生し、しかも彼らに共通点があった。実は昔から蒸気機関車が好きだった、と異口同音に唱えていた事で、そんならもっと早く写真を撮っていればいいのに、と正直思ったものである。

次の共通点は、これらの「俄かマニア」のエネルギー発散状況が尋常でなく、拙老にはマニア歴の短さ(引け目?)を、ボルテージの高さで一生懸命補い、繕っていたように思えてならない。そして見事に、数年で彼らは姿を消した。要は「流行りもの」にいち早く飛びついただけで、彼らは今は何をターゲットにしているんだろうか。

これも誤解の無いように願いたいが、何をし、何に熱中しようと、他人や社会に迷惑を与えない限り、何時やめようと、その人の勝手である。これは拙老とて全く異論はない。しかし、どうもこういう御仁は、あることに熱中しているその間、なんやらいい訳?めいた、自分を納得させるような言動も必然のようだ。

最近若干下火になった感もないでもないが、燎原の火のごとく燃え盛り続けた「廃線跡訪問記」も、ややこれに似たところがあるように思える。これも別段人に迷惑をかけるわけではないから、何をしようと、書こうと、その人の勝手だし、現実にその本が「猛烈に」売れるのだから、そのようなものが書けない拙老にはねたましい限りである。中には廃止されないと興味の対象たりえないとしか思えない、ある程度の年齢の方も居られるが、彼らはその鉄道が健在な時には、一体何をしておられたのか。彼らも一種の「軍国おじさん」だと理解すれば納得もするのだが。

やれやれ、徹頭徹尾、老人の「怨み節」になってしまった。こんな事を書くとは、即ち先がそう長くないことでありますな。

伊予鉄道横河原線/森松線


森松駅

[2904]ぶんしゅう旅日記で伊予鉄道の鉄道線が出た。つい先頃路面電車の写真をこれでもかとばかりに並べ、多分に顰蹙を買ったばかりだが、横河原線ときては黙っておれない。で、また懲りずに40年以上前の写真を探し、いそいそとスキャンする事に。撮影は1965年7月12日と1966年4月29日。

周知の通り伊予鉄道は四国最初の鉄道(私設鉄道)であり、762mm軌間は我国最初である。機関車始め2軸客車は当初ドイツから輸入され、連結器は螺旋連環式だが、通常左右にあるバッファーが中央にユニコンのような1本のみ。

1911年以降路面電車が加わり、軌間762mmの主要線区は1067mm軌間に拡幅改築し電化。非電化の線区も次々と1067mmに改軌されたのは、単に貨車を直通させるためで、車体も連結器も元のまま。単に軌間を1フィート拡幅したのみで、予讃線が松山に達した以後も貨車の相互直通はなかった。

空襲でかなりの被害があったが、敗戦後1950年に郡中線が電車化したのち、非電化で残った横河原、森松線は1954年蒸気機関車を廃止しディーゼル機関車に。客車、貨車は全部2軸車だったが、客車2両をつなぎ、旧軸箱守を生かしてTR23タイプ?のボギー台車(メタル軸箱とコロ軸受とがあった)をはいたボギー客車に改造。DL1両がボギー客車3両(型式ハフ550+ハ500+ハニフ570)を牽引するのが基本で、ラッシュには重連DLがボギー客車6両を牽く列車もあった。森松線は1965年12月1日廃止。横河原線は松山市-平井が1967年6月10日、平井-横河原が10月1日、それぞれ改築・電化されて今日に到っている。
横河原駅を裏から見る

横河原駅

横河原線の列車

退校時の見奈良駅 駅員はラッシュ時以外無配置

横河原駅の本屋内部の写真がなく、現在の姿と照合できないのが残念だが、森松は撮っており、恐らく雰囲気に大差はないと思われるので、代用させていただく。改札口上部の発車時刻表ではおおむね60分毎の発車で、発駅の松山市では30分毎に横河原、森松行が交互に発車。だから両線が分岐する伊予立花では、上下DL牽引列車が1時間計4本=15分毎に行き交っていたことになる。


