超大型台風にも負けず、 久留里線、いすみ、小湊鉄道 撮影日記

 祝、東京駅復元工事完成!


▲ 10月1日に復元工事が完了してお披露めなった東京駅です。ライトアップは午後6時からで、帰宅列車を遅らせて見学しました。
駅前は、ライトアップを撮ろうと大勢の見学者で一杯でした。

 

ンドネシアSL撮影紀行記をのんびりと書いている間に10月を迎えて、秋本番になってしまいました。29日に海外鉄ちゃんの集会があって先週から2回連続の上京です。 関東方面に行く事はあっても、殆どが海外へ向かうためのトランジットで、鉄道を撮る時間がありませんでした。先週も江ノ電撮影を計画していましたが、終日風雨が激しく断念しました。今回は頑張ろうと、先日に準特急先輩が神足に来られた時に相談してみますと、「小湊・いすみ鉄道が中々良いよ。初めてなら案内しよう。」とのご好意を受けましたので、連泊することにしました。そして、以前に中国哈密三道嶺撮影にご同行させていただきましたSさんから車を用意していただく事も決まって機動性もできました。また同じく哈密でご一緒だったTさんも加わり楽しい撮影旅となりました。ありがとうございました。
問題は、超大型台風17号が本土上陸するらしく先週同様以上の悪天候が予想されることでした。
インドネシア紀行記を少し中断して、投稿させていただきます。ご覧ください。

 2012年9月30日  JR川崎駅→JR久留里線→いすみ鉄道→小湊鉄道

9月30日朝、7時過ぎに川崎駅で集合、4人乗車でアクアラインを圣由してまずはJR久留里線での撮影です。朝日が上がっていた頃は、青かった空も雲が立ち込めてきましたが、シャッターを押す時は不思議と明るくなって陽も射してきます。インドネシアに続いてのビギナーズ・ラックは、ここでもまだ残っていました。

▲ 7:57、いすみ・小湊鉄道に向かう前に今年8月21日に開業100周年を迎えたJR久留里線を撮りました。数少ない非電化線で撮れたのは、貴重なキハ38-602+キハ37-2です。アイボリーと青との車体色は初めて見ました。撮影地は、下郡~小櫃(おびつ) の西原踏切、列車番号は923Dです。


▲ 8:20、反対の小櫃からやってきた926D、キハ38+キハ37-1002の2連。これらの旧型気動車は、今年12月にキハE130系に置き換えが予定されています。農道横の花を前景にしてとってみましたが、ピントは花の方が良かったかも・・・。

続きを読む

相模鉄道キハ1001~1004

我国電気式内燃動車は、国鉄に米国ガス・エレキトリック車のイミテーション・キハニ36450形式、ディーゼル・エレキトリックのキハ43000系、敗戦後のキハ44000、44100系、私鉄ではこの相模鉄道キハ1001~1004しかない。電気式は機械式に比し相当に高価が常識だが、相模の重役に電気の専門家がおり、電磁弁による総括制御を狙ったのであった。価格は随分調べたが資料が得られない。


相模鉄道キハ1001汽車会社竣功写真 台車は端梁つき菱枠 コロ軸受 日車新案特許の簡易連結器を装着

製造は汽車会社東京支店1935年10月、電機部分は東洋電機。機関は対向ピストン4気筒(8ピストン)のユンカー5-4TV82馬力/1,500、発電機は定格連続70kW300V(最大600V)205A、電動機は300V54kW×2、制御方式は自動ワードレオナード式で出力を一定に保つ。65km/h以下では発電ブレーキを常用し、冬期は抵抗器消費で発生する熱を車内に送って暖房にする=制動状態以外での暖房は利かない。停車直前には空気制動になるが、通常のシュー式ではなくバンドブレーキである。力行速度は平坦線65km/h、12.5‰勾配で45km/h、燃料消費は1km当り0.5立とある。


キハ1001茅ヶ崎 1939年黒岩保美撮影 2眼レフの見上げ撮影のため 上すぼまりの車体が余計すぼまって見える

車体はご覧のように日本離れし強いて言えば欧州風だろうが、関センセがおっしゃるハシゴ形とは、脚立形と云う意味だろう。梯形車体と称されることも多いが、妻台枠部分は垂直で、腰と窓部分にも角度があり、屋根両端を辺と看做せば、10角形という、実に不思議な代物である。内燃動車に限ったとしても、汽車会社のデザイン能力=センスは日車本店に劣ること数等である。

