筑豊の中枢の機関区、直方機関区に移ります。地図を見ても分かるように、筑豊のど真ん中に位置していました。昭和40年代、筑豊本線だけでなく、細かく枝分かれした支線が張り巡らされていました。昭和43年3月に配置されていたのは、9600が19両、C11が5両、D51が4両、D60が11両で、45両もの蒸機が配置され、九州では、門司機関区に次ぐ配置両数でした。減ったとは言え、石炭列車は輸送の中心で、一般の貨物列車、旅客列車、それに各駅、専用線の入換に日夜活躍していました。「直」の区名板にふさわしく、実直に、愚直に働いていたのが、直方の蒸機と言えるでしょう。
▲「直」の区名板を付けた79652 近隣の若松、後藤寺などのキュウロクとともに、筑豊の各線で活躍を続けた(以下特記以外、昭和43年3月)。
9600 これほど好みの分かれる蒸機もないだろう。動輪径が小さく、全体に鈍重な印象で、優等列車を牽くような晴れ舞台もなく、つねに地味な働き場所だった。逆に、それがいかにも蒸機らしくて好きだという意見もある。山科の人間国宝さんもキュウロクが好き、と聞いた時に“なるほど”と思った。デフ、煙突の形状など、製造数が多いぶん、さまざまなスタイルに出会えるのも楽しみだった。
▲465レを牽いて直方を出る19680 同機は、昭和48年に北海道まで渡り、小樽築港、遠軽と転属して廃車となっている。北海道にいくらでもキュウロクはいたはずだが、よほど調子が良かったのだろうか。この465レを逆から見た右の写真には、石炭車には材木を積んでいることが分かる。この時期、入換にDD13が入線していたことも分かる。▲29695 田川線油須原~崎山を行く晩年の姿。この時は後藤寺区に転属していた(昭和49年8月)。▲区で待機する2両のキュウロク 29611と69642▲39625 圧縮機と空気溜めの取付けが、ほかのキュウロクとは逆になっている珍しいスタイル。▲筑豊本線の貨物を牽く39625 キュウロクの歯切れのいいブラストが響く。▲線路側に張り出した信号扱い所の下を行く39642 昭和48年直方区で廃車になっている。▲上山田線臼井から分岐する明治平山鉱の専用線に入線した49602▲直方駅のホームからも多くのキュウロクが望めた。手前は49602
▲伊田線の貨物を牽き出す49619 当機は行橋区へ転属後に廃車となった。撮影地は直方駅の南にある陸橋(県道467号)で、駅、機関区が見渡せる絶好の場所にあった。一時間もいると、顔が真っ黒になるほど、煙が絶えなかった。
▲直方機関区でD50と並ぶ49619(昭和44年3月)▲石炭列車を牽いて、遠賀川を渡り終えた49664 中間~筑前垣生▲660レを牽く49688 30~40両の石炭列車を軽々と牽く姿はキュウロクの魅力でもある。折尾~中間(昭和44年3月)
▲49688 通常、キュウロクの空気溜めはランボードを切り込んで装備されているが、当機はランボード上に載ったタイプ。 ▲▲69613 パイプ煙突、デフとキャブ下には点検用の切り欠きがある(昭和44年3月)
▲セム、セラを連ねて、折尾~中間の複々線の立体交差を行く69613(昭和45年9月)
▲69659 昭和43年訪問時に「二休」の札が入っていた。▲▲79652 ランボードに白線も入れられ、きれいに整備れていた。
総本家青信号特派員様
9600が大好きです。中でも筑豊の9600には格別な思い入れがあるようで、『筑豊』や『直方』の文字を見るだけで胸がときめくのです。デフの有無、煙突の形状、空気ダメの位置の違い、ランボードの形状等々、変化に富んだ形態も魅力でした。一枚一枚拡大して鑑賞し、時の経つのも忘れて楽しんでおります。
駅の南に架かる陸橋から撮影されたDD13 382ですが、排気管に万博のマークと「EXPO’70」が描かれてます。珍しいですねえ。
紫の1863さま
ご愛読いただき、ありがとうございます。はい、私もこの連載をしてから、目立たず地味な働きぶりのキュウロクが愛おしくなってきました。多く載せることで、それぞれの差異を知ることもできました。
DD13には確かに万博マークが入っていますね。改めて調べますと、撮影は昭和44年3月でした。九州では、団体列車での万博ツアーの誘客キャンペーンが盛んに行なわれていた時期でしたので、その認知策だったのかもしれません。それにしても、写真は、拡大しないと分かりません。丁寧に見ていただき、ありがとうございます。