森松駅改札口と出札口 7、1019時台以外は1時間1本しか列車はない

森松駅 結構駅員がいるのは当時どこでも同じ 手小荷物も扱っていた



伊予立花駅 上下DL牽引列車が15分毎に行違う プラットホームが低い

入鋏式車内補充券は通常丸穴パンチだが、伊予鉄道では駅改札口で使うパンチを車掌も使っていたのが極めて珍しく、他例を知らない。

1953年3月高校生東京へ

先回が4月22日だったから、半月近く空いてしまったが、その3をご覧頂く。


小海線ホハ12000型から中央線に乗換え、甲府へ。かなり暗くなっていたが駅前の山梨交通を見る。この線は恐らく日本最後となったダブルポールが健在で、その後いきなりビューゲルになったと記憶する(乙訓ご老人さま、それでよろしいかな?)。動力車はすべて雨宮製とは、流石に雨宮敬次郎はじめ雨宮一族の出身地である。1号有蓋貨物電車は単台車でなく単軸受だが、両方の軸箱間に桁を渡し、モーターを支える変わった方式である。ほぼ同時に開発製造された2軸木製ガソリンカーも軌を一にする発想で、両軸箱で機関台枠を支えていた。


身延線クハ58007 甲府

これから身延線を乗り通し、富士か沼津で生まれた初めてのステーション・ホテリング(駅待合室で睡眠し一夜を過す=略してステホ)する計画だったが、途中天気が悪化し大粒の雨が半端でなく降りだした。そのうちダイヤも乱れて長時間の停車後、車掌が土砂崩れがあって不通になったので、この電車は身延で打ち切ると残酷に宣言。

身延駅に放り出されたが、ステホできる雰囲気はなく、疲労困憊していたので、やむを得ず宿を探す事にした。なるべく汚い(当然安かろう)旅籠=行商人や修験者用と思しき宿を選び投宿。16歳にして一人で宿(旅館などといえた代物ではない)に泊まった初体験ではあった。当時安宿は股旅映画のように、隣室との仕切りは襖のみで鍵もなく、貴重品は当然帳場に預ける。風呂も家庭用に毛が生えた程度のもので、1人が上がると女中さんが次の客に入浴順序の到来を告げ、愚図愚図していたら間引かれてしまう。宿賃は2食付で確か350円だったか。だから食事のグレードなんぞ知れているが、それでも家を出て以来はじめての、夕食らしい夕食ではあった。

翌朝になると、多少ダイヤは混乱していたが、幸い電車は動いていた。しかし天気が悪くカメラを取り出す気も起こらないほど。幸い東海道線まで出、沼津に着いた頃には回復した。凸型(流石に戦時型からは多少改修されていた)のEF13を初めて見、構内ではB6―型式2120のトップナンバ-が入換をしていた。B6は東京の周囲、大崎や田端等々にイヤになるほど、掃いて捨てるほど入換に従事していた。


EF1318 

EF1319

EF1318

EF57

モハユニ81も初めて見た
関西では見られない第一次型クハ86 金太郎腹掛けが大きくなっている
2120のトップナンバー

16連の湘南電車にもお初にお目にかかった。TMS誌で「東西電車自慢」があった際、東京方の赤井哲郎が、関西の80系急行電車に対し、「4連、確か4連でしたね。こっちは16連ですぜ。4倍ですぜ」と書いていたのが忘れられない。当時京都-神戸間の急行電車にはまだサハがはさまらない4連だったのである。


駿豆鉄道軌道線7

駿豆鉄道軌道線17

沼津駅前から路面電車が三島まで伸び、本線に接続していた。旧東海道に併用したのんびりした路面電車は、花巻電鉄鉛線は当然として、秋保電鉄(のち仙南交通)、松本電鉄浅間線と共に、大いに小生のお気に入りとなり、その後何度か訪れることになる。