塗色は腰が海老茶色、上半分が黄色で、鉄道趣味誌の紹介記事は「東海道線の乗客にして茅ヶ崎を通る時、必ず誰かは気が付かずにはゐないであろう。事程左様に美しい車両なのである」「兎に角この車が、日本一の高原鉄道小海線にでも運転されるとして、八ヶ岳の麓を走ったら一幅の絵となるであらうと思う」とベタほめ。「只惜しむらくは平面に於ても流線型にしたかった」ともある。

キハ1001~1004形式図 鉄道趣味30号より 右端座席に注意

平面図で分るとおり、左側妻部座席はあたかも90度捻ったクロスシートで、窓際に座った人は、窓が開いていれば普通に座ったままで窓の外に首が出せると揶揄され、窓が閉まっていれば、絶えず首を内側に曲げ続けを強要される。敗戦後日立電鉄での車内写真をご覧あれ。図左側妻部運転席以外は手荷物室である。妻面は3枚窓だが、等幅ではなく運転席窓が900mm、他の2枚が650mmと狭いのも変わっている。

乗務員/手荷物扉は片側に集中し、それも引戸だから、扉の妻側上部は斜めになっている。反対側運転席サイド妻寄り窓はタブレット授受のため、下段の前寄りが細長い台形引戸になっている。その反対側客席側窓は嵌め殺しだが、暑いとの苦情があったとみえ、後年の写真では運転席と同様に改造されている。


キハ1004 社家 1939年11月20日 荻原二郎撮影 運転席の小さな台形窓に注意 風入れとタブレット授受用 妻運転席と中央窓は嵌め殺し

ところで導入時3両重連の不鮮明な写真が社史にあるが、結局総括制御は成功せず、高価な電気式にした効果はなかった。1938年5月サハ1101が同型(手荷物室なし)で新製されたが、総括制御が可能なら、当然キサハになっていたはずである。

相模鉄道は1943年4月1日厚木で接続する神中鉄道を吸収合併したが、本来の相模鉄道部分が1944年6月1日買収され、相模線となる。残った旧神中鉄道部分が相模鉄道を名乗ったまま現在に到っているのである。キハ1001~1004はこの旧神中鉄道に移り、1944年6月18日設計変更認可で電車化。機関と発電機を撤去し、パンタをつけさえすれば直ちに電車になったのだが、モーターは300V用のはずだから、永久直列にしたのか、600V用に交換あるいは巻き換えたのか。どなたかお教えくだされ。

現実に認可時点では1001、1002が竣功済、1003、1004は敗戦後になり、番号そのままで記号のみキハからモハに変更された。その後日立電鉄に移りモハ13~16になっていたのは周知の通り。ここでは1両ごとに細部が異なり、両側に乗務員扉が設けられたものもある。


日立電鉄モハ13 湯口 徹撮影 乗務員扉がなかった側にも律儀に同一仕様で設けられ 妻面中央窓も開けられる

サハ1101は買収で運輸通信省コハ2370になったことになっており、1951年3月廃車が記録されているが、これは書類上だけで、現実に現車は相模鉄道に残存=国鉄には引き渡されていなかった(取り込み横領?)。かような事例は敗戦前後のドサクサに少なからずあって、強盗慶太辣腕の一端かもしれない。1955年両妻を平妻に改造しサハ2801に、1959年10月日立入りしてサハ2801になって、モハもサハ同様平妻化されて、一族5両はかなり長命した。


日立電鉄サハ2801 湯口 徹撮影 両端をフラットに改造 軸受はプレーン

日立電鉄モハ15旧手荷物室部分 手荷物扉は埋め殺されている 湯口 徹撮影

 

はしご型流線形ディーゼル電動車??