総本家青信号特派員様
SL音痴の小生は、かつて『吹』で9600や8620に対面し、??だったのを思い出しました。
頭にCもDも無く、前者はD、後者はCやろ!と息まいた(笑)のを覚えています。
もっと驚いたのは79600や38600など『万単位』の番号でした。と、たわいも無い思い出話でした。
ところで、恥かき序でに勉強不足をもう一つ。有名な門デフの件。
何で下半分を切って有るんやろう?⇒ 後に九州特有とまでは知りましたが、何せ『電車屋?』だったもんで、この疑問は現在まで勉強する事もせず未だに疑問のまま棺桶に持って入ろうとしています。(笑)
SL界では常識、否、鉄の世界でも常識に逆らっている訳でも無く、ただズボラなだけで。
呆れ返るも、お心が有れば、恥を忍んでのお願いですので、そっと教えて下さい。
河さま
いつもコメント、ありがとうございます。門鉄デフですが、デフレクタの効用として、衝立のように仕切ることで、走ると上昇気流ができて、煙を上へ逃がして、運転室への流入を防ぐことができます。ただその効果があるのは、デフの上部のみで、下部は効果がないことが分かり、点検の便も考えて、下部を取り除いた切取式のデフが生まれたと言われます。初めて製作したのが小倉工場で、管理局名をとって「門鉄デフ」または「小工式デフ」と通称されています。
河 昭一郎様、総本家青信号特派員様
門鉄デフのみならず一般形のデフレクター(除煙板)についてその効用がよくわからず多分私もその疑問を棺桶まで持ち続けることでしょう。蒸機の運転経験がないので確信は持てませんが、昔、D50が9900と言ったころの写真を見るとデフなしです。18900、後のC51やC53も同じです。ということはその後デフの効果が実証されたのでしょう。門鉄デフはドイツ式除煙板ともいわれていましたが、下部が切り取られていてもその効果が失われることが少なかったのでしょう。ただ、門鉄デフが全国に拡大しなかったのは一般型デフの方が優れていたのかもしれません。長野工場式とか後藤工場式とかあるいは東北のC60などには煙突横付近に衝立のようなものもつけていたものもあり、いろいろ試行錯誤したのでしょう。門鉄デフはC57やC55等には格好よく見え九州の他機にも及んだのでしょうが、ボイラの太いC59やD52には不似合いで増えませんでした。タンク機は入れ換え、逆向き運転や低速運転が多いのでほとんどデフなしです。入れ換え機となりデフを外したD51もいましたね。アメリカの蒸機はほとんどデフなしですが、ビデオを見ると煙が上に力強く上がるシーンが多いです。
飛行機が上昇するのは何となくわかるのですが、蒸機の煙による視界妨害を軽減をするデフの実際の効用はよくわかりません。ただ、門鉄デフは好きでした。
門鉄デフはやはりかっこええですね。純粋な?門鉄デフではないですがD51499は特にかっこええ。何やらドイツの機関車みたいで、山陰線にいたので見られるかと思ったのですが見られずじまいでした。ところで気になるのでドイツの除煙板について検索すると日本にある一般的な大きな除煙板が最初で名前もワーグナー式除煙板というそうです。写真を見ると日本のものと違って、とんでもなく大きいものです。そして上部だけのものは戦後に当時の西ドイツで開発されたものだそうです。ウィッテ式(ヴィッテとも)というそうです。ただ除煙板の取り付け方が違うので見た印象は異なるように思います。さすがドイツ人です。風洞実験を繰り返して開発設計したようです。
どですかでんさんへ
これですか?一度だけ会いました。
あれ!ドイツにもDF50 があったんですか?大発見や~
総本家青信号特派員殿
私はなかなか九州・筑豊へ足が向かず、いよいよ晩年に油須原や後藤寺を訪ねただけに終わりました。活気ある直方の様子がよくわかりました。平成8年に出張で直方に行く機会があり、同僚と別れて1泊し 石炭記念館を訪ねたことがあります。貝島のコッペル32号機やC11131などを撮っています。貴君の写真のなかで、石炭車に木材を満載している貴重なコマがありますが、この19680の後ろの高台が現在石炭記念館がある場所のようです。
総本家青信号特派員殿
上記の記念館訪問の日に直方駅を撮った写真がありました。構内は閑散としていますが、手前に半円形の構造物の痕跡?が見えます。ここにターンテーブルがあったのでしょうか?