1953年3月高校生東京へ2

先回(2643)でとんだミスというより、致命的に拙老の(遅進行性らしいのがせめてもの救い?)アルツハイマーぶりを露出する大ポカがあった。なにしろ1年間違えたのである。すなわち、1954年3月ではなく、1953年3月、高校1年から2年になる春休みであった。従ってタイトルも変更を余儀なくされた。歳はとりたくない。

ン千円を上野駅個室の「奈落」に落とし、意気阻喪して一人京都に帰った相棒と別れ、当方も一人で上野駅で23時発夜行各停直江津行327レを待つ。大分後まで、大阪や上野駅では夜行列車を待つ客のため、鉄道弘済会が風呂用みたいな木製の小さな椅子を10円で貸出し、改札の大分前に回収するシステムが存在した。10円も惜しい高校生は勿論拾った新聞に腰を下ろした。横では絶え間なく手小荷物を満載したカートを何両も連結した牽引車が忙しく往来し続ける。

小諸着は4時24分、震えながら待った小海線初発は5時51分の2レ。この時点では列車番号にディーゼルカーを表すDは付いていないが、キハ41310であった。東小諸のみ通過し、小海着7時05分。ここで113レ(C56128)や6レを撮ったが天気は悪い。小海9時52分発162レ(C56100)に乗車して、憧れの小海線走破を目指した。


キハ41310 (←キハ41210←キハ41088) のちキハ0411 天然ガス車から勾配線区のためDMF13装着に改造し300台に 最終倉敷市交通局キハ311→水島臨海鉄道キハ311

C56128牽引113レ 客車はすべて木製中型車で、小海から2両が増結された

116レ 同じ列車が小海を堺に列車番号が113レに変わる

C56132牽引貨物列車
期待の野辺山―清里―甲斐大泉間は、致命的な睡眠およびカロリー不足で、扉を開けたデッキで頑張ったがともかく寒く、意気は上がらず、上野で挫折した相棒の跡を追いそうだった。人影などあるはずのない荒漠たる野辺山原野には、ただただ溜息ばかり。明治期警官隊に追われ、襲撃された群馬県自由民権派の一団がこの地で壊滅したとは、はるか後になって知ったのだが。


小淵沢到着の162レ


ホハ12238←ホハ7108 妻面に窓のあるタイプ

重苦しい鉛色の空の下、ともかく小海線を走破して、甲府、身延線を経由して、今晩は富士でステーションホテル(略してステホ=駅待合室で一夜を過す)予定である。

1954年3月高校生東京へ

高校2年から3年になる春休みの1954年3月、中学時代の同級生(高校は分かれた)と2人で東京を目指した。大学生相手の下宿(当時のこととて賄い付き)をしていた親戚が、春休みなら手が空くから何泊でもOKといってくれていた。相棒は荒物屋の息子で、中学生から高校生・浪人まで、年末はずっと彼の店でアルバイトさせてもらっていた。小遣いがなく買えなかったTMS(ピク発売まではこれが唯一の鉄道雑誌だった)は彼から毎月借り、図面をせっせとフリーハンドで写し取っていたものであった。

当然夜行列車利用、北陸・信越本線、東海道・関西・奈良線経由という、最も単純な「一筆書き」ルートなのだが、北陸本線の確か杉津だったか新保だったかで土砂崩れがあって不通。夜行列車は臨時に高山本線経由での運行で、始発の大阪駅まで並びに行った。ホームへの誘導までは順調だったが、編成に17メートル車オハ31が混ざっていたため折角の行列が大混乱し、結局座席は1人分しか確保できず、交代で座る羽目に。

キ607 富山

ヤ41 富山 これはヤ40と共に除雪列車と交信する「無線車」で 勿論真空管による無線基地=右側に高いアンテナが建っており 要は建物代わりである 妻面に電源コンセントがある