今回は、説明文を読んでもよくわからない乗り物です。パンタがない電車シリーズなので電気動車なのでしょうが、相模鉄道に新旧があったとか、電装されて日立電鉄にいったとか、関西在住にはよくわかりません。わずかに日立電鉄といわれて、ああ見たことがある、と思う程度です。

夏の思い出 総決算 -4-

京王調布駅の平面交差を見る

京王電鉄が調布駅付近で進めていた、地上線から地下線への線路の切替工事が去る8月19日に完了、国領、布田、調布の3駅が地下駅となった。なかでも京王線と相模原線のジャンクションである調布駅は、京王線下りと相模原線上り線が平面で交差する配線になっていたため、ダイヤ上のネックとなっていた。相模原線の上り列車は、調布駅の場内信号で開通待ちをすることが多かった。

京王線と相模原線の分岐駅として、電車の入線が絶えることのなかった地上時代の調布駅。撮影当日は、新宿で鉄道写真展を見学しようとしたが、最終日で閉場が早まりアウト。予定より早めに京王線に乗ったところ、今度は寝過ごしてしまった。また調布まで戻ったところ、陽は傾きかけて、平面交差を鈍く照らし出していた。

平面交差の構造は、阪急淡路駅とよく似ているが、淡路は、支線に当たる千里線は、4面すべてのホームに入線できる構造になっているが(下り方は3面のみ)、調布は支線に当たる相模原線は2面にしか入線できない。その分、規模としては、やや小ぶりな印象を持った。ただ、阪急に比べると、同時入線、同時発車が頻繁にあって、その際の両電車の接近ぶりは、極限に近いものがあり、ハラハラものだった。

中国新聞 広電記事

9月28日中国新聞朝刊に載った広電値上げ関連の記事をご紹介します。路面電車のスピードに言及していますが、広島市内は道路も広く、軌道敷き内には自動車は入らず、交差点での右折車も電車優先のマナーが守られているので、広電は恵まれた部類に入るように思います。かつて京都市電がクルマで身動きがとれない状態に陥った あのような光景は今の広島にはありません。バスも同様ですが、「完全に停車するまで 席を立たないでください」というのが 高齢化してきた昨今では当たり前になり、停車時間が昔に比べれば長くなっているように思います。プリペイド式の料金支払いで早くなる反面、観光客など不慣れな人がもたつく光景もあり、また超低床車の普及で乗り降りが早くなる反面、ベビーカーの持ち込みでもたついたりと乗降時間短縮もそう簡単なことではないと思います。路面電車とはスピードを期待するものではなく、ゆったりした気分で乗る乗り物だと思うのですが、皆さんはどう思われますか?

9月28日 中国新聞

夏の思い出 総決算 -3-

もうひとつの夏の思い出、と言っても、ただひとつ“外回り鉄”で行った首都圏の数日間のみだった。この時は、準特急さん、F本さんにも案内していただき、郊外も回ることができた。その前に、都内での用件が意外と早く終了した。暗くなるまで2時間はある。遠くへは行けない。こんな時に、すぐ行けるのが都電だ。

傾きかけた陽に急がされるように、終点の三ノ輪橋まで来た。以前、来た時には陽が落ちた黄昏時の光景が良かったので来たものの、期待の夕陽ギラリは、周囲の建物に阻まれて、完全にアテ外れ、陽の差し込む余地のないことが分かった。あわてて地図を取り出し、夕陽の差し込む西方向へ線路が伸び、カーブのある地点を探すと、4停留所先の「荒川七丁目」しかないことが分かった。

都電には乗らず、ただ一目散に歩いて、「荒川七丁目」まで向かうが、陽はどんどん落ちてきて、現地に着いた頃には沈み始めた。ギラリは諦めて、逆方向の夕陽バックに切り替えて、停留所から町屋方面を狙う。カーブして輝いたレールの向こうから次つぎ都電がやって来た。

 

 

陽が落ちてから隣の町屋駅前へ向かう。京成線、メトロが交差する、乗降の活発なところで、次つぎと来る都電から多くが降り、多くが乗って行く。都電が通り過ぎると、踏切を多くの人が横断する。東京のパワーを感じる一断面だった。

何気ない街並みに都電がうまく溶け込んでいる。沿線の住民も、さり気なく、日常の生活の中に都電が生きている。路面電車の魅力を感じる2時間だった。都内で思い立ったら行けるのが都電の魅力でもある。

八月だ、もっと熱くなろう!赤道直下のインドネシアSL撮影の旅 Part13 PG.SUMBERHARJO(スンバルハルジョ製糖工場)

神谷武志企画のテレマカシーツアー  第8日目 8月11日

am; ジョグジャカルタ BorobudurのManohana Hotel (4:40~7:00)11:00→
pm; →18:43 スンバルハルジョ製糖工場 21:0323:43 PekalonganのNirwana Hotell

