筑豊の蒸機機関区の最後として、行橋機関区に参ります。行橋は、日豊本線から田川線の分岐する駅で、初めて行った昭和42年3月当時、日豊本線は、新田原まで電化していて、旅客はほぼ421系電車化されていました。しかし、一部の客車列車は、電機の製造が追いつかず、蒸機牽引で残っていました。貨物も同様で、門司、柳ヶ浦区の蒸機が、架線の下を黒煙を上げながら走る光景が見られました。いっぽうの田川線は、ほかの筑豊に多く見られる支線ですが、日豊本線苅田から分岐する苅田港(貨物専用)からの石炭・石灰岩の船積み搬出ルートの一翼を担っていました。苅田港の設備は、ほかの若松などの積出し設備に比べて新しく、徐々に扱い量が増加し、田川線は重用されていました。田川線油須原からは、添田方面に出る短絡線の油須原新線も建設中で、将来が嘱望されていました。石炭がの末路が予測されている時代に新線建設とは、今から見れば不可思議なことですが、まだ一定量の輸送はあった時代でした。しかしその数年後、石炭産出はさらに激減し、新線建設も未成線のまま終わります。そんなエネルギー革命の波に翻弄されてきた田川線で、ほぼ独占して客貨を牽いていたのが、行橋区のキュウロクで、「行」の区名板に相応しく、懸命に我が道を進む姿を彷彿させたものです。▲化粧煙突、切取式デフを装備した、筑豊のキュウロクの典型59684 お世辞にもスタイル映えのしないキュウロクであっても、ロッドを下げた姿は、形式写真としての価値を高めていた。行橋 昭和43年3月▲行橋のキュウロクは昭和43年3月時点で11両いた。沿線の至るところで見ることができて、筑豊の人びとの生活の中に当たり前のように溶け込んでいた。79657 船尾 昭和49年8月
▲「行」の区名板を見せて行橋区の転車台に乗る19626 九州内の区を転々として行橋に来た。K-7型の切取式デフを付けている。昭和43年3月▲19626が、煙でもうもうとした構内で石炭車を引き出す。後藤寺 昭和43年3月▲行橋区は行橋駅の南西部に位置していた。扇形庫はなく、矩形庫だけの比較的コンパクトな規模だった。39682と19626が並ぶ。昭和43年3月
▲石灰岩・セメントの搬入・搬出駅の船尾で入換に励む29612 九州を転々として昭和46年に行橋に来た。昭和49年廃車となり、志免町で保存展示されたのち、2016年に久大本線豊後森駅近くの豊後森機関庫ミュージアムに、露天ながら、きれいな姿で保存展示されている。
昭和48年8月
▲現役時代の29612と、豊後森で保存中の同機(右) 2018年4月
▲39639 切取式デフだが、下辺が斜めになったK-8型を取付けている。昭和43年3月▲田川線油須原~勾金の20‰勾配区間を行く462レ 牽引は標準デフの39669 昭和44年3月▲セメント工場が見える船尾駅の49688 ランボードが一直線のタイプ 昭和48年8月▲油須原を下って行くセム・セラの返空列車491レ 49691 昭和44年3月▲49692 C51から譲り受けたK-7型の切取式デフを付けている。興味深いのは、小さな副灯を付けていること、同機は昭和36年に田端区から転属している。それまでに取付けられたのか、九州へ来てから工場入り時に取り付けられたのかは不明。行橋 昭和43年3月▲重連逆向で中元寺川を渡って行く。先頭59634 山形、米沢区が長く、米坂線で客貨を牽いた。昭和49年8月▲大きくカーブした油須原駅でタブレットを投下して通過する返空貨物 59634 同機は門司港にある九州鉄道記念館で展示中 昭和49年8月▲K-7型デフの59647 昭和49年12月の筑豊本線のさよなら蒸機列車を、下掲の59684と重連で牽く。現在は、直方にあるNPO法人「汽車倶楽部」で大事に保存されている。後藤寺 昭和49年8月▲昭和49年になってから小倉工場で検査を受け、ピカピカの姿で出場したばかりだった59684。同年12月のさよなら列車の先頭に立つことが内定していたのか、デフにまで縁取りが入っている。現在、田川市の石炭資料館で保存中。後藤寺 昭和49年8月▲初めて行橋に行った昭和42年3月当時の79668 その後、C5058から譲り受けた「波に千鳥」のデフを譲り受けて装備した。行橋▲油須原~崎山を行く下りホキの返空列車 機号不明 煙室扉に見える白い部分は、例の石灰で書いた落書きで、労使の対立から、きれいだった九州の蒸機にも陰りが見えてきた時期だった。昭和49年8月▲油須原~勾金の田川線の石炭列車458レ 79688が牽引 田川線には43・10改正で、6~18時の間、旅客8本、貨物10本の蒸機列車があった。俯瞰が利く、この場所はいちばんの撮影地だった。蒸機のすぐ後に見えるコンクリの擁壁部が、建設中の油須原新線、当時は本気で建設を進めていたが、途中で中止され未成線となった。現在、地元の赤村が路盤を利用した、クルマが牽くトロッコ列車を走らせている。昭和44年3月