睡眠不足の目をこすりながら富山着。随分以前にご高覧に供した富山港線の木製社型電車の大方はこの時の撮影である。富山地方鉄道の電車には当時として珍しい5桁ナンバーがあり、末尾2桁が番号、頭の3桁ないし2桁は馬力数だとは聞いていた。この流儀は子会社の加越能鉄道のディーゼルカーにも適用されていた。


富山地方鉄道モハ12512 125がモーター馬力を表すんだそうな

富山市内線デ3515 富山駅前 木製車で窓下段ガラスにはまだ継ぎ目がある

富山から北陸・信越線夜行経由上野行に乗車。当時の時刻表で見ると富山15時37分発上野終着5時00分の522レだったのであろう。本来米原8時16分始発列車だが、上記北陸本線不通のため米原-富山間は運休で、富山始発であったかと記憶する。今度は間違いなく2人共座れた。

記憶はすっかり薄れてしまったが、ネガに小山で撮った数枚があるので、高崎で下車し、5時31分発快速「おおとね」で小山7時54分着、その後上野に向かったと思われる。どうせなら日本ニッケル鉄道(→上武鉄道)や東武熊谷線を覗いておけばよかったものを、と今頃悔やんでも致し方ない。


水戸線811レC5054 小山 客車7両は全部木製車である この時点C50は京都駅はじめほぼ入換用で本務機は珍しかった

C5777牽引の快速「おおとね」高崎発小山経由上野行

入換機2386

上野では先ずは便所に。そこでカルチャーショックというか、当時の首都の裏口を垣間見る事になった。「個室」の天井は世界中吹きぬけが常識だが、そこに厳重な金網が張ってあった。すなわち、懸命に用足し中棚の荷物への注意が散漫になるのを「隣室」で察知し、それを吊り上げて盗む「タコ釣り」防止網だったのである。

上野で乗車券を買い直し、また夜行で小海線、身延線を経由して東京に戻り、数日滞在する計画だったのだが、相棒がここから一人で帰ると言い出した。実は用心金として親から特別給付されたン千円を、祖母の発案で腹巻に入れていたのを、個室での用足し中に「奈落」に落とし、完全に意気阻喪してしまったのであった。当方は左様な心遣いは一切なし=ほぼ完全な自由放任ではあった=にアルバイトで稼いで旅をするなら勝手にしたらいい。三度のメシは親が食わすが他は知らん、という家庭だったから、羨ましくもあった。

致し方なく以後一人旅となって上野23時00発直江津行327レに乗車し、憧れの小海線に乗車することになる。

イヤというほど伊予鉄道し


ぶんしゅう旅日記で盛り沢山伊予鉄道の路面電車が披露された。坊ちゃん列車(のダミイ)が健在なのは嬉しいが、ディーゼルエンジンをボイラー(もどき)の内部に隠し持っているから、本来丸いはずのボイラーの裾が広がっているのは仕方がないか。

ところで拙老も松山は確か2回行っているから、電車の写真もあるはずと、すっかり乏しくなった記憶を基にネガを探すと、自分でも吃驚するほど出てきた。どうしてそれだけの時間とエネルギーを、非電化線=横河原線、森松線に投じなかったのか、今頃になって悔しく思っても後の祭り。

で、折角だからというより、自分でもすっかり忘れていた路面電車を「イヤ」というほどご高覧に供する。うんざりする? そう、年寄りは、嫌がらせが大好きなんじゃよ。

説明は乙訓老人にお任せしよう。8は秋保電鉄に同型車がいたのを以前ご覧頂いた。また2軸車末尾の20代は、食パン屋根で、しかもでっかいグローブベンチレーター(ロクサン並み?)が載っている。元来グロベンは雨宮が大好きで、小型のグロベンを花巻の2軸サハに載せていたし、ガソリンカーにも採用していた。撮影は1955年3月17日と1957年3月10日。


