今日は、インドネシアが誇る世界文化遺産の一つ世界最大級の仏教寺院「ボロブドゥール」を観光見学します。鉄ちゃんには通常無縁のツアーですが、皆さん折角き来たんだから一度ぐらいは見ておこうと、真っ暗闇の日の出前、4:40に公園内にあるマノハナホテルを懐中電灯を照らしながら出ました。
公園開門は6時ですが、このホテルの宿泊者のみ早くに入場できる特権があります。

▲ 5:40、寺院の上に上がりますと、だんだん夜が明けてきました。今日は霞がかっていて幻想的な光景が拡がります。

▲ 6:12、世界中から訪れた観光客が見守る中、ようやくご来光が雲間から見えました。
続きを読む

八月だ、もっと熱くなろう!赤道直下のインドネシアSL撮影の旅 Part12 PC TASIKMADU(タクシマドゥ製糖工場)

神谷武志企画のテレマカシーツアー  第7日目 8月10日 2の2

am; ソロ(スラカルタ)のIndah Palace Hotel 6:30→6:40 ソロ市内線(6:40~10:15)→
pm;
 →14:53 PC Tasikmadu(15:00~17:30) 17:28→ジョグジャカルタBorobudurのManohana Hotel


▲ タシクマド製糖工場で初めて見かけた厳つい車は、日本では見た事のないトヨタ車でした。

車名は、TOYOTA KIJANG。インドネシアで1977年からノックダウン生産されたトヨタ・キジャン初代型です。現地の悪路・過積載にも耐える、はしごフレームの四角張った頑丈な車で、約35年経った今も現役です。日本国内なら10年も経過すると中古車販売店に並ぶのが貴重なくらいですが、約100年経った蒸気機関車を今も使い続けているインドネシアですから、このぐらいならまだまだなのかも・・・。この車なら多少ぶつけても大丈夫ですね。エンジンは、初代カローラに搭載された水冷直列4気筒OHV1200cc 68馬力で、東南アジアにトヨタの名を知らしめた記念の車だそうです。


▲ GPSロガーのホテルからタシクマド製糖工場への軌跡です。フォトランしましたソロ市内線のPurwosari駅~Solo-Kota駅~ソロ川鉄橋は、赤線です。
続きを読む

夏の思い出 総決算 -2-

台湾の客車急行列車

この莒光號、客車列車だけあって、速くはない。停車駅も多く、特急(自強號・太魯閣)の待避も多く、所要時間は区間車(普通)と大して変わらない。以前は、急行に冷房があるだけで、普通との差別化ができていたが、普通電車がすべて冷房車になった今では、ほとんどメリットがない。

またこの列車、全車指定だが、満員の場合、無座(立ち席券)を買って乗車することになる。近距離ならもともと無座しか発売しない。日本なら、このような場合、遠慮して、席が空いていても立っているのが通常だと思うが、この地では、何の遠慮もなく空いた席にしっかり座っているので、あとから指定券を持って乗ると、先客を排除するのがまず仕事になる。しかも、車内検札は全くないので、区間車客が紛れて乗り込んでいるケースが相当あるように見受けられた。

莒光號を牽引するE200型だけでなく、同型車として、MGなしの貨物専用機E300型と、歯車比を変更して最高速度を130kmに引き上げた西部幹線の莒光號牽引用のE400型がある。名前に魅かれて下車した牡丹Mudanは、以前炭鉱地帯だった。いまは、ホッパー車を連ねたE300型の牽く重量貨物が通り過ぎて行った。

平渓線との分岐駅、三貂嶺Sandiaolingは、前回も書いたように、国鉄時代の保津峡か武田尾の趣きを持った駅であるが、この前後区間、勾配のため、写真のように貨物列車には補機が付く。駅員が親切なのは、どこも同じだが、ここは鉄道ファンの撮影も多いのだろう。駅員からはツウな回答が返ってきた。次の列車の通過時刻を尋ねると“タンキ、タンキ”と返ってくる。数分後、通過したのは、まさしくELの単機回送だった。補機の回送が多いのである

