1953年3月高校生東京へ

先回が4月22日だったから、半月近く空いてしまったが、その3をご覧頂く。


小海線ホハ12000型から中央線に乗換え、甲府へ。かなり暗くなっていたが駅前の山梨交通を見る。この線は恐らく日本最後となったダブルポールが健在で、その後いきなりビューゲルになったと記憶する(乙訓ご老人さま、それでよろしいかな?)。動力車はすべて雨宮製とは、流石に雨宮敬次郎はじめ雨宮一族の出身地である。1号有蓋貨物電車は単台車でなく単軸受だが、両方の軸箱間に桁を渡し、モーターを支える変わった方式である。ほぼ同時に開発製造された2軸木製ガソリンカーも軌を一にする発想で、両軸箱で機関台枠を支えていた。


身延線クハ58007 甲府

これから身延線を乗り通し、富士か沼津で生まれた初めてのステーション・ホテリング(駅待合室で睡眠し一夜を過す=略してステホ)する計画だったが、途中天気が悪化し大粒の雨が半端でなく降りだした。そのうちダイヤも乱れて長時間の停車後、車掌が土砂崩れがあって不通になったので、この電車は身延で打ち切ると残酷に宣言。

身延駅に放り出されたが、ステホできる雰囲気はなく、疲労困憊していたので、やむを得ず宿を探す事にした。なるべく汚い(当然安かろう)旅籠=行商人や修験者用と思しき宿を選び投宿。16歳にして一人で宿(旅館などといえた代物ではない)に泊まった初体験ではあった。当時安宿は股旅映画のように、隣室との仕切りは襖のみで鍵もなく、貴重品は当然帳場に預ける。風呂も家庭用に毛が生えた程度のもので、1人が上がると女中さんが次の客に入浴順序の到来を告げ、愚図愚図していたら間引かれてしまう。宿賃は2食付で確か350円だったか。だから食事のグレードなんぞ知れているが、それでも家を出て以来はじめての、夕食らしい夕食ではあった。

翌朝になると、多少ダイヤは混乱していたが、幸い電車は動いていた。しかし天気が悪くカメラを取り出す気も起こらないほど。幸い東海道線まで出、沼津に着いた頃には回復した。凸型(流石に戦時型からは多少改修されていた)のEF13を初めて見、構内ではB6―型式2120のトップナンバ-が入換をしていた。B6は東京の周囲、大崎や田端等々にイヤになるほど、掃いて捨てるほど入換に従事していた。


EF1318 

EF1319

EF1318

EF57

モハユニ81も初めて見た
関西では見られない第一次型クハ86 金太郎腹掛けが大きくなっている
2120のトップナンバー

16連の湘南電車にもお初にお目にかかった。TMS誌で「東西電車自慢」があった際、東京方の赤井哲郎が、関西の80系急行電車に対し、「4連、確か4連でしたね。こっちは16連ですぜ。4倍ですぜ」と書いていたのが忘れられない。当時京都-神戸間の急行電車にはまだサハがはさまらない4連だったのである。


駿豆鉄道軌道線7

駿豆鉄道軌道線17

沼津駅前から路面電車が三島まで伸び、本線に接続していた。旧東海道に併用したのんびりした路面電車は、花巻電鉄鉛線は当然として、秋保電鉄(のち仙南交通)、松本電鉄浅間線と共に、大いに小生のお気に入りとなり、その後何度か訪れることになる。

1953年3月高校生東京へ」への2件のフィードバック

  1. いつも湯口兄のカメラアイに感心します。
    私は昭和25年から33年頃までの電気車の科学を持っていますが
    最初の方はまさにこんな感じで戦時型EF13や湘南電車80系が時代の顔で
    あったと思います。
    80系は姿を消して久しいですが、中長距離輸送の客車を電車に置き換えた
    というのが当初の性格で、回を追うごとに改良されて電車らしい電車になって
    いきます。乗り心地は、車体構造、台車、座席とも「もう戦前を超えた」と
    いうのを鉄道で感じさせた一つの例ではなかったでしょうか。
    赤井さんの堂々の16連自慢、単純な比較では軍配を上げ難いのですが
    東西の鉄道ファン気質と贔屓がでていて面白いです。

    その一方で山梨交通、廃線まで前照灯を昼間は装着しなかった路線と言われて
    ますが、その保守気質と雨敬一色の田舎色丸出しぶりが痛快なレポートです。
    この頃は中央線の電車は与瀬(相模湖)くらいまでしかいってなく、笹子の峠を
    越え甲州に入れば当時は全く関東の感覚ではなかったというのがわかります。

    2120のこと。調べてみると明治31(1898)から1902までに
    268台作られた明治期最大勢力の蒸機です。
    建設中の東京タワーを背景にした国鉄機の写真を子供の頃に見て軽い衝撃を受けた
    記憶があります。しかし当時で1955年頃ですから齢60前で、戦時中の酷使
    があったとはいえよくもったものです。大正初期の8620や9600も長く
    使われた方ですが、英国製の品質が良かったのと数量が纏まっていて運用整備に
    重宝、それとこの頃まで輸入機を整備できた昔気質の技術屋が残っていたから
    でしょう。それがお江戸に多く残った理由と思います。

    湯口さんの写眼は被写体の新旧選択のバランスがよく、何がニュースか見ている方
    まで伝わってきます。とてもジャーナリスティックな感覚だと思います。
    個人蔵の古本では不鮮明だった映像がこうしていま鮮明なアーカイヴとなり蘇る。
    考古学発掘で埋蔵品が現れる時の感動にも似た思いを感じるのは私だけでしょうか。

  2. 白帯ワムのファンです、現在まだ私はデジタル青信号の会員が集めた白帯車の写真の大半をご覧になっていませんが、この投稿で1953年4月改正以前の白帯車の写真が見れるとは大変貴重な物だと思います!なおこの写真は数ヶ月前にbing検索で発見して拝見したばかりですが、まだ他にもいろんな過去の投稿を探れば白帯車の写真が見つかる可能性が高いので時間をかけて探していこうと思っている所存です。しかし今はほとんどコメント内の写真は見れないところが多いのが大半なので、難しい課題ですが…未だ故吉岡心平氏が集めた約1000枚の白帯車の写真の大半の全部も拝見していない為、なかなか貨車の世界は大変ですね…(泣)

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