1953年3月15日特急「かもめ」処女列車

56年前になってしまったが、この日から東海道・山陽本線に特急「かもめ」が運行を開始した。今では掃いても捨てきれないぐらい日本全国特急だらけで、新幹線や特急に乗らずに旅ができるもんならやってみろといわれているのと同じ。急行が激減し、準急は消滅してしまった。1953年時点の国鉄には、特急と名が付く列車は東海道本線東京―大阪間の「つばめ」「はと」のみ。この「かもめ」が実に敗戦後3番目の特急だったのである。

下りは京都始発8時30分、広島14時15分着、20分発。門司17時54分着、58分発、博多終着19時10分。停車駅は他に大阪、神戸、姫路、岡山、小郡、下関のみ。上りは博多10時00分、広島14時48分着、53分発。京都終着20時40分である。

機関車は処女列車用に綺麗に磨き上げられ、煙室扉ハンドルが梅小路にちなみ梅模様の真鍮磨きだしと御召し並みのC59100だった。スハニ、スハ3両、マシ、スロ3両、最後尾スハフで一等車がないところが「つばめ」「はと」と差がついた。運転局では将来展望車を新製したかった由だが、これは遂に叶わなかった。

このとき小生は高校1年生で、特急とは撮るものであっても、自分が乗るなどとは考えもしなかった。学生時代に国鉄特急に乗車した経験は、北海道均一周遊券が急行料金抱き合わせに改悪された代償に、急行との差額を払えば特急にも乗れるようになり、一番安い名古屋-京都間を、差額特急券という珍券ほしさに一度だけある。ただし電車特急「こだま」だったが。

写真は何れも1953年3月15日の京都発処女列車。今なら大騒ぎの押し合いへしあい、怒号が飛び交うところだろうが、この時は「何人か」は撮影に来ていた程度。それも大方は顔見知りだった。カメラさえ持っていれば線路下りても目くじらは立てられなかった。

おじん2人ヨーロッパ軽便 その最終版

SNOWDON MOUTAIN RAILWAY

YVでも公開された「ウエールズの山」という映画(1955年)をご記憶だろうか。原題は「The Englisyman who went up a Hill but came down a Mountain」と長く、けして大作ではないが、心温まるものだった。1917年ウエールズのとある小村に、英国政府測量官2名がやってくる。村人自慢の「山」を測量したら、規程(1,000フィート=306m)に16フィート足らず、「山」から「丘」に格下げになると知った村は大騒ぎになる、というお話。 

老齢の司祭が檄を飛ばし、先ずは測量官の自動車に細工=故障させて足止め。その間に村人たちは文字通り老若男女こぞって仕事をおっぽり出し、麓から土を運び上げて1,000フィートを回復しようというのである。しかし無情の大雨が降り折角の土が流出してしまう。鉄道員も協力し、鉄道が雨で不通として測量官の足止めを続け、さらに土を運び上げる。サッカー場の芝まで剥がし土止めに。82歳の老司祭が倒れ、山上に葬られる。

再測量の結果1,000フィートを満足し、若い測量官は村娘とむすばれ、万事めでたしめでたし。六甲山最高峰が931.3m、西宮市の甲山ですら309.4mである。いかに英国に山が乏しいかだが、その英国で登山なるスポーツが発祥したのも不思議である。

この部分のみはほぼレベルに近い 左手の建物は最初の離合地である

ところでウエールズとイングランドで最も高い「山」がこのスノードン山の1085mで、しかも登山鉄道がある。全長7.53km、平均勾配12.5%、最急が18%、2連式アブトで軌間800mm(2フィート7 1/2インチ)とメートル法なのは、スイス方式だから。開業は1896年4月6日、平均速度は5マイル/時(8km)。