新烏日NewWurihiに到着する、台北発花蓮行き51次。上は、台湾高鉄(新幹線)の台中駅。列車の種別は莒光號であるが、ツアー専用の観光列車である。日本にも以前あった団体専用列車みたいな列車で、一般営業用の客車とは区分されたイラスト入りの客車が使用される。展望車風の客車や食堂車もあるようだ。

先週に2回目の台湾入りした際には、台北から西へ5駅目、鶯歌Yinggeへ行ってみた。この付近、日中は約20分ヘッドの8両編成の電車は、いずれも満員だ。桃園寄りにある陸橋へ行ってみる。鶯歌は、焼き物の街として知られ、陸橋付近も店が軒を連ね、日曜日とあって、多く買い物客が訪れているが、それにも増して、陸橋からの鉄道見物客の多さには驚く。家族連れ、老いも若きも、列車が来るまで待ち続ける。鉄道ブームまさに極まっている。

京阪本線特急色600形車両の運行

大津線開業100周年記念イベントのひとつとして今日から石坂線600形を、京阪本線特急色に変えた1編成が運行始めました。また10月27日には「京阪本線特急色600型車両」臨時列車及び撮影会が行われます。詳しくは京阪大津線のサイトをご覧ください。今日は朝から快晴で、先日購入したカメラの初撮りを兼ねて出かけました。今日から運行されると言うことはwebで知ったのですが運用がどこにも書いていません。仕方なく電車が見える、島ノ関駅近くのファミレスで昼食をとりながら待ちました。運行は石山寺-坂本間ということで、最悪40分待てば石山寺行き、坂本行きのどちらかを捕まえることができます。待つこと30分、特急色の車両がやってきました。石坂線でも最近はラッピングした車両が多く、何も貼られていない車両は少数派になっています。久しぶりの特急色、塗装したばかりでラッピングも広告もない車両はやっぱりきれいですね。

時刻が特定できたので時刻表を見て運用を想像し、浜大津から近江神宮にかけて歩きながら写真を撮りました。浜大津ではこれを狙っているのかカメラを持った人が数名いて撮影しています。最近は曜日に関係なくこのあたりでカメラを構えている人を見かけるようになりました。地元民として乗客の増加につながればと思っています。

尚参考のため今日の運行確認できたのは浜大津発13:30近江神宮行き、13:54石山寺行き、14:38坂本行き、15:16石山寺行きでした。京津線ですが1969年ポール時代の300系特急色の写真も添えておきました。

宮崎交通チハ101~103

敗戦後1ドル360円の超円安レート設定による外貨絶対不足で、石油燃料輸入は厳しく制限され、産業復興のトラックや壊滅状態のバス等に限っての配給が長らく続き、電化あるいは石炭でしのげる鉄道には、配分がなかった時代の、それも最末期に出現した車両である。何度も記したが江若鉄道のみ、米軍の虎の威を借りて独自に燃料を確保し、1948年4月以降他鉄道より2~3年早いディーゼル化を成し遂げたが、常総筑波鉄道をはじめとする諸鉄道は指をくわえて見るだけで、その後も闇ルートで確保した燃料を、代燃と偽って使用するしかなかった。多くの鉄道がこの時期電化に走ったのは周知の通りだし、蓄電池バス、タクシーも少なくなかった。TAMAなる電池自動車も発売されていた。 

宮崎交通の鉄道線では、1950年3月蓄電池動車を3両作り上げた。それというのも、同社には既に電気自動車を扱い、バッテリーに関し技術経験を積んでいた宮崎電気自動車サービスという子会社があり、ノウハウを持っていたのである。国鉄のキハ40000を3両購入し、エンジン、トランスミッション、冷却装置、ガソリンタンク等を撤去。代りに150V50kW電動機を1個装着し、駆動システムは従前のものをそのまま使用=ギヤ比も4.056のままだが、逆転メカニズムは殺していた筈である。

宮崎交通チハ101 1958年3月13日南宮崎 湯口 徹撮影 

車体全長に渡って屋根上に逆L型アンテナ(歳が分るが)が張ってあり、走行中ずっとラジオが流され放しだったのは、当時として大サービスなのだが、勿論真空管式ラジオ受信機である