総本家青信号特派員様の蒸気シリーズ、いつも楽しく拝見しております。特に今回の九州編は、中1の頃日田駅の近くに住んでいて、駅に出入りするD60を眺めていたので特に懐かしく感じました。
昨年の11月30日、豊後森の扇形機関庫前の広場に29612が非常に美しい姿で保存展示されていました。
代理投稿
代理投稿、ありがとうございます。私も、豊後森の機関庫ミュージアムに行きました。たいへんキレイな状態で感動しました。周囲の雰囲気もよく、ゆっくりできました。背後に、水戸岡鋭治さん改修のミュージアムもあって、国鉄OBの方から、いろいろ話を聞くことができました。
先程の投稿で画像を送れなかったので、米手様経由で画像を載せることが出来ました。ありがとうございます。
豊後森の扇形機関庫は、ガラスが割れて荒廃しておりますが、遺産としての価値は十分にあります。
ワラクロ屋さま
あたたかいコメントを頂戴し、ありがとうございます。ワラクロ屋さんは、枕崎だけでなく、日田にも住んでおられたこと、思い出しました。私も日田の街は大好きで、一昨年は、伝建地区の豆田町をゆっくり観光しましたし、先月も久大本線へ行った時は、駅前のホテルに二泊して、桜を撮りに行きました。久大本線は、とくに思い入れのある線区です。また別項として、思い出を綴ってみたいと思っています。
行橋機関区には門鉄デフのキュウロクが、たくさんいましたねぇ。大正生まれの貨物機に、門デフは不釣り合いとの意見もありますが、私は門デフのキュウロクが来ると喜んでおりました。19626は九州で出会えた現役最後の蒸気機関車で、39682は運転室の裾が切り取られた特異な形が印象的でした。そんな両機が並ぶ写真を拝見し、感慨もひとしおです。
ホームからキュウロクがすぐ近くに見えた行橋駅も高架駅になり、機関区の痕跡を見つけるのも困難です。蒸気機関車が日常の風景だった日は遠い過去のものとなりましたが、私も「やっぱり蒸機が好き!」です。
紫の1863さま
行橋の思い出、ありがとうございます。CやDの付く制式蒸機ですと、号機ごとの特徴はよく言われますが、8620や9600となると、数字の羅列になって、一両ごとの個体差がよく分かりませんでした。今回やってみて、やっと全容をつかめました。39682がキャブ下を切り取って一直線になった蒸機でしたか、写真は正面勝ちでよく分かりませんでしたが、何かの本で見た記憶があります。やっぱり、蒸機は現役時代に限りますね。
はじめまして、写真と撮影当時の思い出話しすばらしいです、当方昭和45年生まれで、かすかに後藤寺機関区転車台でまわる蒸機の記憶しかありません、のちに機関区で解体される蒸機見て寂しく感じていました、2枚目の学生二人と79657の場所おそらく勾金駅ではないでしょうか。駅舎側ホームから見るとこの感じです。
59684整備人さま
ご指摘、ありがとうございます。記事にも書いたのですが、この写真を撮った際の記録・記憶がはっきりしませんでした。ただフィルムの並びを見ると、船尾で撮ってから、勾金に移動していたため、船尾としたのですが、たしかに船尾はもっと大きな構内で全体がカーブしていました。「勾金」と訂正します。「59684」と言えば、田川市の石炭・歴史博物館に保存されている蒸機ですね。その整備に携わっておられるのですか?
田川市石炭・歴史博物館59684たまに10年くらい整備しています、制輪子おろして整備、元空気溜にエアためればブレーキ動きます、初めて圧縮空気入れた時あちこち漏れすぎどこから手をつけたらの状態でした、現在の擬似可動部分は、ブレーキ、主発電機、ATS発電機、複式空気圧縮機、シリンダドレン、バイパスコック、逆転機、手ブレーキ、連結器、です、次回の課題は加減弁かな、ぼちぼちとやってます。
59684整備人さま
てっきり静態保存かと思っていましたら、こんなに可動する部分があるのですね。たいへんなご苦労があったことと思います。私も筑豊のことを回顧して、もう一度、筑豊へ行きたくなりました。また厳しい状況に戻っており、しばらくは難しいですが、また行かせていただきます。