DLは流石に強力だが、ブリエンツ・ロートホルン同様、全然面白くない

勿論蒸気機関車だったが、現在ではスイス・ロコ=ウインターツール1895、96、1922年製が4両現役。1986、92年製DLが4両。さらに1995年電気式のディーゼルカーが3両加わったが、最新ホームページには Out of Service とあるのは何故だろうか。不人気なのか、それとも欠陥があったのか。この時は2両重連(総括制御ができる)で運行していた。パンフの表紙に使うぐらいだから、少なくともこの時点では自慢の車両だったろうに。

http://www.snowdonrailway.co.uk/


総括運転の電気式DC 麓側の台車部分床上に機関と発電機が載っている

我々おじん2人はマン島とウエールズの旅の最後にこのスノードンを訪ねた。乗車はせず撮影だけだったが、線路は羊の放牧地をグネグネ延々と曲がって突っ切る。厳重に囲い込まれていながら、それでいて歩行者のための Foot Path が通じており、所々に柵を越すハシゴがある。画面に点々と白いものが見えるのは、ネガのホコリではなく、放牧の羊である。

フットパスを徒歩下山するグループ


借り物の300mm望遠レンズを使い、3個列車を写し込む。画面をクリックし、拡大してご覧あれ

なお長らくご愛顧を頂き?この延々と続いた「おじん」シリーズは、今回を以って終わりとさせていただく。ヤレヤレやっと終わったかと喜ぶ向きもあるかもしれないが、油断は禁物。いつ何時別の「どこまで続くぬかるみぞ」シリーズが始まるか分からない。世の中一寸先は闇なのですぞ。

羊放牧のための厳重な柵を乗り越えるフットパスのはしご 上にいるのは相棒=先達=写真の名手=全行程ボランティア運転手=全プラン立案推進者=ツアーコンダクター

明治村の旧新宮鉄道客車

一昨日の投稿で写真を添付するのを忘れた。まさしく加齢現象に外ならず、我ながら情けない。改めて明治村で毎日働く2軸客車ハフ13、14の54年前の姿をご覧頂く。

撮影は1955年3月26日、奥羽本線湯沢駅=羽後交通雄勝線の発駅で、当然電車に牽かれていた。1942年国鉄からハ13、14を譲り受けたもので、前身は新宮鉄道ハ13、14、新宮鉄道工場大正元(1912)年11月製とある。新宮の開業は同年12月2日で、南海鉄道から譲り受けた2軸客車と共に、開業時の車輌であった。この年は7月30日までが明治だったから、明治村での動態展示は許容範囲内であろう。

新宮鉄道は孤立していたため昭和に入っても自連換装がなされないままに終始し、1934年7月1日買収で紀勢中線になる。新たに船で送り込まれた機関車、ボギー客車、ガソリンカー等も螺旋連環連結器に付替えており、その中には重見式給水暖め器を装着したC11もいた。

その後紀勢西線と接続し、当然自連化されたが、旧客車は螺旋連環式連結器のままで放置されていた。戦時体制下、車輌不足で旧新宮の2軸客車は天塩鉄道、伯陽電鉄(→山陰中央鉄道→日の丸自動車法勝寺電鉄)、大分交通等に再起。2輌が雄勝鉄道(1944年2月4日横荘鉄道に合併、同年6月1日羽後交通に改称)にやってきたのである。

ついでながら明治村で現役を続ける2軸客車は3輌で、もう1輌のハフ11も上記ハ13、14と共に、1973年4月1日の雄勝線内燃化(先に廃止した横荘線のガソリンカーやDLを投入し電車を廃止)後明治村に引取られ、静態展示の後「陸蒸気」開通で復活し今日に到っている=明治村に来て実に40年以上になる。

先日休んでいたハフ11は、青森鉄道ハ4→高畠鉄道ハ2→雄勝鉄道ハフ11という経歴で、かなり改造され原型が定かでなが、1908年天野工場製。機関車とも、螺旋連環連結器は淡路交通に残っていたものを譲り受けた由。