電池は湯浅80V(40個直列)、252Ahを2組床下に装着し、80V/160V切替及び抵抗制御で、電池直列/並列各4ノッチ、計8ノッチであった。車両の改造は広瀬車両、電気部分は中島製作所と神戸電機鳥羽工場。50kWとは67馬力だから、ガソリンカー時代のGMF13=100馬力に比せば2/3だが、幸いこの線の南宮崎―青島間はさしたる勾配がない。竣功図記載の自重は19.78トンで、キハ40000の18.09~18.35トンに比し、1.5~2トン重くなったのは、ひとえに鉛電池のためである。詳しくは田尻弘之『宮崎交通鉄道部』RM LIBRARY69を参照されたい。

電気車の科学1950年10、11月号、宮崎交通鉄道部長の「蓄電池車の採用について」によれば、車両1両の払下と改造、充電所が200万円、計800万円の予算でスタートしたが、地上設備も含め総額1,153万3,516円、内訳は車両払下3両が214万8,197円、電装とも改造費同216万円、蓄電池予備1組共216万円、充電所費252万4,319円、輸送費30万円とのことである。

走行1km当り消費電力1.48kWh、石炭に比せば動力経費が半減した由。しかし現実にはこの直後ディーゼル化が可能になり、蓄電池化は設備投資と人手が馬鹿にならず、結果論としてはもう少し待ってディーゼル化すればよかったことは間違いない。宮崎交通は追いかけて蓄電池機関車2両も増備し、それでいて蒸気動力も残存するという、二重投資を余儀なくされ、ディーゼル化することはなく、国鉄日南線に土地を譲って1962年7月1日廃止したのであった。

なお電池動力は米手作市氏ご指摘の通り、かつて国鉄にAB10なる蓄電池機関車があったのは、火薬工場での引火を恐れたためである。他には鉱山等の産業用に電池機関車はかなり存在し、敗戦後では本郷軌道が蓄電池動力を併用している。旅客運輸動力に蓄電池を採用したのは、範多商会が輸入したエジソン・ビーチ電車を、神戸電気鉄道(現在の神戸電鉄ではなく、神戸市電の前身)が、1906年に試用した例しかない。結局このエジソン・ビーチ電車はどこにも売れず、小樽の石炭埠頭で使用する計画もあったようだが、軌間が1435mmでもあり、実現せず。

現在に至って、新鋭電池によるテストは少なからず行われているが、さて、商業ペースでの実用となると話は別である。なおドイツではかなり古くから、電池動車が実用化されていたが、結局はディーゼルに敵わなかった。

60年前のエコ・カーバッテリーカー

宮崎交通のチハ101型、今はやりのバッテリーカーの走りです。そういえば昭和の初めに国鉄が非電化区間用に蓄電池機関車AB10型、後に電装されてEB10型になった事もありましたね。

ほかにも“電池式自走客車”があったかもしれません。

八月だ、もっと熱くなろう!赤道直下のインドネシアSL撮影の旅 Part11 SOLO(ソロ市内線)

神谷武志企画のテレマカシーツアー  第7日目 8月10日 2の1

am; ソロ(スラカルタ)のIndah Palace Hotel 6:30→6:40 ソロ市内線(6:40~10:15)→
pm;
 →14:53 PC Tasikmadu(15:00~17:30) 17:28→ジョグジャBorobudurのManohana Hotel
▲ インドネシアのおかあさんたちは、笑顔一杯でたくましく見えました。Solo-Kota駅では、そんな光景に囲まれました。だから子供たちも元気に育っていくのでしょうね。

6:40、市内のホテルから約10分でPurwosari駅に到着しました。今日ぼ午前中は、この駅からの営業している支線を使ってのチャーター列車に乗車してのフォトランを楽しみます。

続きを読む

夏の思い出 総決算 -1-

気がつけば9月も下旬です。ここしばらくクローバー会会員とともに、鉄道誌への寄稿・校正作業に追われ、やっと終わったのが、一昨日の午前5時でした。

この間、ずっと家に籠ったままの生活が続き、外は暑いのに、撮影にはとんと熱くならないまま夏が終わってしまいました。

掲示板では役立たずの状態が続いていましたが、これまでの埋め合わせのため、少ない材料を駆使して、夏の報告、総ざらえです。

この夏、珍しく海外旅行が相次ぎました。と言っても、台湾ですが…。

ただ台湾は、本欄でも、準特急さん、ぶんしゅうさんはじめ、デカンショさん、ブキウギさんから、その良さを刷り込まれています。別の用務が発生し、急遽、台湾行きとなりましたが、用務の間に、しっかりカメラに収めてきました。