西村様
石炭記念館の写真、ターンテーブル跡の写真、ありがとうございます。私は何度も直方へ行っているのですが、石炭記念館にはついぞ行かず仕舞いでした。貝島の蒸機もたしか保存されているはずですね。ターンテーブルはホームのすぐ横にあって、よく見えました。左手には扇形庫がありました。
私は昨年直方石炭記念館に行きました。西村さんの写真は記念館に行く橋から撮られたのでしょうか?私のは記念館から駅の方向に撮った写真ですが、この橋は機関区の転車台を持ってきたものだそうです。
機関区の跡は直方車両センターになっていて、813系や817系が並んでいます。西村さんが撮られた平成8年とはまたすっかり変わりました。
大津の86さま
石炭記念館前の陸橋の写真、ありがとうございます。なんと転車台が転用されているのですね。全く知りませんでした。「鉄道廃線跡を歩くⅨ」にも写真付きで載っていました。この号は私も原稿を書いていたのですが、全く気が付きませんでした。ただ、同誌では昭和46年にすでに設置されていたとあり、私の扇形庫前の転車台の写真と見比べても形が違います。よく調べると、直方には、ほかにもターンテーブルがあり、蒸機の廃止に先立って撤去されて転用されたようです。
大津の86様
この橋の上から撮ったと思いますが、さっぱり覚えていません。ターンテーブルを跨線橋に転用するとは、直方には大したアイデアマンがいたようですね。それとターンテーブルがこんなに長いものだということを改めて認識しました。
西村雅幸様
転車台の跡に間違いありません。
西村様が撮影された跨線橋からは機関区が見渡せ、今でいう「お立ち台」でした。
平成12年に立ち寄ったのですが、線路は2本に減ってしまい、扇形庫があった場所では検修庫の建設が始まっておりました。
大津の86様
石炭記念館のコッペルを、この橋の上から撮影しましたが、転車台を転用したものとは今の今まで知りませんでした。ネガを探しましたところ、隅の方に写っておりました。平成12年の時点では視界を遮るフェンスはなく、こんなところにも時代を感じます。
総本家青信号特派員様
早速のご教示、ありがとうございました。
そうでしたか。私は、また何か九州特有の気象や地形に係わる事情が存在し、それに対する特効が有ってワザワザ穴を空けたんだとばかり思って居ました。
もとより、デフ自体は煙に対する気流効果を狙ったものとは思って居ましたが、有名な『穴空け』は、ただ単に作業効率を求めたのみの理由でしたか。
私は、穴を空けると気流効果が下がるんとチャウやろか?と考え過ぎてました。
しかし、門鉄(小倉工場)は度胸が有りますネェ。時の国鉄は典型的な官僚組織、他の多くの管理局をしり目に『勝手に?』特殊加工をするなんて事は。
本省も又、良く認めたもので・・・この件、『隠密作戦⇒仕方なく認めた』等、多分ちょっとした裏話も有るんでしょうネ。
それにしても全国の他の工場では施工例が無いようなので、作業効率についての効果は、あまり無かったんでしょうネ。