明治村で想う

明治村は数回行っているのですが、例の蒸機牽引の列車の客車で少しガッカリしました。というのは、毎日使っているのでかなり手が入っているのは当然ですが、窓下の本来短冊小割で貼ってあるはずの側板が、実は鋼板だったのです。モニター窓も本来の窓と合わず、内部がいい加減、レタリングも褒めたものでなし。要は木製客車、いや鉄道車輌そのものを全く知らない手合いによって改修されているとしか思えないのです。

ヨーロッパの保存鉄道の車輌にもピンからキリまでありますが、万事にいい加減なイタリアですら、サルディーニャの木製客車を見事に復元しているのはかつて「おじん2人」でご覧頂きました。明治村が名鉄にとって、かなり以前からお荷物になっており、しかもやめる訳にもいかないことは承知していますが、この改修は頂けません。尤も大方の入園者は、そんな事に気づくこともなく喜んでいるのは確かですが。

それに比べれば、N電はしっかりしています。屋根のモニター内部の、京電社紋の擦りガラスも立派です。強いて文句をつけるならば、ポールの紐がいささか興醒めでした。元来ポールには、カウボーイのロープ程ではなくとも、かなり腰の強いものを使いますが、それが軟らかすぎるようで、しかもなぜか途中に絶縁物?があるのは、一体何でしょうか。

蒸気動車キハ6401はJR東海が新たに作る(JR東日本に対抗して)テーマパークに引き上げる由ですな。記号番号がキハ6401のくせに、台枠には「鉄道院」とあり、連結器が螺旋連環式ですから、これはジハ6006にすべきでありましょう。

最後に、昼食時訪ねてきてくれた御仁ですが、その時は記憶が判然とせず、いささかつれない応対をしてしまい申し訳なかったと反省しています。帰りの電車で思い出したのは、平野正彦氏でした。そう、小太りで、名古屋弁丸出しで、別れ際には「ご無礼します」といっていた「赤銅色」のお兄さんでした。卒業以来会ったのは初めて?かな(湯口)

守口の廃車体 ほか1点

拙老の投稿に早速反応があり、気をよくした老人は時間に追われ多忙中(極めて稀にそんな時もある)にも拘らずいそいそと次なるスキャンに取り掛かった。今度は住宅でなく、京阪守口にズラリ並んでいた廃車体である。番号は控えてあるが、二重三重に記されたものもあり、落書き?と思しきインチキ番号もあった。禿筆を以っていい加減な事を書くより、解説はそれこそ乙訓老人の出番であろう。撮影は1955年9月22日。

もう1枚。これは京阪と全く関係がないが、1958年3月27日伊田、ハ2618だったと思うのだが、こんな廃車体があり、半世紀たった現在でも印象深いので押し付けご紹介に及ぶ。これは2本通ったロッカーレール(縦梁)のみが鋼材、端梁は木材で、車体は鋼材上に根太を組み、隅柱、間柱を立て、その上部は長桁で押さえ、と全く当時の木造建築物同様の構造車体である。廃車時売れる鉄は外し端梁を残したが、その高さ分下に古枕木でもかましておけばいいものを、宙ぶらりんにしたから、当然ながらかくも見事に湾曲した、と推定。ごく当たり前の、但し屋根は食パン風ダブルルーフ(雨漏防止で多少加修している)の側戸式3等車である。

客車住宅

拙老も撮っています。時は1957年3月6日、場所は名鉄大江の近辺。バックの架線柱は名鉄常滑線です。大江にズラリ並んだボギー、2軸、木製半鋼製車の一群はかつて諸兄のお目を汚したことがありますが、その際行きがけの駄賃で撮影したナハ22802(仙ココ)の車体ハウスです。当時60系鋼体化改造の種車(といっても使うのは台枠と台車、連結器のみ)にするため、国鉄は全木製車を現車調査し、車体はその程度をAからDまで4段階に評価。Aが最もいいもので、妻面に丸で囲んでA、B、C、Dと白ペンキで記入していました。この住宅の妻にはBとありました。決してスラムではなく、周囲も住宅?自体も綺麗に保たれているのがお分かりでしょう。