確かに今も、日本の国鉄時代の懐かしい光景が見られる台湾鉄路ですが、そのなかでも客車急行列車は、まさに国鉄時代の東北本線・山陽本線の再来を思わせる列車で、すっかり魅せられました。今回は、客車急行列車に絞って紹介しましょう。

台湾鉄路には4種類の運賃タイプがあり、日本で言えば、特急、急行、準急、普通列車に相当する。日本のような運賃+料金の概念はない。時刻表に莒光號Chu Kuang Haoと表示されているのが、この急行列車である。すべて客車編成で、電化区間はEL、非電化区間はDL牽引となる。客車は、冷房付き、リクライニング転換クロスシートで、日本で言えば14系客車に当たる。日車・日立で製造されたが、1970年以降の増備車は台湾製もあり、総数は400両を超える。客車の形式は、数字2桁(自重)+英文(種別)+数字5桁(形式区分)の表し方、種別のうち、FPは商務車(1等車)、SPは普通車(2等車)、Kは車掌室付きとなる。製作年代によって細部は異なる。

写真は、台湾高鉄(新幹線)台中駅との乗換駅、新烏日NewWurihiに到着する莒光號655次、台湾高鉄開業に伴い、相互乗換駅として新設された。655次は、台東発高雄行きの夜行列車で、台湾一周路線のうち、10分の9を走破する台湾鉄路最長距離の列車、オール座席車なので台湾版「八甲田」「桜島・高千穂」と言ったところ。

今回は電化区間しか行けなかったので、先頭に立っていたのは電気機関車のE200型である。1976年GE社製で、ほかにも同系としてE300・E400がある。高運転台で、オレンジ部に腹掛けラインが入って、いかにも米国製らしい無骨なスタイルだ。

写真は、平渓線との分岐駅、三貂嶺Sandiaolingを通過する莒光號。付近は、まるで国鉄時代の保津峡か武田尾の趣きだ。

集集線に少し前から動態保存運転されているDT688(D51)を撮影後、乗換駅の二水Ershueiへ。ビンロウ(檳椰子)の樹がいかにも、南国へ来たことを感じさせてくれる。1両目の青色車は、行李車(荷物車)の45WBK80009、2両目も同型車の45WBK80001である。このように1~2両の荷物車の連結が常で、これも国鉄時代である。時刻表には記載がないが、一日数本の荷物専用列車も走っている。

莒光號を駅撮りではなく、駅間で撮りたくなった。台北から2時間程度で行けるお立ち台として、宜蘭線の大里Dali を選んだ。駅から10分も歩けば、太平洋の大海原が見える。沖にはカメの姿に似た亀山島が見える。ポジションも並行する道路から簡単に収まる。おまけに、東部幹線の一部だけあって列車本数も多い。まさに、新幹線開業前の山陽本線須磨下車徒歩10分の気分だった。

DRFCなにわ船場鉄道フェスティバルに再登場!

先に「大津の86」特派員から速報された来る10月12~14日に、【船場まつり】で再び「まつり」の盛り上げ役としてDRFCは活躍する。次回は関西大学、大阪市立大の鉄研との合同参加で、今回好評を呼んだNゲージ京阪電車オンパレードに加え、新機軸が計画されている。【船場まつり】は大阪・中央大通の階下の船場センタービル中心に北は本町通、南は南宝寺商店街、東は堺筋、西は御堂筋を中心に広い範囲で開催される。開催は10時から16時まで、衣服をはじめ掘り出しもの雑貨などの「のみ市」がうりであるお買い得の祭りである。親父一人で訪れるのはもったいない。家族お揃いで、友達誘い合わせ、財布を緩めるつもりででご参加ください。DRFOは御堂筋の西、10号館1階で展開します。

尚、老頭児特派員は13日午後、「船場鉄道フェスティバル」コーナー周辺をウロウロしようと思っています。三条京阪では折りたたみ椅子があり、90分間休息させて頂きました。そこへ会長さんのみならず多くの方と言葉を交わすことが出来ました。15時30分、片づけに入った時、京阪電鉄鉄道企画部の方が挨拶に来られ、来年以降も今回の企画を継続させるので協力要請がありました。「こちらこそよろしく、ご要望あれば現役にお話し下さい、OB会としてバックアップさせていただきます。」との返事をさせていただきました。