かような住宅代用は電車もバスもあり、路面電車廃止時期には各地で幼稚園や公園の自治会集会所等に足を外した車体が流用されていたのは周知の通りです。国鉄では食堂や倉庫、組合事務所にもいっぱいありました。しかもスチーム地域暖房(そのエネルギープラントは蒸機のボイラー)が行き届いていたものも少なくありません。大和鉄道では電化・改軌で不要になった日車製単端式ガソリンカー車体が住宅になっていた由で、その住宅模型を作った奇特な人もいました。

拙老はその時期佐竹先輩とせっせと情報を交換し合い、かような「ハコ」―といっても主目的は旧2軸客車や雑型ボギー車ですが―を撮っていました。

おじん2人ヨーロッパ軽便 その23-13

THE GREAT LITTLE TRAINS of WALES その6  フェスティニオグ鉄道1

パンクのお陰で VALE of RHEIDOL 列車の追っかけを断念した我々は、当初 Aberystwyth で泊まる算段だったが、中々のリゾート地でホテルも高そうなので北へ走った。パンクしたタイヤを早く修理すべくガソリンスタンド(とは和製英語で、ペトロルステーションといわねば通じないことも学んだ。ついでながら「パンク」も100%日本語?のようで、「タイヤー・フラッテド」という)を探したが、すべて無人化、かつての修理ブースもコンビニに化けていたりで、修理はできなかった。

途中手ごろなB&B(ベッド&ブレックファスト=朝食付き民宿)があったが満室。暗くなって2軒目でいいB&Bが見付かった。連泊の申出は満室の由で断念。廊下に置いてあるノートには、日本人の若い女の子(字から推察)が記入しており、車でないと絶対に来れないこんな田舎まで、女の子が、と感心した。

私事で恐縮だが、二女はイタリアのキャンティのドドドド田舎で結婚式をした。これはイタリア人の友人がそこの出身で、我々親たちはフィレンツェから車で送ってもらい、田舎のホテルに泊まったが、娘の友人はフィレンツェのホテルに荷物を置き、浴衣に着替え下駄履き姿で、一人でバスを乗り継いでやってきたのには驚いた。女性、それも若ければそこいらの男共がやたらと(必要以上に)親切なお国ではあるが、若い人の勇気には、ほとほと感心せざるを得ない。


奥がポーツマドック駅。機関車がいるのは堰堤の入口



ポーツマドック駅

翌朝ポーツマドック(こんな綴りなら読める)に向い、その手前の入江に堤防のような、約1km以上の土盛りの有料橋(通行料たった5ペニー)を渡ってフェスティニオグ鉄道の駅に。この橋というか堰堤はフェスティニオグ鉄道と有料道路の共用である。先ずは車を置き、何軒目かでまずまずの宿を確保。親父は今晩来るからというだけで、我々の人品骨柄卑しからぬを察知したと見え、前金も要求せず入口と部屋の2個の鍵を渡してくれた。パンク修理の店を訪ねたら、親切にも大分離れた場末の修理工場まで案内し、修理の間に自分は徒歩で帰っていった。


途中駅で給水中 機関士(手前)はちゃんとネクタイを締めていた

この鉄道は軌間が1フィート11 1/2インチ(597mm)、勿論スレート運搬目的の産業鉄道として、ウエールズでは最も有名である。当然車輌定規も狭いので、機関車はフェアリータイプが大活躍している。これは一見2輌の蒸機を背中合わせにした双合型のようだが、キャブは中央に1ヵ所で、両方のボイラーを焚く。フレームは1個で両方のボイラーが固着され、台車はボギー式で急カーブに対応。蒸気や排気はセンターピン部分で処理している。つまり機関車2輌分を機関士、助手各1名で運転できる。我国にはないタイプである。


終点の BLAENAU FFESTINIOG  ここは標準軌間の BRITISH RAIL に接続している