サークルステーションIN三条

 本日京阪三条駅にて行われた「サークルステーションIN三条」に行ってまいりました。会場でお会いした米手作市様より、デジ青に様子をアップするようにとのご依頼で報告させていただきます。

 

地下コンコースの一角にグリークラブ等が順に発表するステージがあり、その奥のスペースに9mmゲージのレイアウトが置かれています。京阪の車両が走行し、コントローラーも解放され、子どもたちも運転を楽しみ、ステージの発表に負けず劣らず人が集まっていました。一角ではビデオが上映され、先日受賞された「学生支援センター所長 地域貢献賞」の盾も置かれていました。

  この受賞もあって今回のイベント出展依頼が来たそうです。また、10月12~14日には船場祭り2012にも出展するそうで、これからますます鉄道趣味を通しての地域への貢献という活躍が期待されます。乙訓の老人様もお見えになり、同じく10月14日に南草津で行われる佐竹先輩の講演会の案内を渡され、現役会員とOBとのコラボもあった今日のイベントでした。

10月12日、青森駅に集まれ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おっ~と、青森展も載っていますよ。

本日、一斉に発売された鉄道雑誌各誌に、クローバー会写真展in青森の案内が掲載されています。

会員の皆さんに協力を求め、テーマに合った写真が次つぎ寄せられました。厳選された珠玉の作品50点が、現在、京都にある品質第一の極上仕上げ店で、一点一点丁寧にプリント中。全貌をお知らせするまで、しばしお待ちを!

期間中、はるばる青森まで展覧に訪れる会員も、続々と約3名が現れています。10月12日以降は青森へ!

9月22日三条京阪駅に集まれ!

・・と、乙訓の長老様から声かけがありましたが、本日の京都新聞朝刊にその記事が出ました。

会員はできるだけ参加して協力してあげて下さい。会員以外にもご紹介下さればありがたい限りです。

八月だ、もっと熱くなろう!  赤道直下のインドネシアSL撮影の旅 Part10 AMBARAWA(アンバラワ保存鉄道)

神谷武志企画のテレマカシーツアー  第6日目 8月9日 2の2

am: ペガロンガンのNirwana Hotel 6:30(約14キロ)→7:08スラギ製糖工場9:00→9:35 Hotel 9:45→
pm: →(約146キロ)→14:15アンバラワ保存鉄道(15:04~18:28)20:06(約65キロ)→23:34ソロ(スラカルタ)のIndah Palace Hotel


▲ アンバラワ保存鉄道の途中駅で蒸気機関車を見にきていた子供たち。澄みきった綺麗な目がとても印象的でした。


▲ GPSロガーの軌跡地図に計測ポイントを入れたペガロンガン→スラギ→アンバラワの走行地図です。計測ポイントの数は任意に指定できます。加工前の元本地図では、ポイントをクリックするとGPSデータが表示されます。約8分毎のポイントですが、多くなっているのが渋滞を起こした地点です。
ご覧のように右上のスマラン手前で渋滞に巻き込まれましたので、市内を避けて山中を迂回して走りアンバラワ鉄道に向かいました。 続きを読む

9月22日午後は三条京阪地下1階に集合!

先日【23496】で、どですか電氏から紹介されたDRFC現役が「サークルステーションIN三条」に参加する件ですが、クローバー会メンバーはもとより、DRFC・OBで時間の許す諸氏はぜひ京阪電車三条駅地下1階までお越しください。折角の京阪電車のお誘いに、我々も乗せてもらおうではありませんか。Nゲージでどんなパフォーマンスを展開してくれるか、やさしい目で見守ってやろうではありませんか。OB諸兄は現役たちに「何年度のなにがし」と名乗り上げ、8月25日のようにならないように、こちらから彼らを励ましてやろうではありませんか!

老人は午前中、佐竹先輩宅で打ち合わせがありますから、それを済ませた上で三条京阪に参ります。申し訳ないのですが12時開会に間に合いません。遅くなっても13時30分ぐらいには到着するようにします。老人は遅れて参加すると先着のクローバー会の方、伝言願います、15時30分閉会後、対岸に「王将」があります。希望者は餃子定食で生数杯如何でしょうか。ただし、割り勘ですからそのつもりでお付き合い下さい。